# 125

 頭から腕を外し、曲げた脚を抱え込む。ゆっくりと目を開けると、先程も見た自分の靴下が直ぐそこに見えた。再び目を閉じ、僕は額を膝に押しつける。
 狭い部屋ではないので、離れたリビングから男の気配を感じ取る事は出来ない。逃れる事に必死で加減も何も考えずに蹴ってしまったが、倒れているという事はさすがにないだろう。しかし、怪我の心配はいらずとも、気になるのが当然の事で。
 男は、何をしようと思ったのか。冷えた爪先に手を伸ばしながら、僕は考えてみた。
 僕を押さえつけ、拳のひとつでも体に打ち込もうと思ったのか。ただの衝動か。そんな事はわかりはしないが、あの感情が僕に向いていたという事はわかる。だから、僕は怖くなった。そして、逃げた。その僕を、追ってこないと言う事は、もうどうでも良くなったのだろうか。もう、怒ってはいないのだろうか。
 耳を澄ませ、男の様子を探ろうとするが、やはり何ひとつ察する事は出来ない。そんな自分を、まるで親に怒られた子供のようだと、心の中で苦笑を零す。本当に、子供でしかない。情けない。
 手の中の足の冷たさに、車を降りた時に触れた男の指が冷たかったのを思い出し、少し気が滅入った。僕達は、とても馬鹿な事をしている気になる。寒さに晒されながら、一体何をしているのか。どうして、温め合えないのだろうか。折角、こんなにも近くにいるというのに。
 そんな事を一瞬考えるが、その理由が僕達にあるのだから、これが当然なのだろうとも思う。僕も男も、自分の寒さを癒して欲しいと相手に手を伸ばせられないのだから。伸ばせられないのは、意地か躊躇か、それとも拒絶か。
 頭の天先が背中の壁に当たるくらいに顔をあげ、小さく息を零しながら、僕は低い天井を見つめた。足から手を離し、膝の上に置く。
 こうして隠れるようにこの場に留まるのもまた、子供そのものなのだろう。部屋を出て行く覚悟も、男の様子を窺いに戻る勇気もない。僕は、自分はもっと淡々としているのだと思っていたが、そうでもなかったようだと気付く。静かに生きているつもりであったが、ただその振りをしていただけなのかもしれない、と。
 それが一番楽だからと、心を押さえ込んでいたのかもしれない。
 僕は、そう、気付きたくなかったのだ、色んな事に。気付かなければ、平穏に暮らせると思っていたのだ。知らなければならない事にまで、目を伏せていたのだろう。
 今になって、漸く、天川を哀れに思った。
 同情は出来ないが、彼もまた辛い思いをしてきたのだと思う事が出来る。多分、彼の方が、僕よりも辛かったのだろう。
 僕は、声を失った事によって救われた。友人の死を、自分の声と引き換えにする事で、乗り切る事が出来たのだと、今ならわかる。
 大切なものを失った痛みを、同じように大切な自分の一部を失う事で、僕の心はそのバランスをとったのだろう。声を失ったのを僕は何処かで勝手に罰だと判断し、与えられたそれに安心していたのか、大きな疑問を持つ事さえなかった。何故僕がと、本気でそう苦しむ事もなかったのだ。友人の死を前にしたら、喋れない事など小さなものだった。あんな最期を選ばなければならなかった彼に比べれば、僕の声など取るに足らないものだった。
 だが、天川にはそれがなかったのだろう。
 僕は声を失い、家族から離れ、それまでの生活全てを一変し、新たな道を歩んできた。新しい生活に慣れる事に夢中で、友人の事を考える暇はあまりなく、その努力は要らなかった。漸く落ち着き、そんな時間を持てるようになった頃には長い時が経っており、時が僕を癒してくれていた。
 しかし、天川は弟を失った前後で、僕のような変化はなかったのではないだろうか。そう、弟の死だけが、彼の目の前に突きつけられたのだろう。次男を疎んでいた父親が、その死に嘆いたとは思えない。周りもまた、生前の彼への対応を考えると、それこそとるに足らないものだと、まるで何もなかったかのように振舞ったのかもしれない。
