# 127

「なあ、保志。いつでも冷静な判断を出来るからと言って、それが常に正しいとは限らない。どちらかと言えば、お前の場合それは欠点と言えるのだろう。気をつけろ。ああいった場面であんな事は、たとえ事実でも言わない方がいい。俺じゃなかったら殴られていただろう、間違いなく」
 殴ってみるというのも手段としては有りなのだろうが、お前の場合、その効果はあまりなさそうだ。
 軽口を叩きながら煙草を取り出し口に咥え、僕に吸うかと男が仕草で問う。僕はとても落ち着いた男に同調するように、静かに頭を振りそれを断った。まるで、いつものようだ。
 だが、僕の心はジリジリと何かを訴え始めている。それは、焦りか。それとも、狂気か。男がライターで煙草に火を点ける仕草をとらえながらも、僕は自身に問い掛けた。
 頭が上手く働いていないように思う。感情も、身体も、何もかもが固まってしまったかのようだ。だが、それは何故なのか。会いに来た男に対する憤りを押さえ込んだ代わりに、僕は他のものを受け入れなくてはならなくなったのかもしれない。嫌だと、聞きたくはないとこの場を逃げる事はしなかった僕に与えられるものとは、一体何だと言うのだろうか。
 それは、単純な、男からの決別だけではないのだろう。そう。ただ別れるのならば、この男は僕に会いに来なかったはずだ。こんな話をしないはずだと気付き、僕の緊張は一気に高まった。そう、さようなら、だけではないだ。
 察したそれに、堪らないくらいに、不安になった。男の言葉を望んでいるのか、いないのか、それさえもわからなくなるくらいに。
 耳を塞ぐ事も、逆に先を促す事も出来ず、僕は筑波直純が動くのをただ待ち、ただ眺めた。大きく肺の奥に吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すその姿を、記憶に刻み込むかのように。
「俺がそれを我慢出来たのは、苛立ちの中でも、その真実に少しは思い当たったからなのだろう。はっきりとそれに気付くまでには長い時間が要ったが、お前が言った事を俺も何処かでわかっていたんだ。ただ、それを認めるのが辛かっただけだなんだろうな、多分。こんな俺でも、いや、俺だからこその意地があった」
 先程と同じように今度は携帯灰皿を取り出し、半分ほど吸った煙草を男はそこに入れた。ヤクザらしからぬものを持っているなと、妙にひとりでそれにうける。だが、男には似合っていた。
 僕のそんな心内は気付かずに、筑波直純は言葉を続ける。
「お前の言うとおりなんだろう。今は、俺もそう思う。俺達の道は同じじゃない、とな」
 男の言葉に、背筋が震えた。
 頭が一瞬、真っ白になる。
 悲鳴なのか、溜息なのか。零れかけた息を飲み込み、僕は目の前の男を見つめた。それはどう言う意味で口にしているのだろうかと問い掛ける。けれど、その応えを僕は既に察してもいた。
「俺は俺の道を、お前はお前の道を歩いている。人それぞれの人生があるんだ、同じなわけがない。お前の言う事は尤もだ。だがな、保志。それでも俺はこの数ヶ月間、確かに俺とお前の道は重なり合っていたと思う。過ごした時間は僅かで、触れ合うよりも互いの、それぞれの現実と向きあっていたが、それでも俺はそうだったと思いたい」
 真剣なその声に、僕は頷く。自分もまた、そう思いたいと。だが、男が言わんとしている事に、恐れさえ感じる。もう、それ以上は言わないで欲しいと。
 しかし、言葉は無情にも続けられる。
「このまま。このまま、同じ道ではなくとも、並んで歩けたのなら…。俺はその未来も捨てたものじゃないと思う。いや、今でも魅力的だ。だが…、そんな事は出来ないと、俺自身がその考えを否定するんだ。一緒にいるのは、無理だと言うわけじゃない。問題もあるだろうが、可能な選択肢だ。けれど、それを選んだら、俺は同時に後悔もすると知っている。わかっている。
 お前との人生を選ばないのも、確かに辛い事だ。本当に、惚れているんだからな。だが、自己満足なのかもしれないが、辛くともそこには救いがあると思う。少なくとも、お前はこんな俺に関わらなくてもよくなる。それだけを見ても、悪い事じゃない。
 俺は、今の俺を捨てられない。最低な生き物だと後ろ指をさされようと、この世界を捨てられはしない。縋るほどの魅力があるわけでも、尽くすほどの見返りがあるわけでもない。だが、ここにいるのが自分なのだと、そうでなければ俺ではないのだと、他でもない自分自身が感じるんだ。何処かに行こうとお前を誘ったのは、間違いなく本心からだ。あの時は、それに縋りたかった。助けてもらいたかったのかもしれない。だが、今は、踏み出さなくて良かったと思っている。お前との事じゃなく、単純に、俺はこの世界を出て生きていける自信がない」
 だから。
 そう続け、けれども男は開いた口を一度閉じ、昂ぶりかけた心を落ち着かせるように自らの為に息を吐いた。
