# 118
細い指が僕の頬を滑る。
あの少年をわかった僕だからこそ、自分の事もわかってくれるだろうと、佐久間さんは僕に問い掛けた。
…卑怯だ。
わからないと首を振っても、聞き入れはしないのだろう。もう、僕の心などお見通しなのだろうに、あえてそんな問いをする。なんて、ズルイ人なのだろう。
ただ自分のためにだけ我が儘を言う僕は、そう言われてはそんな自分を殺すしかない。僕を納得させなければならない義務は佐久間さんにはないのだ。今一番迷惑をかけているのはこの僕でしかないのだと、佐久間さんは僕に教える。そんな事はわかっていても認めたくはないのだという思いすら、僕に捨てさせる。
もう何を言っても無駄なのだと悟った僕は、握っていたペンを放し、佐久間さんの手に手を重ねた。
その時。
「保志くん!」
バンッと低い鋭い音が部屋に響いた。佐久間さんが僕の肩を抱き、ベッドに体を倒す。
上がった音が銃声だと僕が気付いた時、勢いよく客室のドアが開けられた。少し頭を上げそちらを見ると、数瞬の間を置いて拳銃を手にした二人の男が入ってくる。ベッドの上で横たわる僕と佐久間さんに、彼らはその銃口を向けてきた。
倒れた際、体の下になった拳銃を再び手にしながら、僕は佐久間さんを押しのけ体を起こす。
「動かないで下さい、保志さん」
福島氏が僕にそう要求したが、聞き入れる気は全くなかった。相手は僕を敵だと判断したのか、僕の動きを銃口が追ってくる。だが、先程のように身の毛立つ恐怖はなかった。
もうどうにもならないのだという悲しみが、僕を投げ遣りにさせているのだろうか。
「保志くん、駄目だよ。ね…」
佐久間さんが、上げようとした拳銃を握る手に手を重ねてきた。
「いい加減にしろ、保志」
部下の二人に遅れる形で部屋に入ってきた筑波直純が、未だ拳銃を手にした僕を叱責する。その姿を、僕はただ眺めた。怒り声など、僕の耳を通り越すだけのもので何の威力もない。
「保志、それを寄越せ」
近付きながら、男は低い声で言った。怒っているのだろう、眉間に皺が寄っているが、今すぐに落とし前をつける気はないのか、先程の拳銃は手にしてはいない。上着の下に持ってはいるのだろうが、手をかける素振りもない。
それに対して強気になったわけではないが、僕は近寄ってくる男を睨みつけた。男はふと足を止め、僕を見下ろす。そこに、いつもの穏やかさはない。僕の知らない顔だ。
しかし、怖くはなかった。こういう顔もするのかと、僕も男の何を見ていたのだろうかと思うだけだ。見たものが嘘だとは思わない。佐久間さんのように演技が出来る人間には思えない。だが、僕が見たものは極一部でしかないのだと、改めて気付く。
ヤクザと呼ばれる者だと知っていても、僕はそれ以外の事は知らない。知りたいと思わなかったし、知る必要もないと思った。同じように、男も何処のどんな組にいるだとか、どんな立場なのだとか、僕に多くは語らなかった。それは必要ないからだろうと、僕はそう思っていたのだが。
喩え興味がなくとも、知るべきだったのかもしれないと今になって思う。もっと、自分が何処にいるのか、どんな場所にいるのか、把握しておくべきだったのだろう。佐久間さんが意識するような、天川が耳を傾けるような。そんな近くで男と関係を築いていたのだと、自覚しておくべきだったのだ。今になってはもう遅いのだが、悔やまずにはいられない。そうしていたのなら、こんな事になる前に、何らかの対処が出来たかもしれないのだ。
もし、僕が筑波直純とこうも関わっていなかったのなら。
彼がこの事に首を突っ込まなかったのなら。
天川が彼の話に耳を貸さなかったのなら。
こんな事にはならなかったのかもしれない。
そう、少なくとも、銃口を向け合う事などしなかっただろう。馬鹿げた事態には陥らなかっただろうと、僕は男の姿を見ながらそう思った。
元々知り合いだった彼ら三人であれば、きっとその関係はもっと長く続いただろう。僕がそこに入り込まなければ、過去を引き出さなければ、こんな事にはなりはしなかった。筑波直純と、関係を持たなければ…。
そんな思いが僕の中を駆け回るが、それでも後悔はしていない。僕はこの男と出会えた事は良かったと思う。佐久間さんと再会出来たことも良かったと思う。どちらかが欠けていたらこんな事にはならなかったとわかっていても、僕はどちらも欲しただろう。
結局は、決まっていた結果だったのかもしれない。あの時、佐久間さんと店で再会した時から。
いや、筑波直純と出会った時から、か。
それとも、もしかすれば。
もしかすれば、友人があの最後を選んだ時から、彼が天川に惹かれた時から、全てが決まっていたのかもしれない。そう、最初から。
何にしても、結局は、僕は天川を中心とする彼らにとっては部外者でしかなく騒いでも無駄なものだったのだ。
そう、騒いでも無駄なのだ。そんな事は、初めからわかっていた。だから、僕は彼ら三人の関係に首を突っ込む事を避けた。ただ、あの友人が傍にいればいいと、それだけを思っていた。
それなのに。
