# 126

 早朝にあの部屋を出て一週間、筑波直純からの連絡は全くなかった。
 やはり、もう自分とは会わないと言う意味の言葉だったのだと、遅ればせながら確信する。だが、だからと言って、特別心を揺さぶられるものではなかった。多分、こうして受け入れられるために、僕はあの時全てを理解しようとはしなかったのだろう。
 それが卑怯な事なのかどうなのか、僕にはわからない。そう思えもするが、当然だと思う気持ちもある。
 だから。
 仕事に向かう夕暮れの街でその男に会った時も、何と言う偶然だろうかと小さな驚きはあっても、それ以上の感情は起こらなかった。気まずくなるような事も何もなく、目の前に立つ彼にどうかしたのかと僅かに首を傾げる。そんな落ち着いた自分を少し他人のように感じつつも、僕はそうして静かに男と向かいあった。

 2月に入ったばかりの街に、冷たい風が吹き抜ける。揃いのコートを着た少年達が、北風と同じように僕達の横を勢いよく駆けていった。歩道を歩く人々が器用に、はしゃぐ彼らに道をあけている。
「日本を発つ事になった」
 男の背後のそんな様子に何気なく目を向けていた僕は、落とされた言葉に視線を戻した。筑波直純が、変わらず静かに僕を見ている。先日とは違いとても落ち着いており、何かを悟ったようでもあるその様子に、漸く僕はそこで少し衝撃を受ける。
「もう、戻って来ないかもしれない」
 戻って来ない…? 漸く浮かんだ疑問に、先の言葉を受け入れた。この男は、何処かに行くのだと。だが、言葉はわかっても、その内容までは良くわからなかった。当然のように何故だろうかと考えたが、けれども自分には知る術はないのだと僕は悟る。
 男の静かに紡がれる言葉は、その言葉の意味程も感情を伴ってはいなかった。僕に伝えられたそれはとても大事なのに、彼にとっては既に納得し終わっているものなのだろう。意気込みも何もなく、それが事実だと言う風に淡々と紡がれている。まるで、直ぐそこへ出かけるかのような気軽ささえ窺えるのは、そこに重点を置いていないからであり、僕に伝えはしても、それでどうだこうだとかはこの男は考えていのだろう。
 だから。僕はただ、そうかと男に頷きを返した。それがただの報告でしかない限り、僕には何も言えないのだろうとそう思ったからだ。だが、それに矛盾するように、噛み砕いた男の言葉は幾つかの疑問を僕にわきあがらせた。
 いつ、何処へ旅立つと言うのだろうか。戻って来ないとは、それは男の意思によるものなのか。それとも、戻っては来られない可能性があると、そんな危険があると、そう言う意味なのだろうか。
 そして。
 何故、それを僕に告げるのか。納得しているようだというのに、どこかに引き止める余地があるとでも言うのか。僕が、何も関係のない僕が、口を挟んでもいい事なのか?
 そんな疑問が、心に浮かぶ。けれども、それは何ひとつ示す事は出来ないものだった。
 気を付けて。お元気で。行ってらっしゃい。――必ず帰って来て欲しい。待っている。
 そんな言葉も頭に浮かぶだけで、直ぐに消えていく。かけられる言葉は何ひとつなく、またかけたい言葉も僕にはなかった。あまりにも、唐突過ぎて、今ひとつ実感がわかない。
 これでは、先日と同じだとそう思うが、心は簡単に全てを受け入れられるわけではない。特に、僕の心は、ひどく狭いものだ。
 別れたとしても、僕と男の道が離れてしまったとしても。僕の心はあっさりと変わりはしない。今でも、筑波直純が好きだ。ただ、それを彼と共有出来なくなったと言うだけなのだと、そんな風に僕は思っていた。恋愛関係は終わりを迎えても、思いは消えはしないのだと。だが、結局は、僕はただそんな言い訳と慰めを自分に与えていただけなのかもしれない。
 男にとってはもう、自分との関係は過去となってしまったのかもしれないと、僕は言われた言葉にそんな結論を見つける。静かな男の表情に、この一週間の距離を見る。
 頷いただけの僕を暫し見つめ、男は軽く微笑みを浮かべた。
「本当は、もう、会うつもりはなかったんだ。しかし、駄目だな、俺は。もう一度だけだと言い訳をつけて、こうしてまたお前の前に現れるんだから。そして、そんな自分を許している、始末に終えないな。お前にとっては迷惑なのだとわかっているさ。
