# 122

「あいつは、何を考えているんだ。状況がわかっていないのか。それとも、懺悔のつもりか? 馬鹿らしい」
 最後までふざけた奴だと、筑波直純は佐久間さんの言葉を切り捨てた。だが。
 だが、僕は――
 ホテルを出てすぐに車に乗せられ、もう戻る事は出来ないとわかるにつれ、僕の後悔は増していく。自分はしなければならない事をしなかったと、逃げてはならない場所から逃げだしてしまったのだと、苦しさが増えていく。
 本当は、僕が出来る事など、そうないのだろう。だが、こんな風にあっさりと、あの中から抜け出して良かったわけがないのだ。
 佐久間さんに謝らせるのではなく、僕が伝えなければならない言葉が沢山あったのだ。
「…保志」
 膝の上で握り締めた僕の拳を見、男は低く僕の名を呼ぶ。それは、僕に意見を促しているのか。それとも、非難を込めてのものなのか。その色はわからない。だが、男の真意が何処にあろうと、僕に言える事はひとつしかない。
 僕は。
 僕は、男のように佐久間さんの事を思うなど、絶対に出来ない。
 彼は自ら危険を冒してまで、天川のために行動した。それが、今夜の茶番の真相だ。その劇が終わった後でのあの言葉は、取り繕うとしたわけでも、口先ばかりの懺悔でも、まして自らの立場を守ろうとした訳でもない。決して、自分のために言ったものではない。
 何故この男は、それがわからないのだ。自分を好きだと言った彼の言葉に、何故耳を貸さない。あれは、今夜彼が見せた一番の真実だったのではないか。僕にはそうとしか思えないのに、言われた本人がこれではあまりにも残酷だ。
 あの少年を裏切っているのだと謝罪を口にしたのを、聞いていなかったのか?
 今夜は、全て天川のために用意された、佐久間さんが言う通りの茶番劇だ。その天川との決別を終えた彼の言葉は、全て本当の事なのだ。あの少年への謝罪の心も、僕もこの男も好きだと言ったその言葉も、彼の中に確かにあるものだ。
 そう。佐久間さんが、僕を好きだと言ったのだ。僕に向かって、好きだと。
 そんな彼に、僕は何も出来なかった。
 何ひとつ。
 悔しくて堪らずに、僕はシートを殴りつけた。一度放った拳は勢いを止める事が出来ず、何度もそこに叩きつける。鈍い音が車内に響くが、そんなのは小さな事だ。僕は、隣の男に彼の言葉は届いていないという事実が、堪らなく悔しい。そして、それを男に諭しきれない自分が、佐久間さんの思いひとつ伝えられない自分が、遣る瀬無い。
「おい、止めろ」
 横から伸びてきた手が、僕の手を押さえる。だが、僕はその手を振り解き、男の体を突き放した。そして、返されるかもしれない反撃に構えるのではなく、ただ放っておいて欲しいのだと、そのまま体を丸め、頭を抱え込みその存在から僕は目を逸らす。
 今は、何も話し掛けないで欲しい。
 そうでなければ、衝動のまま、全てのものに当り散らしてしまいそうだ。僕の心の中は、正に嵐のように吹き荒れている。過ぎ去るのをじっと待つしかないのだ。だから今は、何も言わないで欲しい。
 あまりの衝撃に、冷静さも何もかもを失ってしまったのかもしれないが、それでもまだ、理性は残っている。自分の中に篭れば、何も訊かなければ、この辛さと苦しみを一人で処理する事が出来るだろう。しかし、何かきっかけを与えられれば、暴走しそうなのだ。この飽和状態の自分には、たとえたった一滴の水でも、危険なのだ。
 だから、今は。
 男の事を考えたくはないのだ。これ以上の感情を、増やしたくはないのだ。考えてしまえば、こんな事になってしまったのはこの男の責任だと、罪を擦り付けそうで怖い。
 今は、一人にしてくれ。
 お願いだと、僕は気付けば必死でそんな都合のよい事を願っていた。願うのは神でも何でもなく、本人である男その者へだろうに、その存在を遠ざけたまま祈る。処理しきれない感情を殺す事に夢中になっているのか、男を窺う余裕もない。
 僕は、怖いのだ、とても。
 何がと問われても、これだと言うはっきりとした応えはない。何かではなく、全ての事に対してなのだろう。佐久間さんの事も、天川の事も。あの友人の事も、隣の男の事も。そして、僕自身の事も。全てが怖い。いや、怖いというよりも、辛いというのか。確かに築いていた関係が崩れてしまった事に対し、僕は拒絶を示しているのだ。納得出来ないというだけのものではなく、今までの自分が全部崩れてしまったかのような、そんな不安が付き纏うのだ。
 だから。今近くにいる男から目を逸らしたいのかもしれない。実際には受け入れがたい事ではあっても、時間が与えられれば消化も出来る。その方法での解決を、僕は望んでいるのだろう。
 しかし。
