# 124

 ドカリと勢い良くソファに腰を下ろした筑波直純は、片手で髪をほぐし、大きな溜息を吐いた。ひと気のなかった部屋の空気が、一瞬にして重みを増す。
 ソファの背に凭れ、髪をとかした手で左右の米神を抑えるように顔を隠した男は、暫くその姿勢のまま動かずにいた。そんな家主同様に、僕もリビングに足を踏み入れたところで動きを止め、何気なくその姿に視線を向ける。酷く疲れていると言うよりは、何かに耐えているかのような姿が僕には少し不思議で、沈黙が深まる分だけ冷やかな気持ちになった。
 この男にとっては、全てが満足出来る結果となったのだろうに、未だ何を苛立っているのだろうか。邪魔だった佐久間さんはいなくなるのだ、彼にすれば喜ばしい事だというのに。
 それとも、僕の事を考えているのだろうかと動かない男を窺ってみるが、表情が全くわからないので知る方法は皆無だ。それに。確かに、男が喜ぶような行動ばかりをしていたわけではないが、結果的には僕はこうして大人しくこの部屋へと来ているのだ。今は思い通りになっていると言うのではないだろうか。ここまで連れて来て、これを望んでいなかったと言うわけはないだろう。
 男にとっては良い結果となった今回の事で、今なお考えるべき事とは何なのか。僕は壁に背中を預け、視線を落としながら考えた。正直、これと言ったものは浮かばない。車中で語ったような、今後の佐久間さんの行動を危惧しているのかもしれないが、それは多分、男自身が目を光らせる事ではないのだろう。こうして僕を連れ帰ったのだから、福島氏のような者達が後を任されたと考えるのが妥当だ。それ以上の事など、今は心配しても意味がない。
 だとしたら、天川の事だろうか。
 爪先が少し薄くなっている自分の靴下を眺めながら、それもあり得そうにはないなと却下する。色々な事実を聞かされ、おまけに父親の影まで匂わされて選んだ決断だろうが何だろうが、天川本人が下したものだ。お前のせいだと、筑波直純に八つ当たりする程、彼も子供でもないだろう。天川司自身に関しては心配はいらない。
 ならば、やはり。僕に対して男は怒っているのかもしれないと、僕の口からは小さな溜息が落ちる。もしその通りならば、怒られる事をしたのは事実であるので、男が苛立ちを押さえる必要など全くない。怒られる、などと可愛く表現出来るものではないだろう、拳銃を撃ったのだから、それなりに僕とて制裁を受ける覚悟はしているつもりだ。僕に対して、引き金を引かれた男が躊躇う理由はない。
 自分のした事であり、何より僕が一番間違った行動だったと思うので、その責任は果たせる限り果たすつもりだ。だからこそ、僕はこうしてここまで来たのだ。男が何らかの罰を僕に与えるのは、当然だ。
 もし、筑波直純がそれを迷っているのならば、それは本当に無駄な事でしかない。
 迷う必要など、何処にもないのだ。
 こんな事をしていても意味がないと、僕がここに来たのはそれを与えられる為だろうと、僕は壁から体を起こしながら、男に視線を向けた。数歩の距離をゆっくりと近付き、ソファの横で足を止める。気配に気付いた男が顔から手を放し、僕を見上げてきた。
 僕が感じていたものとは違い、葛藤など抱いていないような無表情な目が僕の姿をとらえる。男が考え込んでいると思ったのは、僕の思い違いなのかと呆れかけた、その時。灰色の瞳が動揺するかのように、僅かに揺れた。
 その視線は、僕の目ではなく、もっと下の位置に向けられている。何かと思う前に、男が口を開いた。
「……指輪は、どうしたんだ」
 少し掠れた声に、その言葉に、僕の左手が小さく反応を示しピクリと痙攣する。一度その手を握り締め、僕はポケットから指輪を取り出した。それをテーブルに置き、紙とペンを手元にとり、床に腰を下ろす。銀色に輝く小さなリングを指で少し弄り、僕は男に視線を向けた。
【発信機だそうですね】
「……佐久間だな」
 否定でも言い訳でもなく、肯定を意味する言葉が落ちる。男は疑問ではなく確信をもってその名をあげたが、彼にとっては意外でもあったのだろう、「何だって、あの男はそこまで知っているんだ」と忌々しげに舌打ちをする。そんな事、僕が知るわけがないのに。
 左の人差し指で今一度触れたそれは、何の変哲もないシンプルな指輪だ。本当にこんなものが発信機だとは、今なお信じられない気持ちだ。気付かなくて当然だろう、真実を知った今でも、どんな仕組みになっているのか想像も出来ない。
【僕の居る位置は、あなたに知られていた】
