# 129

 こうしてこんな時間にこの道を歩くのも、明日で終わりとなるのだろう。
 そう考えると、今まで気にもしなかった真夜中の喧騒が華やかに聞こえるのだから、人間の感覚などいい加減なものだ。仕事場からの家路に、大切なものなど何ひとつとしてなかったというのに、失うとわかるととても気にかかる。不必要なものでも拾っておきたい気分にはなるのは、やはり寂しさからなのだろうか。
 胸の中に存在する、言葉では言い表せない喪失感を持て余し、適当な事を考えながらも結局はいつものように足を進めるその先に、僕は一人の男を確認しゆっくりと足を止めた。
 路上で寝るには危険な季節だが、道端には僕と変わらない年頃の若者が所々に座っている。そんな彼らと同じように、縁せきの上に座り込んでいた男が僕に気付き、同じようにゆっくりと立ち上がった。革のジャケットに、膝が擦り切れたジーンズ。汚れたスニーカーを穿いた男の足が、一歩僕に近付く。
 岡山だった。
 鋭い視線を真っ直ぐと僕に向けながら近付いてくる青年は、まるで獲物を見つけた肉食動物のような感じがした。殺気などは、全くない。だが、そこには静かな闘志とでも言うのか、こちらの意思が消えてしまう程の強い思いがあった。それに竦んだ訳ではないが、岡山のその雰囲気に僕は驚き、まともな反応が出来ない。いや、ここに居る事さえ、驚きだ。
 目の前まで来た彼を見つめ、ただこの事実を納得するだけで精一杯だった。
 だから。
 突然、襟元に手を伸ばされても。彼の振り上げられた拳が、自分に向かっておりてくるのを視界に入れても。何がなんだかわからなかった。
 殴られる。
 そう思った時には、もう頬に衝撃を受けていた。
 よろめく僕を腕一本で支え、岡山はもう一度、今度は腹に拳を加えてくる。その攻撃はわかっていたが、逃れる術など僕にはなかった。受けた痛みは、僕の口から数滴の血を地面に降らせるだけで、悲鳴ひとつ上がらない。だが、それを当然だと知っている相手は、無言のまま僕を閉まった店のシャッターに勢いよく押し付けた。
 ガシャンと、騒がしい街の中でも大きく響いた音に、近くから短い悲鳴が上がる。地面に座っていた少女が立ち上がり、僕達にその場所を提供した。
「おい、何やってんだよ」
 喧嘩ならよそでやれよと、迷惑そうな声がどこからか降ってくるが、止める気は全くないのだろう。その声は文句を言いながら遠ざかっていく。
 襟首を両手で掴まれ、シャッターに背中を押し付けられながら、僕は睨みつけてくる岡山の目を見返した。だが、それが気に入らなかったのか、投げ捨てるように手を放される。倒れるように地面に腰を下ろした僕は、シャッターに体を預け、ゆっくりと大きく息を吐いた。
 唇の端から、唾液が零れる。多分それには血が混じっているのだろう。口内に広がる鉄の味からは、僅かに切った程度で出血は酷くはないのだとわかるが、この不味さは耐えがたい。
 痛む口を動かし、僕は血の混じる唾を地面に吐いた。そんな僕の姿に冷やかな視線を落とす岡山が、漸くそこで口を開く。
「…何故、別れた」
 頭に響いたその声に視線を上げると、岡山が顔を顰めて同じ言葉をもう一度紡いだ。
「何故だ。何故なんだよっ」
 殴られたのは、痛いのは僕だというのに、悲鳴のように聞こえるその声に、僕は驚く。何の事かと惚けるつもりはなく、岡山がさしているのは筑波直純との事なのだろうとわかるが、それを何故問われなければならないのか全くわからなかった。だが、問わずとも続けられた言葉に、その意味を納得する。
 今になって別れるなど卑怯だぞと、僕を詰るその言葉に。
「お前がそんな奴だとは思わなかったぞ、保志ッ!」
 ヤクザだと初めからわかっていたはずだ。それなのに、危険だと感じた途端にこれなのか。
 噛み付くように、自分よりも年下だろう青年が目の前で吠えるのを、僕は淡々と受け止める。殴られた事などどうでもいいと思える程に、ストレートに向けてくる岡山の心がよくわかった。僕とあの男の決別事態をさすのではなく、この青年はその理由が納得出来ないと言うのだ。
 だが、僕は何も、あの男の危機を感じそれが怖くなって別れた訳ではない。本人からどう聞いているのかは知らないが、僕達は互いに、そんなものを怖れていた訳ではないと僕は思う。恐れていたのは、もっと精神的なものに対してなのだろう。
 そうではないのだと口を開きかけ、けれども僕はそれを直ぐに閉じ、代わりに小さな溜息を落とした。何もかも全てをそんな風に思い込んでいる訳ではないのだろうと、僕は自分を見下ろしてくる岡山の目からそれを察する。自分は当事者ではないと、口を挟める立場にはいないという事を、目の前の青年は充分にわっているようだった。
 だが、それでも。僕を責めずにはいられないと、誰かに当たらずにはいられないと言う事なのだろう。そして、多分、その一番の適任者が僕であるというのは、間違いのない事実なのだ。
「何とか言えよ。いい訳はないのか! それとも、全て事実だとでも言うのかよ!?」
 反応しろよと、再び襟首を掴まれ引き立たされる。僕は怒りのためか震えるその手を、静かに押さえた。被せた手に、ゆっくりと力を込めていく。
 多分、今一番虚しさを感じているのは、僕ではなくこの青年なのだろう。
「…畜生ッ!」
