# 128

 僕は、横を通り過ぎ去る男を、止める事も振り返り見送る事も出来なかった。ただ、今まで彼が立っていた地面を見つめ、そこに誰もいない事をゆっくりと頭に教え込む。これが、本当の別れなのかと、ぼんやりとする頭で考え小さな笑いが零れた。
 だが、それは長くは続かない。
 冗談じゃないと憤りが全身を駆け巡り、次の瞬間には、これでいいじゃないかと冷めた気分になった。
 なのに。
 気付けば僕は、男が去った方に向かって駆けていた。避けきれずに人とぶつかりながらも、無我夢中で足を進める。けれども。一体どれくらいの時間僕はあそこに佇んでいたのか、求める姿は何処にも見当たらない。目についた歩道橋に上がり四方を見回すが、歩行者の中にそれらしい姿はなかった。
 当たり前だ。近くに車が待っていたのだろう、もうこの辺りにはいないのだ。いるはずがないのだ。そうわかりながらも、焦る心に急かされるように僕は歩道橋をおり、闇雲に街を走った。そうしていなければ、何かに押しつぶされてしまいそうだった。
 それが、後悔なのか、罪悪感なのか。それとも、ただ筑波直純に向ける想いなのかわからないが、何も考えられないほどに動いていなければ死んでしまいそうな気がした。

 望んでいた事だというのに、それを男に納得され、僕の心は嫌だと悲鳴をあげている。
 そう。僕は何処かで、初めから男との終わりを意識していた。この関係が永遠には続かないと、続けられるはずがないのだと、勝手に悟っていた。それなのに。相手がそれを受け入れたのに対し、僕は耐えがたい衝撃を受けたのだ。自分勝手な事を考えていたのは僕だというのに。卑怯なのはこんな自分だというのに、だ。
 同じ道は歩けないと、そんな態度をとり続けた僕は、けれども何処かで男を求めていたのかもしれない。都合よく、男がそれを壊してくれると、僕を引っ張っていってくれると思っていたのかもしれない。だから、こんなにも辛いのだろう、男が納得した事が。だが、この痛みも、自らが招いたものなのだ。自業自得と、そう言うべきものなのだろう。
 男が生きる世界と自分の世界のギャップなど、初めて会った時からわかっていたのだ。だからこそ、求められそれに応え、僕も彼を求めてはいても、それでもその差を意識せずにはいられなかった。僕は、彼の世界に入る事は出来ないし、彼がそこから出る事も出来ない。ならば、いつかは道が分かれるのだろう。それは、良くわかっていた事で、その他の事など考えなかった。
 そう、だから足枷にはなりたくはないと思ったのだ。そうなる前に、この関係を清算しなければならないのだろうと、僕は考えていた。ただ、それを直ぐに実行する程、僕は目の前の心地良さを手放す意気地がなく、何処かで後少しだけはと女々しく願っていたのかもしれない。そうして、僕はタイミングを見計らったのだ。こんな終わりを招いたのだ。
 佐久間さんとの事がきっかけで、男はこんな僕に付き合いきれなくなった。それは、あまり予想した事態ではなかったが、そうなるのであればそれでも良かったのだ。少なくとも、僕が男を切るよりはいいのではないかと、そんな考えを僕は持っていたのかもしれない。まるで、自虐を美化するかのように。こんな自分に愛想をつかすのなど、当然だろうと納得していたのかもしれない。
 だが。実際は、僕がただ彼を苦しめたというだけなのだ。僕の態度がそれを選ばせたというだけなのに、その事を悟った振りをしながらも、本当は良くわかっていなかったのだろう。だからこそ、男がはっきりと別れを告げに来た時、僕は苛立ったのだ。そして、恐れたのだ。
