# 123
「保志」
何度も呼ばれていたが無視し続けた僕に対し、筑波直純は実力行使に出てきた。体を丸めた僕の肩を掴み、無理やりに引き上げる。流した涙をそのままに振り向いた先には、硬い表情の男がいた。
「血が、滲んでいる」
真っ直ぐと見据えられながら落とされた言葉は的が得られるものではなく、僕は眉根を寄せる。そんな僕に軽く溜息を吐いた男は、僕の右手を僕に見えるように掴み上げると目の前に突きつけてきた。その手の甲にはくっきりと爪の型がついており、内出血が小さく広がっていた。掻き破ったのか、僅かに血が乾いてこびり付いてもいる。頭を抱え込んだ時、組み合わせた指に力を入れ過ぎたのだろう。同様に左手にもその後があった。
僕が納得した事に気付くと、僕の手を離しながら男はハンカチを取り出す。差し出されたそれを眺めていると、手の上に置かれた。汚れるのでかまわないと返そうと思ったが、それを承知で渡したのだから理由にはならないのだろうと考え、ありがたく拝借する。
ただそれだけの事なのに、泣けてきた。
壊れたような涙腺を気にしない程、僕は男に対して無関心なわけではなく、恥しさと情けなさを覚える。癇癪を起こしたような後で、今度は泣き顔を見せるのなど、男にとってはあまり気分が良いものではないだろう。これでは子供か馬鹿な女だ。逆に僕がその立場だったのならば、嫌気がさすはず。
指で溢れた涙を擦り、僕は誤魔化すかのように視線を前へと逸らした。フロントガラスに映る街はいつも通りだ。男のマンションに向かっているのだろう。見慣れた繁華街には人が溢れかえっている。僕自身も慣れ親しんだ、日常がそこにある。
だが、今はそれがとても遠くに感じられた。今まで本当に僕がそこにいたのかどうかさえ、実感が持てない。
信号待ちで止まった車の前を、僕と同じ年頃の若者達が横切っていく。今夜の出来事で、自分が、当然のように夜の街を歩く彼らとは大きく違ってしまったかのように感じてしまう。
実際、違うのだろう。彼らは拳銃を手にし、誰かに向けて発砲するなどという経験はないはずだ。
暗闇の中でとらえた自分の手はいつもと変わらない。だが、それでも、ひとつの事実を刻んだそこには、以前にはないものがある。
「…佐久間の事が、心配か」
先程はそうは思わなかったというのに、思い出した拳銃の感触に肌が粟立ち、きつく右手を握り締めた僕に男は静かに問いを放ってきた。心配だ。そうひとつの頷きで応えを示し、振り返る。筑波直純は僕を見て目を細め、「何故だ」と更に問うた。
「もう、わかったんだろう。佐久間が何をしていたのか。それなのに何故、今も気にするんだ。腹が立たないのか? 憎く思わないのか?」
その言葉に数度首を横に振る。わかっているからこそ、僕は彼が心配なのだ。いや、ただ寂しいのか。恨む気持ちなど全くない。
「お前は、いいように使われようとしていたんだぞ。わかっているんだろう。親友を殺されて、自分も襲われて、何にも思わないのか? 自分の邪魔をされ、泥を塗られ、お前を軽く扱われて怒る俺がおかしいというのか?」
佐久間を腹立たしく思わないのなら、余計な事をしてくれたと、お前は俺を恨んでいるのか。
淡々としているが強いその問いに、僕は同じように首を振る。確かに、苛立ちはしたが、この男を恨む事は出来ない。僕がこんな感情を抱くのと同じく、彼もまた自分の想いを抱いたのだ。僕と男は、それが噛合わなかっただけでしかない。恨みなど、あるはずがない。
だが、僕のそんな思いは、男には上手く伝わらない。
「ならば、何故、あんな事をしたんだ。佐久間の味方をした。俺に楯突いた。お前はあいつを助けたかった、…俺を、脅してでも、佐久間を救いたかったんだろう。それも違うというのか、保志」
真っ直ぐと向かってくる瞳が、対向車の光を受け小さく輝く。僕はそれを眺め、そのまま瞼を閉ざした。何をどう伝えればいいのか、考える余裕がない。その手段が、少ない。
僕は、全てを知っている訳ではない。そう、後から気付く事の方がはるかに多いのだろう。他人の顔色を読む事はするが、それが当たっている確率などあまり高くはないだろう。僕は、色んな意味で鈍感で、傲慢だ。何事も自分を中心に考えてしまう。
今夜の事も、佐久間さんを失いたくはないと僕は慌てふためいた。自分でも、驚くほどに。今になって思えば、男と話す物理的な余裕はいくらでもあったのだろう。天川も筑波直純も、有無を言わせずに押し入ってきた訳ではない。僕が頭に血を上らせなければ、声はでなくともその方法いくらでもあったはずだ。だが、それを見つけ出す事が僕には出来なかった。それは、僕の愚かさなのだ。