 自分だけがその死に嘆く、自分以外の者は気にもとめない。実の父親でさえも。
 そんな中で、天川は現実と自らの心の激しいギャップに苦しんだ事だろう。罪を償おうにも、罰は与えられなかった。思い出にしようにも、はじめからそれは存在しなかったかのような状況なのだ。異常なのは周りだとしても、あの優柔不断な天川ならば、何もかもを自分の苦しみに変えたのではないか。何故彼の死を軽く扱うのかなどと、尊敬する父親に意見出来たとはとても思えない。全てを自分のせいだと思う、楽な方法をとったのだろう。だが、その責任を果たせる程、天川自身は強い人間ではなく、抱え込んだそれに自ら押しつぶされたと言ったところか。
 そんな天川に、佐久間さんは何度となく手を伸ばしたのだろう。彼の苦しみを軽くするために手を尽くしたのだろう。けれど、天川はそうして救われながらも、それには気付かず、苦しみを背負い続けた。
 天川がそこで乗り越えられていたのなら、こんな事にはならなかったのかもしれない。そう、佐久間さんが去る事はなかっただろう。天川にとってはやはり、どんな立場であっても佐久間さんが必要なのだ。それは、いつまでも変わりはしないはず。
 天川を、哀れには思う。
 だが、しかし。許せるかどうかは、また別の問題だ。
 もう少し、ほんの少しでも、あの男が強ければ。父親の影に脅える男ではなかったのなら、また違う未来があったのだろう。友人が死を選ぶ事も、佐久間さんが去る事もなかったのだろう。
 そして。
 そんな風に彼らを知る僕が、そこから目を逸らしていなければ。
 もっと、単純に。誰もが望むような幸せの形があったのかもしれない。


 カチャリと小さな音が響き、足音が近付いて来るのを耳が捉える。
「…何をしているんだ。風邪をひくぞ」
 玄関のドアの開閉音が上がらなかったからか、それとも偶々来ただけなのか。僕を目的にここまで来たのかどうかさえわからない、淡々とした言葉が落ちてくる。だが、その中に、先程の怒りはない。
 振り返り見上げた男の目の中に、戸惑いのような色を見つけ、僕は思わず手を伸ばした。座っていては、決してそこまでは届かないと言うのに。
 だが、その手は、虚しく中に漂う事はなく、一瞬の間を置きもせずに男にとらえられた。握り返すと、更に力を込められ、声をかけて引っ張られる。その勢いで立ち上がった僕に男は小さな笑いを零すと、背中を見せた。
 廊下を歩く筑波直純の背中は、とても儚げだった。まるで、ホテルで見た、佐久間さんのそれのように。
 僕は男の腕を取り、振り向いたその体に手を伸ばす。くちづけを交わそうと近づけた顔を、やんわりと押さえられた。確かに馬鹿な事をしているとそれ以上の事はせず、体を離す。
 大人しくリビングに戻ろうと動かし始めた僕の足を、今度は男が止めた。背後からそっと包まれるように、僕の体に腕が回される。
「…保志。もう、ここには来るな」
 くぐもった声が、首筋に落ちた。
「この部屋には、近付くな」
 体ごと振り返りとらえた筑波直純の硬い表情に、僕は頷きだけを返す。何故なのかと問う必要は、そこにはなかった。決定だとか、命令だとかではない。それが、当然の事だと、絶対であり他にはないのだと、男の眼差しが僕に教える。
「今日の事で、良くわかった。…俺では、お前を守りきる事は出来ない」
 顔を僅かに歪め、目の前の男はゆっくりと、そんな言葉を僕に向ける。
 彼の仕事を考えれば当然なのかもしれないが、普段から安全ではない事を臭わされてはいた。合鍵を与えられてはいるが、突然の訪問はあまり歓迎されていないようなので、連絡をすれば良いと言われてはいたが実際に行った事はない。しかし、今、男が口にする言葉は、そんな危険さからくるものばかりではないのだろう。経験の少ない僕でも、流石にわかると言うものだ。
