# 119

「おい、まだ…」
 そんな事を言うのかと苛立つ筑波直純を見上げ、大丈夫だと僕は唇を動かす。その言葉を読み取れたからか、それともわからなかったからだろうか、眉間に皺を刻む男の手に、僕は手を伸ばした。だが、目の前にあるそれはなんだかとても遠く、触れる前に僕は指を曲げ手を戻す。触れたからといってこの心が伝わるわけでもなく、何よりも、避けられるのが怖かった。そう、男も怒っている相手になど触れられたくはないだろう。
「…秀。お前は、そいつとどう言う関係なんだ」
 天川の声に助けられるかのように、僕は男から視線を逸らし、声が上がった方に首を向けた。まるでどこか脅えるかのように、天川は距離をとって立っている。佐久間さんの横顔越しに見たその顔は、不安と言うよりも、既に絶望を見たかのようなものだ。
 天川の中でも、もう終わりが見えているのだろう。僕が望んだような和解は、有り得ないのだろう。
 僕は佐久間さんに押さえられた手を逆に反し、彼の手を確りと握った。
 あなたはこれで、本当にいいのだろか。避けられない事なのだとしても、本当に納得出来るのか。
 真っ直ぐと天川を見つめるその横顔に、僕は静かに問い掛ける。
「友人だと言えば納得するかい? それとも、僕の答えはもう君の中にあるのかな?」
「……そいつは、誠の…」
「そう、友達だ。あの時の、生き残りだ。だから、君は保志くんを嫌っていたんだったよね」
「だから、お前はそいつをどうにかしようとしたのか…? 俺の気を引くために、俺をそいつの会わせたのか?」
「さあ、何の事を言っているのかな、司。わからないよ。僕は、君が探していたようだから保志くんを紹介しただけだ。気を引くためってなんだい、それは」
 佐久間さんはそう言い、小さく首を傾げた。そんな彼に、筑波直純が言葉を落とす。
「言っただろう、佐久間。天川はお前のやった事を全て知っているんだ。惚けても無駄だ」
「知っているというか、正確には、無理やり教えたんじゃないのかい、筑波くん」
「そうだとしても、同じ事だ。お前がした事には変わりない」
「嘘を吹き込んだんじゃないの」
「喩えそうでも、天川がどう判断するかだろう」
「確かに、そうだね」
 やれやれと言うように軽く肩を竦める佐久間さんに、「尤も。いい加減な情報はこちらの命取りになる、そんな賭けを俺はしない。天川には事実を伝えた」と男は言い切る。
「お前が天川を自分だけのものにしたくて、保志をいいように扱おうとした事も、あいつの弟を殺した事も、他の事も全てわかっているんだ、観念しろ」
 僕には何の事だかわからない幾つかの具体的な事柄を挙げながら、それが佐久間さんの計画によるものだと男は本人に突きつけた。だが、筑波直純のそれに彼は、クスクスと笑いを落とす。肯定も否定もせず、それがどうしたのかと言うように。
「そう。でも、だから何だっていうのかな。そんなの、ただ適当にパズルを組み立てただけだろう。確固たる証拠ではない。僕ではなくとも、誰かを犯人にする事も出来るよ、そんな推理じゃあね。そう、君がそうしたいがために作ったものだろう。
 司はこんなものを信じたのかい? 何だ、本当にそんな事で、こんな事になっていたのかい。僕はまたもっと別の事かと思ったよ。覚悟をして損したのかな」
「まだ、何かあるのか」
「ま、ヤバイ事は色々とある。今君が突きつけた事は可愛いくらいのね――なんて、嘘だよ。司もそうだが、筑波くんも意外と悪乗りをするね。僕を陥れたいのはわからなくもないが、そんな非人道的な役回りにするのはあからさま過ぎないかい? 漫画か何かのネタだよ、それだと」
「…嘘、なのか」
 天川の問いに、佐久間さんは優しく微笑む。
「ああ、そうだ――って言ったら信じてくれる? 筑波くんも言っただろう。真実なんて、どうでもいいんだよ、本当は。大事なのは、君がどう思うかだ。司は、何を、誰を信じる?」
「ぺらぺらと良く喋れるものだ。天川も、いい加減しろ。また同じ目に会いたいのか、お前は。こいつが側にいる限り、同じ事の繰り返しだぞ。お前は…」
「煩いよ、筑波くん。君の意見はどうでもいい。僕が大切なのは、司だ。君に嫌われても僕は痛くも痒くもないから、勝手に言っているのはかまわないんだけれど、司を追い詰めるのはやめて欲しいね。
 ねえ、司。筑波くんが君を利用しようとしていないと思っているのかい? 彼は僕を責めるけど、僕からすれば今のこの状況は、君を取り込むために邪魔な僕を削除しようとしているように感じられるんだけど、そう思わないか? 本当に、司は僕を捨てるのかい。筑波くんを信じるの?」
「悪足掻きとは、惨めだぞ、佐久間。お前が何と言おうと、多くの証拠が上がっているんだ。それに。もし、ここで天川がお前を許したとしても、もうお前は終わりだよ」