 ただ、自分達は合わないからと、そんな単純な思いならばどれだけ楽だっただろうか。そう言われたら、僕はそうだなと男に頷く事も出来ただろう。そう、強がる事も出来たはずだ。それこそ、別れの言葉ひとつ、きちんと伝えられたのかもしれない。だが、相手は僕の言葉を認めたのだ。
 あの言葉を、嘘だったとは言わない。だが、僕が告げたあれは心からの真実ではないのだろう。それを見極められない男を詰る事など到底出来ないが、それでも、認めて欲しくはなかったと思う。僕は、男に頷いて欲しくはなかった。やはりわからないと、そう思って欲しかった。
 未練を見せて欲しいわけではない。そんな姿を見て、満足したいわけではない。だが、綺麗に清算した男の姿は、見たくはなかった。自分勝手だろうと何だろうと、僕は知りたくはなかったのだ。全てが過去になる事に。
 僕も男も、目の前の現実を忘れていたわけではなく、考え続けていた。互いの立場を、関係を、意識していた。そう。僕はそれに抵抗する事は考えなかったが、男はどうにかならないかと考えたのかもしれない。いや、したのだろう。そして、それに協力しない僕自身に愛想をつかしたのだ。こんな僕との恋愛は、ここまでが限界なのだと悟ったのだろう。
 自惚れかもしれないが、僕は徹底的に嫌われたわけではないと思う。男の言葉を信じたいだけなのかもしれないが、ただ二人で進めたのはここまでなのだと男が納得しただけなのだと思う。ならば、まだ僕は頑張れると、頑張りたいと伝えたら、何かが変わるのかもしれない。
 そんな馬鹿な考えを頭に浮かべ、直ぐに自分で否定する。そんな事があるはずがないと。あの男は、自らの決心をそう簡単に返る事はしないだろう。それでも、何かに縋らずにはいられず、どうすればいいのかと僕は考える。もう、方法があるのかどうかすらわからないと言うのに。
 男に全てを受け入れられた瞬間、僕の中で何かが壊れた気がしたが。
 それは、もしかしたら、今まで取り繕ってきた建前なのかもしれない。
 崩れた中にある僕の本心は、ただ筑波直純が好きだと言う事だけなのだろう。立場がどうだとか、自分の性格がどうだとか、現実的に考えて何が可能なのかなどは関係なく。何もかもを失って最後に残るのは。いや、根本的な僕の心にあるものは、ただのそれなのだと思う。
 だからこそ、色んな事を考えたのだ。だからこそ、心が惑わされたのだ。強がったのも、弱さを見せたのも。嘘をついたのも、心をさらけ出したのも。距離を作ったのも、傍に寄り添ったのも。全ては、男を想っていたからこそのものなのだ。そんな感情を持つ自分が、大切だったからだ。
 そう、僕はただ、それを守りたかったのかもしれない。男への感情をなくすのが、彼本人を失うよりも怖かったのかもしれない。
 僕は、何ひとつ、納得なんてしていなかった。確かに、諦めようと思い込んでいたのかもしれない。自分なんてと卑下する事で、それに気付かないようにしていたのかもしれない。男がわかったと認めたように、僕は全てを受け入れているわけではないのだ。悟った男を前にした瞬間、僕は漸く今になって自分のそんな気持ちに気付いた。僕ははじめから、逃げ続けていたのかもしれない。
 だが、そうする事で、僕は自分を守ってきたのだ。結局、僕はただ傷付きたくなかっただけなのだろう。いつか訪れる別れに対し、自らを防御することに必死だったのかもしれない。
 それにより、どれだけ男に傷をつけるのかなど、実際にはひとつも考えていなかったのだ。
 だからこんな風になってもなお。
 恥もなく、あの男を求められるのだ。自分の身の程も知らずに。犯した罪を目の前にしながらも、厚顔に、厚かましく、男を望むのだ。
 終わりになど、したくはない。