何故、この男は騒いだのだろう。無駄だと言う事が、わからなかったのだろうか。天川と佐久間さんの関係に、自分が入り込めるとでも思ったのか。何かをすればただ引き裂くだけなのだと、気付かなかったのか。それとも、知っていてそうしたのか。
筑波直純を見上げながら、僕は誰ともなく問い掛けた。
今更、答えなど示されても仕方がない。ただ、納得し切れない自分を甘やかすための問い掛けだ。わからないと耳を塞いでいたい子供なのだろう、僕は。何故だと八つ当たりする気力も、もう残ってはいない。だが、全てを理解する意気地もない。これでは、わからないと言っていれば傷付きはしないかのように一心に首を振る子供だ。
一気に体から力が抜け、僕は俯く形で男から目を逸らした。視線の先に、男の靴が見える。いつかじっと見つめた時と同じ、今日一日を動き回ったはずなのに、草臥れた様子は全く見せない綺麗な黒靴が。
「筑波くん。司は?」
佐久間さんが僕の手から拳銃を抜きながら、背中越しに男にそう問い掛けた。奪い返す気力もわかず、彼の手に移ったそれを僕は眺める。
「…おい、天川」
男が名前を呼ぶと、天川が部屋に姿を見せた。どこか疲れたその様子は、子供のように見える。僕や佐久間さん以上に疲労の濃い顔は、先程撃ってみろよと僕を煽った人物だとは到底思えないものだ。
「佐久間。それを寄越せ」
「ああ。はい、どうぞ。でも、もう弾は入っていないよ」
一発だけだったんだと、佐久間さんは玩具でも扱うかうかのように、男に向かって拳銃を放った。鈍い軌道を描き、銃が筑波直純の手に渡る。その軌跡を追いながら、僕は耳に流れた言葉をワンテンポ遅れて頭で理解し、ギョッと目を見開いた。なんて事なのだ。
弾丸のない銃を楯にしようとしていた自分を間抜けだと思う余裕もない。知らされたその事実は、あまりにも自虐的なそれだった。5弾か6弾か銃に詳しくない僕には弾倉を外して数えない限り知り得はしないが、それでも弾は入れられるだけつめられているのだと思っていた。初めて握ったその重さでいくつ弾丸が込められているのかわかる訳がなく、そう思うのは当然だろう。信じて疑いもしなかった。そう多分、銃口を向けられた男達もそう思ったはずだ。
そんな相手に、たった一発の弾丸しか用意されていないなどというのは、死ぬ気だったのかとしか思えない、自殺行為だ。何のための一発のつもりで、佐久間さんはそんな銃を手にしたのか。相手にするのは、撃った瞬間には撃ち返すような者達なのだ。いや、ヤクザなのだから、やられる前にやるのかもしれない。そんな相手に、やはり佐久間さんが発砲するなど考えられない。誰かに向けたら最後、どうなるのかわからないのだ。天川がいるのだからこそ、そんな危険は犯さないだろう。
ならば、僕に向けたのは成り行きで、まさか、自らに向けるためのものだったのだと…?
行き着くのはやはりそこしかないのか…。
ガチャリと弾倉を外し、筑波直純が佐久間さんの言葉を確かめ、眉間に皺を寄せた。何を考えているのだと言うように、僅かに呆れ顔を浮かべながら視線を戻す。その目に応えたのか、僕の横で佐久間さんは小さく喉を鳴らした。
「他の弾を既に使ったわけじゃないよ、元々一発だけだったんだ。気にしないで」
「S&Wか、…天川に貰ったのか」
「まさか。司に頼めるわけがないだろう、わかり易過ぎる。何をするのもばれてしまうじゃないか、それじゃあ」
「だろうな」
山口と呼ばれたがっしりとした体躯の男に弾のない拳銃を渡しながら、馬鹿にしたような笑いを鼻から落とし、男は低く吐き捨てる。
「ならば、天川内部に、あいつ以上に使える協力者がいると言うところか」
「天川関係じゃない、全くの別ルートだ。君が知る必要はないところのね。僕にだって、色々と付き合いはある。拳銃を入手出来るのは、何も天川だけじゃないだろう」
佐久間さんは世間話のように応えながら、僕の肩に手を乗せた。まるで、大丈夫かと気遣うように、確りしろよと励ますように、二度そこを軽く叩く。現金にも、それは僕に温もりを伝えた。
悲観している場合ではないと、僕はまずは冷静になろうと大きな息を吐く。
「さて、それで、司。君は何故ここに来たんだい?」
「…聞きたい事が、あった」
「そう。なら、答えるから、今聞いてよ」
もう、二人きりにはなれないだろう。
天川にそう言いながら、佐久間さんは再び僕の手に手を重ねてきた。幾分強くベッドに押さえつけるかのようなそれは、何もするなと、口を挟まないでくれという事なのだろう。
「保志。お前は、行くぞ」
筑波直純がそう言い、空いていた短い距離を詰め僕と佐久間さんの前に立った。
「いや、居て欲しい」
佐久間さんがきっぱりと口にする。
「駄目かな、保志くん。僕は君に居て欲しいんだ」
考えるよりも早く、僕はその言葉に頷いた。
まるで、あの友人そのものだった。いや、彼がそうしたからこそ、あえて同じ事を佐久間さんは願ったのかもしれない。
天川との決別を、僕の前で。だから、僕をここに連れてきたのだろう。
多分、佐久間さんは、もっとスマートな脚本を書いていたのだろう。こんなにも惨めなものにしたのは、他でもないこの僕だ。ならば、僕は。それを見届けなければならない。
僕は自分に都合よく、そんな事を考えた。
2003/10/23