 ここまで来たら、天川もお前を救えはしない。
 男が零したその言葉に、強く反応したのは天川の方だった。言われた佐久間さんは、その言葉の意味を直ぐに察し納得したのか、ただ小さく笑う。
「根回しがいいね」
「言っただろう。危ない賭けはしないと」
「…ああ、なるほど、そうだね。保志くんがいるからね」
「筑波、お前――あの人に言ったのか…?」
「いや、まだだ。予想以上に動くのが早くなったからな。だが、伝わるのも時間の問題だろう」
 天川が漸くと言ったふうに言葉を搾り出し、男の返答に頭を落とした。俯いたまま、片手で顔を隠す。
 あの人とは、天川氏の事なのだろう。厳しいというか、冷徹な人間であるような父親の事だ、事実はどうであれ自分の息子に関係する醜聞を放っておく事は有りえないと言う事なのだろう。確かに、たとえ後継ぎである息子の友人でも何でも、自分が気に入らなければあっさりと切り捨てさせそうな人物だ。
 実際にその者を見た事はなく、情報と言えば友人から聞いた程度なのだが、それでも天川が太刀打ち出来ない人物である事は僕にも簡単にわかる。
 天川にとってはもう、どうにもならない事なのだろう。彼が筑波直純の話に耳を傾けた時点で、こうなる計画だったのだ。知らなかったのは、気付いていなかったのは、天川だけか。
「――秀…。誠は、何故、死んだんだ…?」
 声が震えるのは、周到な男の計画に自分が乗ってしまった後悔か。予想しなかったほどに、大きくなってしまった事態にか。それとも、友人を救えない無力な自分に対してなのか。
 自分の立場を思い知ったはずの天川は、けれども未だ迷うように佐久間さんにそう問い掛けた。まるでその応えによっては別の道を選ぼうというかのように、それはどこか縋るようにも聞こえるがとても落ち着いたものでもある。選択肢の前に漸く自ら立ったような感じだ。
「今更、なんだい。君も知っている通り、彼は自殺したんだ。ねえ、保志くん。君は見ていたんだ、知っているよね。彼は自ら自分の胸を撃ち抜いた、そうだろう?」
 天川の決意に気付いていないことはないだろうに、佐久間さんはどこか茶化すように言う。いや、気付いているからこその態度なのだろう。だからこそ、ここでそれを自分が潰すのだと、天川以上に強い思いを彼は持っている。
 問い掛けられた言葉に僕がゆっくり頷くと、筑波直純が声を荒げた。
「お前もいい加減にしろ、保志。佐久間を信じるな。お前の親友を殺したのは、こいつだ。確かに直接じゃないようだが、こいつが天川の弟に銃を渡したのは事実だ」
 そう、喩えそれが本当だったとしても、銃を渡しただけではないか。殺したわけではない。なのに、天川は僕のようには思わないらしい。男の言葉に、その顔が歪む。
「…本当なのか、秀」
 何故、長い間一緒に居た友人同士で、佐久間さんのそれに気付かないのか。とても歯痒い。だが、そう仕向けたのは、他ならぬ佐久間さん自身なのだろう。天川が気付けるわけもないのだと納得するしかない。けれども、それが余計に僕には悔しかった。
 悔しくて悔しくて、堪らない。
「本当だよ、それは。だけど、それが、何?」
 あっさりと、佐久間さんが頷く。
「何じゃない! 何故だっ!」
 天川は佐久間さんの策に、見事にはまっていた。自分がここで悪者になるように、卑しく笑う彼の姿に騙されきっている。自らを救うのであれば、決して頷くはずはないと、普通はもっと言い訳を並べるものだと、何故気付かないのか。
「邪魔だったからに決まっているさ。向こうも僕をそう思っていた。だから、ちょっとけしかけたんだよ。やれるものならやってみろと、さっき君が保志くんに言ったみたいに。
 彼は君を愛していた。そして、君もね。それが鬱陶しかったんだ。どんな使い方をしても、銃は違法なものだ。所持している事がばれたら彼は君の傍に居られなくなる。警察に捕まるか、天川氏に捨てられるかはわからないが、何にしろ僕にとってはいい事だ。  彼は僕を撃ち殺せるほど、彼は子供でも大人でもなかった。だから、その点は安心していた。ま、だからこそ与えられたんだけどね。でも、まさか、あんな風に自殺をするとは思っていなかったよ。僕としては腕や脚の一、二本はくれてやる覚悟をしていたからさ、なんか拍子抜けだったよね」
「……」
 天川の顔から、血の気が引いていくのが見ていてわかった。彼でなくとも、聞くに堪えがたいものだ。
 佐久間さんの手を、僕は強く握った。堪らない。

 辛いのは、佐久間さんの心を思ってか、それとも、自分の胸の痛みにか。
 この事態を招いたのは、誰でもない、僕なのだ。
 まるで、これがあの少年を苦しめた二人への復讐かのように。

2003/10/23
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