 全ての街の音が消え、いつの間にか沈んでしまった太陽の変わりに溢れるライトも視界には入らず、僕は一人暴れるように駆け回った。
 喉が痛い。心臓が壊れそうなほど早い。その鼓動の音が煩い。手が脚が、体中が熱い。血管のめぐりがリアルに感じられ、まるで体内で虫が這いずり回っているようだ。痒い。痛い。何よりも、苦しい。気持ちが悪い。
 その感覚に、自分が倒れている事に気付く。
 真っ暗な空間で仰向けに寝転がり、荒い息を吐いている僕は、一体いつ走るのを止めたのかも思い出せず、見上げる空に浮かぶ細い月をただ視界に入れていた。月を見るために自分は横になったのか、それとも単に体力が尽きただけなのか。どちらだろうかと考え、とりあえず確かめようと体を動かしてみると、あっさりと上半身を起こす事が出来た。だが、支える腕は寒さのせいではなく震えている。
 だるい体をどうにか立ち上がらせ、漸く僕は辺りを見回した。
 無意識に、僕は筑波直純の影を追っていたのかもしれない。
 そこは、一度だけ彼に連れて来られた事がある、四谷クロウが居た廃ビルの前だった。よくもまあ、こんなところで寝転がっていて無事だったものだと思いながら、汚れた壁に背中を預けずるずると僕は再び地べたに座り込む。人影は全くない。近くの繁華街からの喧騒は届くが光はこない、暗い空間をぼんやりと見つめた。似たような汚い建物に、それに負けないくらいの地面。
 心を刺激するものなど、何ひとつとして存在しない。
 暫く味気なさ過ぎる空間を眺め、僕は腰を上げた。まだ少し筋肉が震えているが、歩けない事もない。
 表通りに出るまでに、メールでマスターに遅刻を伝える。
 追いかけた男は、結局とらえられはしなかった。
 夜が深まるにつれ更に増えてくるのだろう人込みの中をゆっくりと歩きながら、僕は小さく笑う。こんなにも、沢山の人がいるというのに、求めるに人物はいないのだ。それを理不尽だと思うのは、許されない事ではないだろう。少なくとも、そんな僕を相手にする者など周りにはいそうにないので、文句を言われる事はない。
 携帯を鳴らせば、可能なのかもしれない。そう、男を呼び出せるのかもしれないと、駅のホームで電車を待っている時に漸くその考えが頭に浮かんだ。だが、もう、それをする気にはなれなかった。
 落ち着いた今となっては、我武者羅に追いかけてでも伝えたかった言葉は、あまり意味がないように思えた。旅立つと決心している男に、納得したのだと笑顔を向けた男に、あれは間違いだったと言ってどうなるのだろう。行かないで欲しいなど、迷わせるだけのもので、なんの意味もないのかもしれない。
 そう。全てがもう、遅いのだろう。男の中だけではなく、実際に何もかもが終わってしまっているのだろう。ただ、僕がそれから目を逸らしているだけで。
 今まで、僕が男を悩ませていたのだろう。ならば、今回は。
 僕がそれを受け止めるべきなのかもしれないと、納得した男を認めるべきなのかもしれないとそう思った。
 必死に走り回っても筑波直純を見つけられなかったのは、見つけても無駄なのだと、僕が何処かでそんな風にこの状況を受け入れていたからなのかもしれない。
 全てが、自業自得と言う事で。迷うのさえ、馬鹿らしい事なのかもしれない。
 ホームに滑り込んできた電車に乗り込み、吊革に掴まり、車窓から外を見る。鏡となり車内の様子が映るそのガラスの向こうに、今しがた駆け回っていた街が見えた。男を求めたそこは、こうしてみると少し味気なくさえ思う。
 僕と筑波直純の間には、色々なものがありすぎたのかもしれない。
 線路のカーブに、周りの者と同じように体を傾けながら、ふとそんな事を僕は思った。
 決して多くはなかった交わした会話も、僕達にはあまり意味のないものばかりであったたのだろう。そんなものばかりを周りに掻き集め、肝心なところを隠していたように思う。
 僕達の間には沢山の言葉があり、会話を交わす度に真実から一歩一歩遠のいていたようにさえ思える。言葉など存在しなければ、傷つけあう事も、騙しあう事もなかったのだろう。思いを語るには、言葉など必要ないのだ。見つめあえば伝わるそれに、僕達は色んな色を、錘を付け過ぎた。
 そう、もしも。
 もしも、言葉などなければ。そんな世界で出会っていたのなら。何かに惑わされる事も、迷う事もなかったのかもしれない。音のない静かな場所で向きあったならば、ただ互いの思いを真っ直ぐと感じ取れたのかもしれない。伝えられたのかもしれない。
 言葉の無い国で出会えていたのなら、僕達は違う未来をこの手に出来たのだろう。
 この結末は、僕の弱さが引き起こしたのだろうか。それとも、彼の…?
 この世界で出会った僕達には、この終わりが初めから与えられていたと言うのだろうか。
 この世界は、人を生かせはするが、道標にはなってはくれない。
 電車から吐き出され、流れる人波の中で見渡した、何処かへと向かう人々。僕も彼らと同じ、ただ波に乗っているだけなのかもしれない。けれども。
 自分の願うような、望むような世界を手にしようと思わなかったのは、確かに僕の弱さだろう。男をこの手に出来なかったのも、そう。だが、それでも。
 後悔は、ない。
 過ちを犯したのかもしれない。悔やむ心は、無いわけではない。だが、この世界にいる事に、後悔はない。
 僕達は、この世界だからこそ出会えたのだ。だからこそ、ほんのひと時でも、共に歩く事が出来たのだと思う。
 そして、また。
 また、いつか。再び会える時が来るのかもしれないと、そう思える場所がここだから。僕はこの世界に、居続けたいと思う。わかり合える世界に魅力を感じない事はないが、それでも。
 たとえもう、会えはしないと運命付けられていたとしても。
 自らの弱さで傷つけられようが、何度も同じ過ちを犯そうが。僕はここに居る。
 夢のような世界は、僕には必要ない。




 筑波直純と別れてから数日後。
 勤める店の閉店が決まった。

 こんな風に唐突に、僕は大切なものを、失っていくのかもしれない。
 これから先も、同じように。
 だが、それでも、僕は。この世界で生き続けるのだろう。
 終わりがくるまでは。

2003/11/03
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