# 130

 耳鳴りがするくらいに空気が冷えた夜、ひとつの店が、静かに看板を畳んだ。
 昨夜、岡山に殴られた頬は、そう酷くはなかったがやはり痣になり、目立った。今夜で閉店だという店の中では、一時の笑いを起こす材料となったが、それでも邪魔なものには変わりなく酷く申し訳なく思ったのだが、悔やんでも後の祭りだ。醜い痣が消える訳でもない。
 理由が理由だけに殴った本人を詰る事も出来ず、25にもなっても餓鬼のような自身を恥じるしか僕には残されていなかった。同僚はおろか、乗客にまでからかわれながらも心配されるのだから堪らない。いっその事、呆れて説教されるのであれば、こちらも強がれるのだが、そう都合よくはいかないらしい。
 だが、そんな在りようが、最後だと意識する事はなく普段どおりの空気を店に落としてもいたと思うのは、僕の勝手な判断なのだろうか。醜い痣は、少しは役に立ったと思うのは、自惚れすぎだろうか。
「子供じゃないんだから、喧嘩なんかするなよ」
「そうですよ。人相悪くなってますよ、保志さん。それだと、サックス吹くのも痛いでしょう?」
 閉店を意識していない事はないのだろうに、いつものように好き勝手に話す同僚達が、とてもありがたかった。
 けれども。
 終わりは、確実に来るのだ。

 約七年半勤めた僕も当然の事ながら、最後の後片付けを終えたマスターの様子は、先程までとは違い寂しさの中にいるかのようだった。人気がなくなった店内を前に、漸く閉店を実感したのか、飽きる事無くフロアーを眺め続けている。その顔に、人前では気丈にしていた男の脆い部分を感じ取り、僕は思わず目を逸らした。
 売上が落ちただとか、客質が変わってしまっただとか。そんな風に店に問題があったのであれば、彼とて対処の方法はあったのかもしれないし、気持ちの方も今とは全く違ったのだろう。最後まで、彼が望んだ店であったのが救いとなるのか、それともただ辛さが増すだけなのか。その心情を量り知る事は、僕には出来ない。
 カウンターの中で一人グラスを傾けるマスターは、急に年をとったようであり、小さく見えた。
 後日に業者が入るからと、全てがいつもと同じ状態のままの店を、ずっと眺め続けている姿は店と一体になっており、どこか遠くに感じてしまう。いや、朧だと言うのだろうか。僕以外の従業員を見送り、張っていた糸が緩んだのかもしれない。好きなものをもって返っていいよと言う言葉に、遠慮なく楽譜を物色する僕の事も、その頭にはもうないのだろう。
 ステージに座り込み、何度目かのマスターの横顔を眺めた後、僕も彼と同じように店内を見回した。深海の静寂と言うよりも、今は心の闇と言った感じに悲しみと寂しさが漂っているようだ。
 本当に寂しくなると、僕は手元に視線を落とした。だが、この心はマスターの比ではないのだろう。
「それだけで、いいのかい?」
 選んだ楽譜を手にカウンターに近付くと、マスターは数拍の間を要して僕に気付き、顔を向けた。
【十分です。ありがとうございます】
「ああ、いいよ、気にする事はない。あと、あのサックスも良かったら貰ってくれないかな。もう、かなり古いんだけど、まだ充分吹けるだろう」
 思いもよらない言葉に、僕は目を見開き、そんな事は出来ないと首を横に振る。だが、マスターはそんな僕を笑い「保志君に貰ってもらう方が嬉しいんだよ」と言いながら席を立った。そして、カウンターを出てステージへと向かう。
「ピアノは店の備品だし、売る事になるだろう。ま、二束三文とまではいかないだろうが、それと変わらない程度だろうね」
 グランドピアノを軽く叩きながらそう言い、マスターは先程僕が丁寧に磨いて収めたサックスのケースを手に取った。
「でも、このサックスは、僕が知人から格安で譲り受けたものだからね。売ろうと頑張っても、金にはならないだろう。だから、気にしなくてもいい。僕はもう吹かないし、君に貰われる方が楽器も喜ぶだろう。僕の家の押入れで眠るよりはね。
 充分な退職金は払えなかったからその代わりに、と言うには値打ちも何もないんだが、どうだろうかね、保志くん」
 他の者には言っていないが、知っても誰も文句は言わないだろう。
 邪魔になったら処分してくれてかまわないからと、マスターはサックスを僕に差し出した。
 中古の楽器市場など僕にはわからないが、まだまだ充分に吹けるものだ。格安で譲り受けたとの事だが、元は相当に値の張るものだろう、金にならないとは考えられない。それをただで僕に譲ると言うマスターに、感謝こそすれ、僕はそれを辞退する横暴さは持っていないつもりだ。頭を下げ受け取るのが、礼儀と言うものだろう。
 小さなプライドや何やらを前に出し首を振るのは、今まで面倒を見てくれた彼に対する裏切りのようにさえ思え、僕は手渡されたケースを大事に腕に抱えこんだ。その重みは心地良さと切なさを覚えさせる。この店で過ごした僕が、この7年半という時間が、そこに詰まっているようだった。