 屈辱を受けたように顔を顰めたが、先程のように手を振り上げはしなかった。変わりに、勢い良く手を振り切られよろめいた僕を、岡山は苦しげに目を細めて見据えてくる。とても、辛そうに。
「……俺は、納得出来ない。こんなの、出来るわけがないだろうっ!」
 言葉と共に僕の顔の横を拳が通り、再びシャッターが大きな音を立てた。岡山が殴りつけた力がそのまま、僕の背中に伝わり爪先まで響く。
 睨みつけてくる、視線。だが、その叫びは、僕に対してだけのものではないようだった。
 筑波直純にこの件に関して何か吹き込まれているのか、それとも他に何かあったのか。
 そう言えば、と小さな違和感に気付く。
 あの男は日本を出ると言っていたが、この青年は一緒に行かなかったのか。
 ヤクザ社会の事など全くわからないが、この青年ならあの男について行きそうな気がしていたので、今目の前にいる事がとてもおかしく思えた。
 日本にはもう帰らないかもしれないと言ったあの男の言葉は、嘘ではないだろう。僕以上にその立場を知っている岡山が残っているのは、何故なのか。その事実に、不安を覚えるべきなのか安堵を覚えるべきなのか、何も知らない僕には全くわからない。だが。
 わからないが、この青年もまた、あの男と二度と会えないかもしれないという立場に今立っているのだろう事はわかった。
「嘘でも、お前は待っていると言うべきだったんだ。そんな事は、お前だってわかっていたはずだろう。何故そうしなかったんだ。確かに、あの人には、そんな嘘は簡単にばれるんだろう。だが、それでも! 筑波さんはその言葉が欲しかったはずだ。お前に言われたかったはずだ。別れるだなんて、冗談じゃない。ホント、冗談じゃないんだよッ。こんな風にあの人を切ったお前を、どうして許せられるというんだッ!
 お前が、何で、あの人を捨てられるんだよ! よく、そんな事が出来たな。お前を、ずっと大切にしていた筑波さんを。いつでもお前の事を考えて、守っていた人を、何故お前が捨てるんだよ! 最後まで自分勝手に振り回して、満足か。お前には、情けも何もないのかよッ。命をかけて出て行く男に言う言葉が、別れなのかよ!」
 最低だ、人間じゃない。そうはき捨てる岡山に、反論する術は僕にはない。そう、僕は確かに最低だ。
 待っている。
 岡山の言うそんな嘘など、あの時の男は必要としていなかった。それは、確かだと思う。だが、心の奥底ではそんな思いも持っていたのかもしれない。あの強さは、それを隠すためのものだったのかもしれない。いや、自分のそんな感情よりも、彼は僕の事をより多く考えてくれたのだろう。
 筑波直純は、僕などよりもずっと、僕の事を考えてくれていたのだと、漸く気付く。あの別れは、自分自身のためではなく、全て僕を思っての事だったのかもしれないと。
 ただ、足枷にはなりたくはないと僕は思っていたが、果たしてそれは誰を考えての事だったのだろうか。今になって思えば、あの男の為でも何でもなく、自分がそんな存在になる事に耐えられなかっただけなのかもしれない。そんな自分を、僕は受け入れられはしないと、その苦しみから単純に逃れたかっただけなのかもしれない。本当は最初から、こんな思いを持つ僕は、男にとっては重荷となっていたのだろうに。
 甘えていたのだろう、僕は。あの男の優しさに、甘えていたのだとそう思う。慕われているというその思いに、何処かで自惚れていたのかもしれない。そして、そうだと言うのに、身勝手に畏怖さえしていたのだろう。
 僕はそんな自分自身を意識の外に置き、目も向けなかった。そう、男を重荷のように感じてさえいた。岡山の言うように、何処かで、逃げるチャンスを窺っていたのかもしれない。たとえ、無意識だとしても、それは許されざるべき行為だ。弱さゆえだと逃げるには、あまりにも自分本位な行いだ。
 それなのに。
 そんな僕の内面に、筑波直純は気付いていたのかもしれない。身勝手に迷い続け、そのままに動く僕の行動を、あの男は僕以上に見知っていたのかもしれない。それなのに。
 それなのに、詰る事もなく、それを指摘することもなく。そんな僕をまるで受け入れるかのように、許した。何も言わなかったのは、僕を守るためだったのかもしれない。僕に僕の本性を教えなかったのは、彼の優しさだろう。それに、僕は甘えた。恥知らずもいいところだ。

 何も気付かず、自身の痛みばかりを大事に抱え込んでいた僕を、そんなにも思ってくれた男は今はもう僕の傍にはいない。

 言うべき言葉を浴びせ終えたのか、去って行く岡山を見送りながら、僕は今は別の国に立っているのだろう男を思った。
 去り行く青年はあの男にも、僕に向けたような言葉を言ったのだろうか。それとも、僕に望んだ言葉を、自ら口にしたのだろうか。待っていると、そう男に伝えたのだろうか。
 もしそうならば。男はそれを、どんな風に受け止めたのだろう。
 ただ静かに。僕に向かいあったあの時のように、穏やかに笑ったのだろうか。


 もしもこのまま、過去に戻れるとしたら。
 結果は変えられずとも、願う場所に戻れるのであれば。
 僕は最後に男と向きあったあの時に戻り、彼と同じような穏やかな笑みを相手に向けたいとそう思った。
 別れを取消すよりも、それらしい言葉を向けるよりも。

 男を想う心のままに笑えればよかったと、そう思う。

2003/11/06
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