 僕は、そんな男を間近に見つめながらも、段々と男が遠のいて行っているような感覚を味わう。実際、迷う僕とは違い答えを出した男との間には、大きな距離があるのかもしれない。僕達の道は既に、遠く離れていたのだろう。ただ、それを僕が認めたくなかったのか。気付かない振りをしていたのか。
 その事実をきちんと見ているのだろう男が、納得したように口を開く。
「俺はまだ、お前が好きだ。可能ならば、一緒にいたい。でも、それをする事は、出来ないのだろう。少なくとも、今の俺には自信も覚悟もない。
 俺と同じ道をお前に歩いてくれとは、俺には言えない。多分、もっと平穏で、それこそ自分が普通のサラリーマンだったりしたのなら、俺は迷いもなくそう頼めたのかもしれない。お前のこれから続くであるだろう道を捨てさせるだけの見返りを与えてやる自信も、意地もあっただろう。だが、この俺にはそれがない、情けない事に。
 俺は、こんな自分の道に、お前を引き込めない。何があっても守るからなど、所詮その場限りの戯言にしか過ぎない。四六時中お前を俺に侍らせておくわけにもいかないだろうし、また、もしそんな事が出来たとしても何処にだって隙は生まれる。いかなる取引を出されても、お前を絶対に選ぶと約束出来る程、俺には権力も何もない。何より。俺は、お前からお前の歩くべき道を奪いたくはない」
 自信に溢れているだとか、力強く歩いているだとか、そんな人を惹きつけるものを持っているわけではないし。逆に、手を差し伸べなければだとか、救ってやろうだとかいう、危なげなものでもない。ただ、自分の道を歩いているだけなんだろう、それなのに、お前の姿は魅力的なんだ。不思議なほどに、俺にはそれが眩しく見える。
 そんなお前だからこそ俺は惚れたのかもしれないと、筑波直純は軽く喉を鳴らした。だからこそ、そこから離したくはないのだと。
 そして。
「保志」
 優しく僕の名を呼ぶその声に、僕はいつの間にか落としていた視線を上げ、男と目を合わせた。透き通るような、清んだ瞳に僕が映る。
「俺は、お前と歩けない。本当に、すまない。この間は腹をたて八つ当たりをしてしまったが、お前に怒っているわけじゃないんだ。信じてくれ。だから、お前が気にする事はない。逆に、意気地のない俺を詰ればいい。お前はお前なりに俺を必要としてくれたのに、それに応えられない俺が無能なのだろう。
 正直、俺はお前に求めすぎたのかもしれない。自分の願望までも、お前に押し付けようとしていたのだろう、俺は。そんな俺に短い間だったが付き合ってくれた事を、嬉しく思う。最後まで、迷惑をかけて悪かったな。
 これから仕事なんだろう? 唐突に、すまなかった。お前にすればもう何を今更と言ったものなのだろう。俺の自己満足だな、これでは。何を言っているんだとでも、思っておけばいい。だが、俺としてはこうして、もう一度会えて良かったよ。本当に、良かった」
 納得した事を伝えたかったのだと、あんな情けない姿が最後では様にならないからなと、男は小さく苦笑を落とす。そして。
 本当に最後だからと、男の手が上がり、僕の冷えた頬に軽く甲で触れた。掠ったそれは、ほんの少しの温もりを持っていただけで、離れた瞬間にその温かさを忘れてしまう。
「悪い奴に振り回されたと恨んでくれていい。さっさと忘れてくれても構わない。だが、不幸にはなるなよ。俺の決心が無駄になるからな」
 意地でも元気でいろよと、男は軽口を叩く。だが、その目はとても強く、僕の心まで射抜くようだった。
「まだ、お前の人生はこれからだ。たった25年しか生きていないんだからな。好きな女を作って結婚して子供を持って、人並みの幸せというものを味わえ。こうして俺と別れて良かったと、絶対に思える瞬間を作れよ」
 必ず幸せになれと、笑いを含ませる男の言葉に、そんな思いが見える。
 震えそうになるのを、僕は軽く笑う事で耐えた。上手く笑えたのかどうかはわからないが、同じように口角を上げた男に、失敗まではしていないのだろうと思い込む。そうしなければ、綻びを見つけた途端、自分でそれを引き裂いてしまいそうだった。
 真っ直ぐと僕を見る目に、意地でも動きはしないと、その手に縋りつきはしないと足を踏ん張る。だが、無慈悲にも、何故だか地面はグラグラ揺れていた。耐える僕を笑っているかのように。それでも、膝をつくわけにはいかない。
 灰色の目を、ただ見つめる。
 もっと強い視線を向ければいい。そうすれば、こんな僕など、その目に止まる事はないのだろう。
 存在しないかのように、僕を通り抜け、もっと向こうを、その先を見ればいいのだ。あなたなら、それが出来るだろう。だから。
 お願いだ。こんな僕など、もう、見ないで欲しい…。
 早く行ってくれと、頭で誰かが叫んでいた。だが、それと同時に、このまま世界が終わればいいとも思う。
 次に動いた時に来るのは、絶望なのかもしれないから。


 そう思いながらも。
 結局は、何ひとつ対処を出来ないのが、僕という人間なのかもしれない。

2003/11/03
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