 店を出て、ゆっくりと歩いて部屋に帰ると、早朝と呼べそうな時間になっていた。まだ外は暗いが、顔を出すのが早くなり始めている太陽は、多分直ぐ傍まで来ているのだろう。明るくなってゆく空を見ようかと、僕は窓辺に座り灰皿を引き寄せた。眠りにつく気分には、全くならない。
 少し興奮しているかのような鼓動を遠くに聞きながら、妙に冷めた気分で外を見つめる。だが、暗い空が紫色に変わり始めた頃には、それさえももう僕の中からは消えていた。何も考えず、感じずに、ただ変化し始めた天を見る。
 いつの間にか、目の前の窓ガラスは薄っすらと曇っていた。無造作に手で擦ると、掌に外の寒さが伝わってきたが、それ以上に自分の温かさを教えられる。湿った手を一度強く握り締め、開いた手で口に咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。立ち上がり、窓を大きく開ける。
 早朝の匂いが、煙の充満する部屋に流れ込んできた。
 夜が、明けてゆく。太陽が顔を覗かせる。
 朱色に染まってゆく空に残る紺色が、何故だかふと、今は星空の下にいるのか、太陽の光りを浴びているのか、何処にいるのかさえわからない男を思い出させた。あの男の瞳の色とは違うと言うのに、どうしてだろうかあの目を思い出す。
 昇り始めた太陽の光りが部屋に射し、僕は目を細めた。左手で顔を翳し、丸い太陽をチラリと確認し、目を閉じる。翳した手には、何もない。ガラスに手をついても、小さな音は上がらないその事実を、僕は虚しく思った。
 完全に姿をあらわした太陽に別れを告げる。窓を閉め、カーテンを引き、僕は漸くベッドに体を横たえた。
 新しい指輪を、自分で買おうか。疲れた頭で、そんな事を考える。必要なのは、あの指輪ではなく、確かに存在するその重みなのだからと。
 無意識に薬指を探っていた手を握り合わせ、頭の下に押さえ込みゆっくりと目を開けると、低い天井にカーテンの影と光りの波が映っていた。見入るほどのものでもないそれを眺めながら、小さな息を吐く。疲れすぎていて逆に眠れないようだ。だが、体も頭も休息を欲している。
 人間とは融通の気かないものだと思いながら、急にだるくなった体を起こし、風呂場に向かう。冷えている体に熱いシャワーをかけると、一瞬震えが起きたが、直ぐに慣れた。頭から少し痛いくらいの熱湯を浴びる。
 立ったまま見下ろした自分の体が少し変化している事に気付き、溜息が零れた。餓鬼じゃあるまいしと無視をしようとしたが、それでも手を伸ばしてしまったのは、呆れつつもその快感を思い出してしまったからだろうか。ほんの少し硬さを持ち始めた自身を、片手で握る。
 女性の身体ではなく、筑波直純の事を考えて自慰をするのは、異常な事なのか。それとも、当然の事なのだろうか。その答えはわからないが、勘弁してくれよと、心の中でぼやいてしまうのもまた、仕方がないと言えるものだろう。だが、それでもやはり思い出すのはあの男の事ばかりで、なんとも始末が悪い。
 まして。
 シャワーで体を温めたからか、欲望を吐き出したからか。
 その後、どこか満足して自然に眠りにつけるのは、色んな意味で拙いのではないかと思うのだが。
 それについて深く考えるのも馬鹿げているので、僕は睡魔に白旗をあげて身を委ねた。

 たとえ、夢でも。
 僕に好きだと囁く男の声をもう一度聞いてみたいと、そう思いながら。



 男が傍いないその事実に、僕はすっかり慣れてしまっているようだ。
 岡山ではないけれど。そんな自分を少し薄情だと思いながらも、僕は僕の人生を歩いているのだから当然だろうと思いもする。
 これがいい事なのか、悪い事なのか。そんなものは誰にもわからないだろう。
 何処にも正しい答えなどないのだと、僕はそう思う。

2003/11/06
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