 こんなに小さなものひとつでと、僕は軽く眉を寄せた。そう。僕の行動パターンなどたかだか知れているからだと思っていたが、思い当たる節が全く無いわけではないと気付く。年明けに受けた暴行の時、店に居る僕のところに男が来たのも、このせいなのかもしれない。今夜も、間違いなくこのお陰でホテルを割り出したのだろう。
 やはり、おかしいと気付かなかった僕が馬鹿なのか。
「常に見張っていたわけではない。何より、その発信機はそういいものではないしな。せいぜいこの辺りに居るというのがわかる程度のものだ」
【尾行もついていたとか】
「見張りをつけたのは、六日前、か。お前と最後にあったあの日の夜からだ。一応用心につけただけで、四六時中監視していたわけじゃない。ま、今となっては言い訳にしか聞こえないか。それに。結局は、お前にまかれて役にはたたなかったしな」
 意外な言葉に眉を寄せると、何だと相手も同じような顔を作った。
【僕は、知らない】
 その言葉に、男はそんなはずはないと、僕が見張り役の者をまいたと言う状況を口にする。それは、数時間前の話だった。駅名とホームの番号はおろか、僕が何時に何処に立ち、どう電車に乗ったのか筑波直純の口から語られる。見張っていた者に聞いたのだろうが、あまり耳にして気分が良いものではない。
「電車に飛び乗ったお前と目があった、気付かれていた可能性が非常に高い。そうまかれた男は言っていたそうだが?」
 全く知らないと僕は頭を振りながら、そう言えば、藤代と別れたその駅で飛び乗った電車の窓越しに目を合わせた人物がいたようにも思い出す。だが、確かに男であったとわかる程度で顔は思い出せない。まして、その目が自分を見張る人間のものであるのかどうかなど、わかる訳がない。
「気付かれてもいないのにまかれたのなら、余計に悪いな。ま、そんな事はもう、どうでもいい」
 役立たずを使った俺が悪かったんだろう、と男は言った。そして。 「俺は、この件に関して謝る気はない。指輪の事もそうだ。自分の判断が間違っていたとは、今も思っていない。お前が納得出来なくても、だ」  それは、そうなのだろう。たとえ、少しばかりは僕に対し罪悪感を抱いていたとしても、間違っていると思った事を、男がこうもやり通せるとはあまり思えない。自分が必要だと判断したからこそ、こんな事をしたのだろう。
 こんな事を、間違っていないと信じる事自体が僕にはあまり理解出来ないが、納得出来ない事もない。僕とて、何らかの時にはそんな事をしないとも限らないからだ。理屈ではない。だが、それでも。やられた身としては、男の言葉に眉が寄るのもまた、仕方がない事なのだろう。
「お前にまかれたと福島のところに報告が来たのは、半時間ほど経ってからだ。そこから俺の元にその知らせがくるまでに数分。その時の俺の気持ちがわかるか、保志?」
 組んでいた脚を解き、男は少し身を乗り出しそう言った。部下の失態に対する苛立ち、監視していたはずの僕が消えた憤り、そんなところか。男がまかれた部下か、まいた僕か、どちらを多く非難するのかはわからないが、自分への報告の遅さだけを考えても腹が立った事は確かだろう。
 だが、どうせ僕の指には発信機があったのだ。瞬時に最悪の事態を考える必要などもなく、そう心配せずとも良かったのだろう。実際、その報告を受けた直後なのだろう男は、僕に電話をしてきた。話の内容を考えれば、男の方もなにやら動いていたようであり、変わるだろう事態に対しての処置だったのだろう。
 しかし。皮肉な事に、男が知らない間に僕は偶然にも佐久間さんに会っていたのだ。
 そう、あの電話がなければ。僕も佐久間さんも、予定通りに一緒に食事でもしていたのだろう。もし、筑波直純が僕に電話をせずに、今まで通りに勝手に動いていたのなら。僕達はただ何処かで男の手の中にとりこめられ、少なくとも僕にはわけがわからないうちに何もかもが終わるというような事態になっていたのかもしれない。
 それを考えれば、佐久間さんが僕を引き込んでくれたことに感謝しなければならないのだろう。
「佐久間と一緒に居るとわかった時、俺が心配をしていると考えなかったのか、お前は?それとも、そんな事はどうでも良かったのか?」
 淡々と男が僕に問い掛けるが、それはとても難しく、応えは出そうにない。
 男をどうでもいいと思うよりも、まず僕は佐久間さんの事で頭が一杯だった。だからこそ、男を詰ったりもしたが、彼そのものを否定したわけではない。それでも、やはり考えなかったという事は、どうでもいいと思ったと言う事なのだろうか…?
