# 121
突然のくちづけは、僕の頭を真っ白にさせた。
唇に硬いものが当てられ、我にかえる。予想外の感触に驚き、僕は小さく口を開けた。
そこから僕の口の中に入ってきたのは、小さなリングだった。何だろうかと舌に乗ったそれを訝り、ひとつのものが僕の頭に浮かぶ。そう、数時間前まで僕の指にあった、あの指輪だ。
佐久間さんの指が、僕の頬を滑る。何故、と問い掛けかけ、それが無理な事を思い出し、僕は漸く頭を引いた。唇を離した佐久間さんが、悪戯を成功させた子供のように笑う。そして。
色んな意味で驚く僕にではなく、側に立つ男に声をかけた。
「筑波くん、そう怒らないでよ」
ただの別れのキスだよと、佐久間さんはおどける。
「何なら君にもしてあげようか?」
「…行くぞ、保志」
佐久間さんの問いには答えず、筑波直純は僕の腕を掴みあげ、座り込んでいたベッドから僕を立たせた。呆けかけてた頭が一瞬その動きについていけずにぐらつく。そんな僕を、同じように立ち上がった佐久間さんが支えてくれた。
部下に指示を出し部屋を出て行く男の後を、佐久間さんに促される形で続く。客間を出て隣に並んだ佐久間さんは、こっそりと何かを打ち明けるかのように僕の耳に囁いた。
「僕は、ここでリタイアだ。逃げ出すよ」
その言葉に横を振り向くと、佐久間さんが視線で前方を示す。部屋の扉の前に、筑波直純が不機嫌そうな顔をして立ちこちらを見ていた。
「早く来い」
低くそう言い放つ男に軽い笑いを漏らし、「怖いね。後で大変だよ、保志くん」と佐久間さんは茶化す。そして。
「筑波くん。悪いが一分でいい、待ってくれ」
足を止め、離れた場所に立つ男にも聞こえるようにそう言うと、その返事を待つ事もせずに佐久間さんは僕と向きあった。
「保志くん。今日の事は本当に、君には悪かったと思っている。まさか、君がそこまで考えているなんて思わなかったんだよ。僕の事を思うなんて、想像もしていなかった。知っていたのなら、こんな事には巻き込まなかったのにね」
本当にすまないと謝罪を口にする佐久間さんに、そんな事はどうでもいいのだと僕は首を振る。謝らなければならないのは、僕の方なのだ。それなにの、今、この与えられた短い時間では、それが出来ない。
僕も考えがなさ過ぎたのだと、壁に指を伸ばし伝えようとしたが、その手を佐久間さんはやんわりと押さえた。
「君は、悪くはない。逆に僕はありがたかったと思う。君には、助けられたよ。ありがとう」
何の事か、わからなかった。怒られるのが当然だというのに、何故、礼を言われるのか。
驚く僕に、「嘘じゃないよ」と佐久間さんは苦笑する。
「君がいなければ、僕はもっと間違いを犯すところだった。君に辛い思いをさせてしまったのは悪いが、僕にとっては君がいてくれて良かったよ。
正直に言うと、僕は誠くんに嫉妬していたんだ。司の事もそうだけど、君の事もそうだ。君のような友人を持てる事が、とても羨ましかった。僕はこんななのに、そう卑屈になった事も何度もある。それくらいに彼は真っ直ぐで、正直、眩し過ぎたんだろうね。そんな彼を守ってあげたいと思った事もあったのに、それが出来なかったのはやっぱり僕の心が狭かったからだね。そして、ずるかった。
いや、それは今もだ」
今も…?