焦った僕は、佐久間さんを守る事に必死になったが、実は守っていた訳ではないのだろう。自分が、縋りたかっただけなのだろう。あの状況に抗う僕は、一人では耐えられないからと佐久間さんをこちら側に引き込んだのだ。彼は決して、あんな抵抗など考えていなかっただろうに。そう、佐久間さんの感情など、僕はあの時あまり考えていなかったのだ。考えていたのなら、あんな風に、余計に立場を苦しくする事には巻き込まなかっただろう。
発砲したのも、同じ。僕はパニックに飲み込まれ、指をかけた引き金の事を軽く考えたのだ。撃つ気はないと思った感情を、何処かに放り投げてしまったのだ。ただ、手の中にあったから、拳銃を撃った。あの時は、それだけだったのだと思う。その証拠に、その後どうなるのかなど、弾が誰かに当たるかもしれないという可能性など、引き金を引いた時の頭にはなかった。男が口にした言葉にカッとなり、考えもせずに僕は発砲したのだ。怒った子供が物を投げるかのようなそれは、自分のためのものでしかない。
男を脅そうなど、どうにかしようなど考えはしなかった。佐久間さんを助けたいと思ったのは確かだが、それは僕の我が儘からくるものであって、筑波直純を憎く思うからのものではない。彼が既に決めていたその決断を、僕は変えたかったのだ。天川に、引き止めてもらいたいとも、そう思った。それが出来るのなら、筑波直純だって何だって良かった。だが、やってきた二人には出来はしなかった。佐久間さんの決断を返られるのは、佐久間さん本人だけなのだ。彼の意思を返る他はなく、僕はそれをただ願った。
もし、無様に縋りつく事でそれが出来るのなら、僕は何度もそうしただろう。だが、それ自体があの人を悲しませるのだと気付き、もう他の道はないのだと僕は悟ったのだ。いや、諦めたのか。だから、今、こんなにも悔やむのだろう。
僕は、佐久間さんの味方になったわけではない。彼にとっては一番の味方は、天川だろう。自分の思うように動いてくれたあの男だろう。そして、この筑波直純もそう。
何故あんな事をと訊かれれば、僕がそうしたかったからと応える他ない。あなた方三人とは、違う望みを持ったからだと。ならば、その望みを持ったのは何故かと突き詰められれば、僕は何と応えるのだろうか。佐久間さんが好きだからと、その理由だけなのだろうか。
いや、あの友人がそうだったからとも言えるだろう。彼が佐久間さんに一目置いていたからこそ、僕は関心を持ったのだ。それを抜きにこの感情は語れない。
佐久間さんとの現状を望んだのは、僕の我が儘だ。多分、僕は、一人になるのが怖かったのだろう。天川や佐久間さんと再び関わりを得られ、僕は何処かで安心していたのかもしれない。喜んでいたのかもしれない。同じように、あの少年にとらわれた者がいるのだと。だから、彼らが次のステージに進もうとしているのを、阻止したかったのかもしれない。僕一人が放っていかれてしまうと何処かで感じたのかもしれない。寂しいと。それは嫌だと、自分勝手に。
僕には、憎むと言ったあの弱い天川が必要だった。余りものでも何でも、笑顔を見せてくれる佐久間さんが必要だった。あの友人を匂わせてくれる彼らが。
だからこその、そんな行動だったのだ。必死になりすぎて周りが見えていなかったのは確かだ。男が苛立ちを覚えるのも当然だ。だから、納得して欲しいなどとは言わない。ふざけていると呆れられてもいい。けれど、何処を探そうと、僕の中身などそんなものなのだ。
僕は何かを選んだわけでも、何かを捨てたわけでもない。ただ、感情に飲まれただけだ。望むものの違いから向きあった男に敵対はしたが、悪意を持っていたつもりはない。
「俺は、天川の決断を甘いと思っている。訊いていただろうが、佐久間によって死に至らしめられたのは、何も天川の弟だけじゃない。感情論は抜きにしてもこっちは多大な損を被ってもいるんだ、追放だけだなんて子供の喧嘩じゃない、不服に思うのは当然だろう。そんな事は、佐久間とてわかっているはずだ。あいつならば、それこそ反省などせずに、幸運だと思っているだろう。また何をはじめるか、わかったものじゃない」
この思いを、どう伝えればいいのか。伝えたところで、今更何を言っているのかと言われるのだろうか。
そう考えていた僕に、一向に答えが返らないからか、男は続けるように口を開いた。
「天川でも、その父親でも。あいつを切るのは時間の問題だっただろう。佐久間はそれだけの事をしてきたんだからな、自業自得だ。だが、本人はそうは思わないだろう。自分の詰めの甘さが失敗の原因だと思うのか、追い詰めた俺を恨むのか、裏切った天川を恨むのかはわからないが、大人しくしている保障は何処にもない」
男はそう言い僕から視線を外し、「…そう言う事だ」と呟き口を閉じた。
だから、もっと確かな制裁を下す必要があったというのか。自分が甘いと思うのも当然だという、その理由なのか。それとも、そう考える者が佐久間さんに何かをするという事か。それは、天川ではないのだろう。ならば、男本人か、天川氏か。または、今まで佐久間さんと何らかの関係を持っていた者達か。