 その思いに、やはりそれはないと僕は否定する。ただ考える余裕がなかっただけなのだ。しかし、こんな意見は僕だけのもので、男に通用するものなのだろうか。微妙なところだ。そもそも、僕には男の心配が良くわからないのだから。
 気にしている事は知らないわけではなかったが、何度も言ったように、心配など必要ないのだと僕は信じていた。今も、それは間違っていなかったと思う。なので、やはり、男の問いに僕は確かな応えを返せない。
「どうなんだ」
 真剣な表情の男に、僕は小さく溜息を落とした。問われる理由もわかる気はするが、もう終わった事だ、それこそどうでもいいのではないか。
 そんなに、僕の行動が納得出来ないのかと、少し呆れた気分になる。だったら、それこそ見張りではなく、監禁でも何でもしておけば良かったのだ、と。隠れてやっていたそれに、僕が何も思わなかったと思っているのだろうか。なんだか、男が僕ばかりを責めているようで、少し情けなかった。
 発砲に関しては、それはもう反省してもしつくせないくらいに非を感じてはいるが、他の事は、間違っていた事もあるが悪かったとは思っていない。男が僕を監視させたのに対し苛立ちを覚えるのは事実だが、仕方がなかったのかもしれないと思えない事もないのだ。だが、男は僕に対しそうは思ってくれないらしい。
【僕は、心配する事はないと言った。それは、理解はされなくとも、あなたには伝わっているのだと思った。納得されているのだと】
「そんな訳が、ないだろう。ならば、お前は本気で、俺が心配していないと思っていたのか?」
【わからない。気にしているのはわかっていたが、それがどの程度のものであるか深く考えなかったのは事実です。それに。心底僕を心配してくれていると知っていても、あなたの言葉を聞き入れはしなかった。僕は、佐久間さんに自ら進んで従った】
「お前が、佐久間の事を好きだというのは知っている。だが、可笑しな状況だと気付いていなかったわけじゃないだろう。何故だ」
【それが、必要だったから。好きだとかどうだとかは、関係ない。あの時は、佐久間さんの事が気になったから。多分、あの時の彼の傍に居たならば、あなたもそうした筈だ】
「泣きつかれでもしたのか? お前は脅されてついていくタマじゃないからな、そんなところなんだろう。だが、それがあいつの手だとは考えなかったのか。お前も天川のように、すっかり絆されていると言うのか」
 冗談じゃないぞ、と筑波直純はそこで漸く声を荒げた。
 佐久間さんに騙されているのは、僕ではなく、この男の方だというのに。
「今日の事でもわかっただろう。あいつはその場その場で適当に調子のいい事を言う奴なんだ。何故、それがわからない」
【わかっている。だが、嫌う理由にはならない】
「それが、おかしいんだ。俺には理解出来ない」
【彼の言葉は、言葉でしかない。単に口にのせる台詞でしかないんだ】
「いい加減にしろっ!」
 言葉と同時に、衝撃が僕の体を襲う。
 強く掴まれた肩の痛みに顔を顰めたが、直ぐに背中を思い切り殴られ、肩の感覚など忘れ去った。息が止まる。見開いた目でとらえた天井に、殴られたわけではなく思い切り床に押し倒されたのだと気付くが、何の足しにもなりはしない。状況は最悪だ。男の伸びてくる手を一応は拒むが、体の痺れと突然の事で、簡単に抑えつけられてしまう。
 覆い被さるように僕の手を頭の上で固定し見下ろしてくる男を、僕は睨みつけた。歯を食いしばり腕を外そうともがくが、床と接する部分の皮膚が擦れるばかりで、自由にはならない。
 腹に凭れかかるように押さえつけられており、右脚は男の脚によって固定されている。辛うじて左足は無事で曲げているのだが、男に体重をかけられていては転がる事も出来ない。体が柔らかければ、脚を伸ばし自分の胸の上にある男の頭を背後から蹴られるのであろうが、右脚を固定されてのそのチャレンジは、筋を引き攣るだけで終わりそうだ。
 睨んでくる男を見ながら、僕は荒れた息を整える。これが最後の抵抗とばかりに腹に力をいれ、僕は思い切り腕を持ち上げようとした。男が予想通り、僕の腕を押さえるために体重を前にかけてくる。
 その瞬間、僅かに力が抜けた僕の右脚を押さえる男の脚に、僕は左脚で膝蹴りをお見舞いした。顔を歪めた男を認め、もう一度同じように蹴り、直ぐに床を押すように蹴って男の脚の下から右脚を引き抜く。体を捻ったせいで、抑えられた腕が痛みを訴えたが、かまってなどいられない。抜けた僕の体を再び抑えようと被さってくる男の腹を蹴り上げ、体を起こしながら腕を引き払った。
「っ…!」
 男が歯を噛み締め、片手で腹を押さえる。しかし、もう片方の手は僕に伸びてきた。執念と言った感じのそれから身を離し、僕は立ち上がりリビングを後にする。
「保志っ!」
 男の声と重なるように、大きな音を立て、僕は扉を閉めた。僕を呼び止める効力はなかった声が、けれども僕の中で回る。嫌な、音だ。
 まるで逃げるように玄関まで行き、僕は冷たいそこに座り込んだ。疲れか恐怖か、壁に凭れるようにして座り、体を丸め腕で頭を抱え込む。目を閉じたそこに、今見た男の顔があった。

 考える間もなく、向けられた衝撃に抵抗したのは、何故なのか。

 僕は、男の怒りを僕は怖いと感じ、ただそこから逃げたかっただけなのかもしれない。
 子供のように。

2003/10/30
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