 落ち着けと自分に言い聞かすが、果たしてそれは本当にいい事なのかどうなのか、そんな事すらわからない。冷静に考えたところで、自分が犯した罪は消えず、落ち着いたら余計に絶望を味わうのではないか。自分が悪かったのだと全てを受け入れるほど、僕は大きくも強くもない。そんな事をしようとした途端、それこそ本当に何もかも壊れてしまうのではないか。迷い始めたら、疑い始めたら、キリがない。
 この苦痛こそが、何も出来なかった僕に与えられた罰なのか…?
「――保志」
 とうとう狂ったのかと、ふざけた事を考える自分の思考をそう思う。だが、実際に狂ったわけではないのだと、僕は知っている。当たり前だ、これは僕の頭なのだから、振りなど直ぐにお見通しなのだ。
 そう、狂えたら楽なのかもしれないと、自分を否定するのが一番手っ取り早くこの苦しみから抜け出す方法なのだろうと僕は知っている。だからこそ、逃げ道を自らに与えようとするのだ。心の防衛本能なのかもしれないが、何とも低能なものだ。
 自分が非力だった、馬鹿だった。そんな慰めを与えてどうする。逃げ出して、どうなるというのだろか。確かに今は気力など残っていないが、風化を待たなければならないほど、僕は無能な人間なのか。ただ、そう思いたいだけなのだろう。
「…保志」
 現実を見つめる事こそが、今の僕には必要なのではないか。
 佐久間さんが、いなくなる。それは、確かに辛いものだ。正直、好きだと思ってはいたが、こんなにもその存在を自分が心地良く思っていたとは気付いていなかった。いなくなる事に対し心が乱されるなど、思ってもみなかった。だが、何と言おうと、今、実際に僕はそう感じているのだ。受け入れるしかないだろう。
 もし、自らのこの心を知っていたのなら、僕はどんな事をしてでも佐久間さんを傍にいさせようとしたのだろうか。正直、それは、わからない。いなくなる事を知っている今になって考えても、正確な答えなど得られはしないのだろう。しかし、それが実行可能かどうか、その成功はあるのかないのかはわかる。
 僕は、天川の代わりにはなれはしないのだ。佐久間さんが、天川から離れて僕を選ぶなどという事もありはしない。実際に、今夜の事がそれを示している。何をしたところで、結果は変わらなかったのだろう。ただ、嫌だと駄々を捏ねて佐久間さんを困らせる機会が増えていただけだ。
 佐久間さんは、はじめは少し誤解していたようだが、確かに僕の心に気付いていた。僕が好きだと言った言葉を、いなくなっては駄目だと言う言葉を、僕の本心だととらえてくれた。だからこそ、別れ際にあんな話をしたのだろう。そう思うのは自惚れだろうか。
 それでも、結局は、彼は天川のために動いた。僕に謝りながらも、それが自分の望みだと納得させようとしながらも、彼が想っていたのは天川ひとりだ。佐久間さんにとっては、天川と同じランクに立つ者などいないのだろう。それは、誰が悪いと言える事ではなく、本当に仕方がない事なのだ。
 そう。それは全ての者に言える事で、感情はその人だけのものなのだ。何かが間違っていたと言わなければならないのなら、絡み合ったこの関係がと言うべきなのだろう。誰一人として、過ちは確かに犯したのかもしれないが、間違ってはいない。
 それぞれに、譲れない想いがあったのだ。とても強い想いが。
 佐久間さんとあの友人を似ていると思った事があった。己より大切なものを持っているからだろうか、強いけれども消える事はないその儚さが同じだと。僕に見せる翳りが、似ていると。
 だが、僕は。その友人や佐久間さんを、筑波直純とも似ていると思った。その真っ直ぐと何かに向かう強さが。その純粋さが。
 そして、僕はどこか孤独を隠し持つ筑波直純と自分が似ているとも思った。友人にあんな風に去られた自分が持つ闇と、親に捨てられた男が持つ闇とが。
 他にも、色々とその度に、感じた事がある。似合わない裏社会でそれでも立っている天川と隣の男が似ていると。あの少年に試練を与えられたかのような、佐久間さんと天川も。そして、大切だった者に去られる痛みを知りながら、何も出来なかった天川と僕とも。
 人は、それぞれの感情を持っている。同じ想いなど、共感は出来ても抱けはしないのが当たり前だろう。だが、こうして思えば、人間はそう複雑な生き物ではないのかもしれない。僕がそれぞれを似ていると思ったのも、馬鹿な思い違いではないのだろう。少なくとも、誰もがただ、人としては当然の感情を持っていたという事なのだ。譲れない望みを。
 僕達は、とても似ていたのかもしれない。
 ならば、やはり。
 もっと互いに自らを曝け出し合えていれば。怖れずに想いを口に載せる事が出来ていれば。こんな結末ではなく、誰も傷付かずに済む方法を得ていたのかもしれない。

 絵空事のようだと思いながらも、僕はその考えに涙した。
 もう少し、関係が上手く築けていたのなら――


 僕達は皆、とても不器用だったのかもしれない。

2003/10/27
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