僕が思う以上に、佐久間さんの身は危ないのかもしれない。
どうにかならないのか。
そう問い掛けた視線に、男が無言で首を振る。
「…あいつの問題だ、どうにかするだろう。俺は手を貸す気はない。お前が、それを願っていてもだ」
それに、自分にはそんな力はないのだと、少し自嘲気味に男は笑う。
「こんな後退、この世界では珍しくともなんともない。目障りだというだけで、消されて当然だ。佐久間だけに言えるものじゃない、俺だってそうだ。あいつは、少しばかり偏屈で目立ちはしたが、上手くやっていた。だが、あっさりとこれだ。身の程知らずに今以上のものを望んだのが失敗だったのだろうが、それはこの世界では当然過ぎてネタのひとつにもならない。ま、天川の揉め事となれば、色々話は膨らむだろうがな。
この世界、転ぶのも伸びるのも、運みたいなもんだ。それによって左右される。自分で動いている事なんて極僅かなんだろう。俺達はただ、流されているだけなんだ。自ら動けるのならば、こんな世界からさっさと抜け出すさ」
窓の外に視線を向け呟く男の横顔は哀愁が漂っており、僕は何だか寂しくて視線を逸らした。
こんな時、多分きっと、佐久間さんなら何か気の効いた事を言えるのだろうが、僕にはとてもではないが出来そうにない。何ひとつ、言葉は思い浮かばない。
佐久間さんは、あの友人と同じ事をしたのだ。天川司を前に進ませるために、自らを投げうった。男が言うように今以上のものを望んだのは確かなのかもしれないが、自分のためではない。天川の成長こそが佐久間さんの快感だと言われれば、自分のためだと言えるのかもしれないが、そこに苦痛が伴えばそうではないだろう。自己犠牲を美と考える程、彼は愚かではない。
天川が進むためには自分が邪魔だ、佐久間さんは言った。だが、僕の言った事も本当だと、あの男の傍にいた方がいいのだろうとも認めた。しかし、それを選べなかったのは、あの少年ほどの覚悟がないからだとも言った。
それはどう言う意味なのか。
よく考えなくてもわかる事ではないかと、言われた時に気付かなかった自分の無能さに僕は小さく舌打ちをする。本当に、何もかもがあの友人と同じではないか。
佐久間さんは、天川に憎まれる役を自ら引き受けた。そして、その影響をもって、今後も彼を成長させていく事が可能だと考えたのだ。天川の精神を鍛えようとしたのか何なのかはわからないが、弟の死後に天川が成長した事を考えれば今回も名案だと言えるのだろう。けれど、その役は苦しすぎると、自分には出来ないと佐久間さんは考えたのかもしれない。だからこそ、ここでリタイアだと、少年に恨まれると言っていたのだろう。
あの少年は自殺と言う大役をまっとうしたのに、自分は傍で天川を刺激する役割から逃げるから、と。そう言う意味なのかもしれない。
だが、それは違う。逃げでも、リタイアでも何でもない。当然の事なのだ。たとえあの友人とて、佐久間さんのそれを非難する事は出来ない。
友人の中には佐久間さん同様、別れると言う選択肢もあったはずだ。けれども、彼は選ばなかった。その方が、辛いからだ。彼にとっては、天川がいなければ自分が生きる世界ではなかったのだ。それを考えれば、佐久間さんの方が何倍も苦しいのではないか。友人はその苦しみから逃げた。多分、それも非難出来るものではないが、やはり選んではならないものだったように思える。
人は理想通りになど生きられない。現実は、絶望の連続だろう。何かを望むたび、それは無残にも切り捨てられていく。けれど、人は生きるのだ。それは、それこそが自然だからだろう。自ら死を選ぶためには努力せねばならない。だが、生きるのはそう難しい事ではない。心臓は勝手に動いているのだ、呼吸は勝手に繰り返されるのだ。友人の選んだ結末は、正しくはなかったのだと今ならはっきりと言える。何故だと、詰れる。目の前にいたのなら、ふざけるなと殴り飛ばす事さえ僕はするだろう。
そう。もしも、彼らの関係で責められるべき者がいるのだとしたら。佐久間さんではなく、あの友人なのだ。間違いなく。
天川自らに決断を下させ、彼本人に自分を切り捨てさせる事をした佐久間さんの方が、その葛藤は計り知れない。その作戦を考えてから、どれだけ彼は苦しんだのだろうか。あの少年の真意を知っており、あんな風に思う彼ならば、何度も少年に懺悔したのだろう。そして、天川にも。
「……着いたぞ。降りろ、保志」
気付けば車は男のマンションに着いており、既に筑波直純は車から降りていた。
頷き降りようと足を外に出し、落としてしまっていたハンカチを拾い上げる。直ぐに差し出された手に、躊躇う心はあったが、それを返した。
礼を伝えようとして、僕はそれを失敗する。
微かに触れた男の指先は、とても冷たかった。
2003/10/27