 だが、それでも。どうしても言いたい事があるんだ、聞いてくれ」
 その言葉に、僕は視線を落とす。わかっていたが、聞きたくはない言葉だった。とても落ち着いている男を、憎らしくさえ思う。
 静かな顔をして男が持って来たのは、最後の別れなのだと、流石の僕でも気付く。だが、それを認める事は出来そうにはなかった。再び決別を前にするなど、考えられる事ではない。嫌だと心が拒絶する。僕は、曖昧なままで時と共に何処かへと流したかったのだと、そんな我が儘を胸の中で吐く。
 態々、サヨナラなんて聞きたくはない。あの友人や佐久間さんのように、この男もまた、僕にそんなものを突きつけるのか。自分は満足するのだろうが、言われる僕はどうなるのかと男に視線を戻す。
 だが、向けた顔に、そんな問いを投げかける事は出来なかった。
「嫌でも、聞いてくれないか。頼む」
 僕の迷いを知っているように謝罪を口にしながらも、「そう難しい事じゃない。聞いた振りでもかまわない。あれを終わりにしたくはないんだ」と僕の心を軽減させるかのようにそんな風に言い、微かに口角を上げる。
「最後の我が儘だ、きいてくれ」
 全てを悟ったように穏やかな表情で苦笑する男を、憎らしく思う。何故、今この男が自分の目の前にいるのかを察し、堪らない気持ちになる。どうして今更と、相手を恨まずにはいられない。
 けれども。それは、僕がしてもいい事ではないように思え、湧き上がる苦しみを男が言うように無関心を装う事で押さえ込んだ。痛む心など、今は見るべきではない。それこそ、卑怯だと。
 あの時、苦しげに別れの言葉を切り出した男を、僕は知っている。あれから、色々な事を考えたのだろう。今の男は、あの時と違い、達観した表情でさえある。悩んだのか、重荷を捨てたのかわからない。だが、苦労せずに今を手に入れたわけではないだろう。ただ、何となく時を過ごし、その時間のお陰で相手の言葉を察しただけの僕が、そんな男を詰れはしないというものだ。
「保志」
 今までと少しも変わらずに、けれどもうあと何度も呼ぶ事はないのだろう、男が僕の名を口に載せる。促されるかのようなそれに頷くと、男は小さな息を零した。その様子に、落ち着いて見えるが、どこか緊張しているのかもしれないと気付く。
 だが、それは僕とて同じなのだろう。体の横で握った手が、北風に晒されているというのに汗ばんでいる。
「前に、天川誠の墓参りに行った時に、お前は俺と同じ道を歩いてはいないのだと、そう言ったのを覚えているか?」
 僕は頷き、それがどうかしたのかと灰色の目に問い掛けた。もう、この目をこうして見る事はないのだろうかと、漠然とそんな事を考える。それは正直寂しいと思うが、もう縋りつく事は僕には出来ないのだろう。
「ああ言われた時は、正直腹が立った。俺は、お前と同じ道を歩いているつもりだった。だから、お前の言葉に、俺一人がそう思っていた事実を突きつけられたようで、情けなかった。何があっても一緒に居ようと意気込んでいるのは自分だけかと、堪らなかった。冷徹な奴だと、お前を憎くさえ思ったよ」
 酷い言われようだ。だが、腹は立たなかった。軽く笑いながら言う男からは、言葉と同じ感情は全く感じない。逆に、どこか楽しんでいるようでもある。
「なあ、保志」
 男がまた、僕の名を呼ぶ。そう言えば、いつだったか、自分を何て呼んでいるのかとこの男に問われた事があったとふと思い出す。あの頃はどうでもいいのだろうにと少し呆れたが、今なら良くわかる。好きな相手に名前を呼ばれるのは、単純に嬉しいものだ。そして。その声を、愛しく思う。
 そう僕が思うように、僕の声が聞こえるようだと言ったこの男に、本当にそれが届いていれば良いと強く思う。実際の音ではなくとも、男の名を呼ぶ僕の音が、この人に。たとえ、既にそれを願うのが遅かったと結果が出ていたとしても、今はそう思わずにはいられない。

 僕の声は、一体どれだけこの人に届いていたのだろうか。
 届ける努力を、僕はした事があったのだろうか。

 自分は何かこの男に与えることが出来たのだろうかと、少し不安を覚えた。
 僕は、間違っていたのかもしれないと。

2003/11/03
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