 これで自分達の関係は佐久間さんと天川のように終わるのだろうかと、今の言葉がそれを示すものなのだろうかと考え、それ以外にないのだろうに確信も持てずに考える事を僕は終わらせた。今は、今だけは。曖昧な言葉は、曖昧なままでいい。いつかは、この言葉の意味がわかるだろう。それまでは、このままでもいいのではないかと、都合よくそんな風に思う。
 今夜はとても疲れていて、実感が持てないとか、考えられないとか言う事もあるが、単純にこれ以上の事を吸収したくなかった。今の状態に、突きつけられたくはなかった。はっきりとした言葉を、態々自分から求める気には到底なれない。逃げていると、自ら感じていてもだ。
 何より。はっきりと別れを告げられても、特に意味などない用にさえ思う。だから、深く聞きはしない。説明を強請って何になるというのだろうか。なるようにしかならない。何より、この男はもう、決めている。それを覆す事は僕には出来ないだろうし、する気もない。
 ならば、これでいいじゃないか。
 来るなと言うのであれば、ここにはもう来ない。ただ、それだけだ。
 わかったと、はっきりと返した応えに、筑波直純は更に顔を顰め、僕を抱きしめた。まるで、もう僕を見たくはないと言うように、強く。
 男の肩越しに見た、見慣れた部屋。もう今夜限りで見る事はないのだと思うと少し寂しく、記憶に閉じ込めるように味気ない廊下を見つめ、瞼を閉じる。ゆっくりと息を吸い、僕は体の奥底にその匂いを取り込んだ。
 膨らませた胸に、男の微かな震えを感じる。泣いているわけではないだろう。怒っているわけでもないのだろう。そこにあるのは、無念と言ったようなものか。
 背中に片手を伸ばし、すまなかったと、そっと触れる。そう、多分。今の言葉は、僕が男に言わせたものなのだろ。僕が自ら、男に距離を取らせるように仕向けたのだろう。
 無意識にとは言えない。何処かで別れる事を知っていた自分が、筑波直純にそうさせたのだ。だから、あなたが悔やむ必要はないと、僕は腕に力を込め男を抱きしめる。
 佐久間さんが、何故僕に発信機の存在を教えたのか。何故、居場所を発見されると言うのに、それを捨てた振りをして持っていたのか。
 男が思うように彼が悪足掻きを企てていたのだとしたら、それは矛盾ばかりで、わけのわからない行動だとしか言えないだろう。だが、そうではないと僕は知っている。そして、今なら何故彼がそんな事をしたのか、わかる気がする。佐久間さんは、指輪を捨てられなかったのだ。捨てたくはなかったのだ。
 佐久間さんとて動く以上は、直ぐには見つかりたくはなかったのだろう。だからこそ。指輪を持つ事により場所を特定され易い事を考え、態々融通の効く天川のホテルを選んだ。指輪を捨てる事は、彼の頭にはなかったのだ。そう考えるのが、自然である。
 しかし、それは何故なのか。発信機だと言うそれを返された時の僕には、全く理解出来ないものだった。逃亡者がこんなものを隠し持つなど、自殺行為でしかないのだから。
 だが、それが今では良くわかるのだ。
 ――小さなものでも、それはとても重いものだからね。縛られないように気をつけた方がいいよ。
 いつだったか、僕の指に光るリングを見てそう言っていた。あれはただ僕に向けられただけの言葉ではなく、彼にも言える言葉だったのかもしれない。そんな風に、小さな指輪に縛られた経験があるのかもしれない。そんな者を、知っていたのかもしれない。
 何より、あの指輪を贈った者が誰だか知っていたからだろう。その想いを、僕以上にわかっていたのだろう佐久間さんには、捨てられはしなかったのだ。逆に、僕がその存在を知っていたら、あっさりと投げ捨てたのかもしれない。だからこそ、彼もそう思い隠し持ったのだろう。