疑問を表す僕に、そうだと彼は深く頷く。
「君の言う通り、本当は去るべきではないのだろう。だが、それはもう僕には出来ない。正直、司の傍にい続ける気力も何も無いんだ。不甲斐ないね、本当に。誠くんは、自分の役割を自ら決め、それを実行したというのに、僕はここで卑怯にも逃げ出すんだよ。これでは、あの時、彼が死を選んだのが間違いになってしまう。それは良くわかっているけれど、僕にはここまでしか出来ない。
彼は、こんな僕を許しはしないだろう。でもさ、一応、墓参りに行った時にでもいいから、君から謝っておいてくれないかな?」
もしかすれば、少しは許してくれるかもしれないと佐久間さんは軽く笑った。それは、単なる軽口のようで、言った本人がそれを実際に望んでいるわけではなさそうなものだ。
謝っておいてくれないか――。その言葉は、あの友人と同じものだ。彼もまた、僕に兄に謝罪して欲しいと託していた。あの時の友人は、きっと、今の佐久間さんと同じような顔をしていたのだろう。
友人も、この人も。
何故、こんな終わりを選び、そして僕に言葉を残すのか…。
「嫌ならいいんだ。君を、困らせたいわけじゃない」
湧き上がる涙を堪えるために目に力を入れた僕に、佐久間さんは苦笑交じりにそう言った。
そうではないのだと、慌てて顔を向けるが、その目はもう僕から離れていた。
「そう、睨まないでよ。少しオーバーしてしまったのかな。悪かったね」
「……」
眉間に皺を寄せる筑波直純に肩を竦め、「さあ、行こう」と佐久間さんは僕を促す。福島氏が僕のコートを手に、リビングから出て来た。それに先に気付いた佐久間さんがコートを受け取り、僕に渡す。
僕の手に触れたその手を、掴んで逃げ出したい衝動にかられた。いや、ここに繋ぎとめておきたい衝動か。けれども、僕は何もする事が出来ず、扉を潜る彼らに続き部屋を後にした。
騒ぎは外に届いていないのか、それとも既に何らかの手回しがされているのか。廊下には、男の部下らしき人間が一人離れて立っているだけで、他の客の姿は全く見えず静寂に包まれている。
「保志くん、君は少し自分を知らなさ過ぎるところがあるね」
廊下に出たところで足を止め、佐久間さんはそんな言葉を紡いだ。
「君の言うとおり、僕は筑波くんが好きだよ」
「おい、何を…」
口を開いた筑波直純を片手で制し、不機嫌なその顔に微笑みかける。
「嫌になるくらい真っ直ぐなこの性格は、少しばかり鬱陶しいとは思うけれど、嫌いにはなれない。むしろ、憧れる。それを持っている君にも。そう、それは僕だけじゃない。他の多くの者達もそうだ。だから、君の周りには人が集まる。君を慕う者達が。人を惹きつけている自覚は君にはなさそうだが、言われてもなおわからないものではないだろう? 君は強いからね、本当に」
だが。
そう続けるように言い、佐久間さんは今度は僕に微笑む。
「その点、保志くんは鈍感だ。自分に惹かれる者がいるなんて、どんなに示されても納得しない頑固さをも持っている。けれど、実は結構弱いんだよね。流されやすいし、脆い。それをカバーしているのは、無関心を貫くからこそで、一度引かれたらズルズルといった感じだ。正直、危なっかしいよ。でもね、僕はそう言うところが好きだよ。君は筑波くんがいてこそのものだと思っているようだが、僕はそれに関係なく、君が好きだよ。誠くんが君を好きになったようにね」
僕も友人になりたかったよ。
優しく微笑むその顔に、僕は打ちのめされた。何て事なのだろうか。
先程は出来なかった手を、僕は佐久間さんに伸ばす。
だが、その体に触れる前に、僕の手は別の手に拘束された。横から筑波直純が僕の手首を掴み、そのまま引っ張り歩き出す。
「お前は、何を考えているんだ」
舌打ちをしながらそう言ったが、男には僕の意見を聞く気はないらしく振り向きもしない。男が廊下にいた部下に顎をしゃくると、彼は足早に先を進んでいく。その姿を一瞬眺め、はっと気付き僕は後ろを振り返った。
佐久間さんが、静かに微笑んでいた。
その唇が微かに動いたが、声は発していないのか届かない。だが。
――またね。
そんな事があるはずはないのに、僕にはそう言ったように思え、その驚きで男の手を振り解くのを忘れてしまった。
それは、どう言う意味なのか。
問い掛けを発する事も出来ない僕は、部屋の中へと戻っていく佐久間さんの姿を、ただ見送った。
そんな曖昧なものではなく、僕は確かなものが欲しい。
佐久間さんはこれからどうするつもりなのだろうか。
僕は、それを知る事が出来るのだろうか。
下降するエレベーターの中、未だに拘束をされている手首を眺めながら、この状況を考えれば知り得られる可能性は低いのかもしれないと、僕は小さな絶望を見る。
この結末を招いたのは、他でもない自分だとわかっていても、僕は辛くて堪らない。自分がした事を考えれば、佐久間さんの事を思っている場合ではないのだろう。僕の方こそ、一体どんな選択に追い込まれるのか、わかったものではない。
だが、それでも。
あの友人のように、僕の前から佐久間さんがいなくなってしまうという事が、堪らなく哀しかった。
2003/10/23