 ならば、発信機だと僕に教えなければ良かったのだ。
 しかし、それをあえてしたと言う事は、佐久間さんの目的がそこにあったのだと考えねばならない。僕には、正直、どうしても意味がわからなかった。けれど、今、筑波直純の態度を前にし、漸くわかった。佐久間さんは僕にこの事を教えたかったのだろう。ここまでしなければならなかった、この男の心を。何て事をしてくれたのかと怒らせるのではなく、逆の事を彼は願ったのかもしれない。僕に、男の不安に気付けと。
 もしかすれば。
 佐久間さん自身が、自分の胸の中の不安に気付いてほしかったのかもしれない。それは、僕ではない。あの男、天川司にだ。そう、何処かで、そんな事を思っていたからこそ、筑波直純の心を知ったのだろうか。だからこそ、彼は弱ささえも純粋で強くもあるこの男に惹かれたのかもしれない。
 佐久間さんは、天川の事だけを想っていた。けれど、彼は。筑波直純の事も僕の事も考えてくれていたのだ。
 なんて人なのだろうかと、今更ながらに僕は感嘆の息を、男の腕の中で零した。そして、やはりその存在を失う事を哀しく思う。だが、僕にはもうどうする事も出来ないのだ。世の中にはそんな事が沢山ある。ひとつひとつに嘆いていては、更に多くのものを失うだけだろう。今のように。
 こんな風にして教えられなければ気付けない僕は、自らのせいで失う温もりを今一度抱きしめ、体を離した。
 僕を見た男が口を開きかけた瞬間、僕達の間から携帯電話の着信音が響きだす。数度言葉を交わし、直ぐに向かうと応えた男は、通話を切り再び僕を見た。その目は、少し焦燥に色褪せたように思えたが、けれども好きだと思った綺麗な灰色の目だ。今でも変わらず、愛しいとそう思う。
「……悪いが、直ぐに出る」
 わかっていると頷き、僕は夜遅くに呼び出され出て行く男の姿を、その場で見送った。直ぐに動く気力はなく、リビングのソファに体を預ける。
 いつのまにか、僕は眠りに身を委ねていた。

 目覚めてもなお、筑波直純の姿は部屋の何処にもなかった。

 どのくらいこの部屋で過ごしただのだろうかと考えてみると、それは25年間生きてきた僕の人生では極々短い時間の事で、それでも慣れ親しんでいた事実を甘く心に刻み込む。こんな空間があった事を忘れずにいられたら、それだけで満足だ。
 これで本当に筑波直純との別れとなるのか、その実感は夜が明けた今もない。会う事は二度とないのだろうかと考えようとしても、想像も出来ず、だからどうだという答えは出ない。逆に、直ぐにまた会えそうな気さえする。ただ、この部屋にくるなと言われただけだと、僕は思い込みたいのかもしれない。言われたのは、それだけなのだからと。
 一体、どんなつもりでこの部屋に来るなと言ったのか。やはり訊けば良かったのだろうかと考え、今更遅いと溜息で誤魔化す。
 来るなと言うのなら、それに従うだけの事。
 そう再び決断し、僕は男の部屋を後にした。多分、僕は迷う度に何度もそんな問と決断を繰り返していそうだ。相変わらず人任せだと自分を軽く罵りながら、街灯が点る歩道を歩く。
 始発が走り始めたばかりのまだまだ暗い街は、けれども多くの人が動き始めている。朝日が照り付ける頃には、もっと沢山の人間がこの地に溢れかえるのだろう。人いきれの中を常に泳いできた身としては、この早朝の空気は気持ちが言いと思えるほどだ。真夜中に仕事を終える僕には、あまり慣れない瑞々しさが感じられもする。

 もう直ぐ太陽が昇り始めるのだろう、赤く染まり始めた東の空を電車の中から眺め、僕は今更ながらに知った。
 この街にも、こうした朝の訪れがあるのだと。

2003/10/30
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