# 131
無職となった僕は、ここぞとばかりに公園に行きサックスを吹いた。一日中居るにはまだ、外は寒い季節ではあったが、ひなたに居ればそうキツくもない。手は悴みはするが、元々体温が低いのか、皮が厚いのか、幸いな事にしもやけにもならなかった。
顔見知りのホームレス達は、はじめの数日はかまってくれたが、それ以降は僕の顔を見れば早く仕事を探せと説経をしてくる始末だ。心配をしてくれているのだろうが、僕は、少し休ませてくれても罰は当たらないだろうと、反抗したい気持ちの方が当然の事ながら強かった。
だからと言うわけではないが、公園を遠のいた僕にはあまりする事がなく、気付けば実家への道を歩いていた。
別に、捨てるように家を出はしたが、反抗して飛び出したわけでもないので、顔をあわせられない理由がある訳ではない。あの時は、両親も僕のそれを望んでいたのだろう、引き止めもしなかったので、あの別れ方だったからと言って、実家に向かう事にさほどの抵抗はなかった。気負う心もあまりない。だが、何の連絡もしていなかったのは事実で、追い返されても仕方がないのだろうという思いもある。けれども、それも単なる想像からのものでしかない。
しかし。
家に近付くにつれ、僕は緊張を高めていくはめになった。
あまり変わっていない住宅街は、けれども新しい家がちらほらと目につき、果たして自分が住んでいた家はあるのだろうかと馬鹿な不安さえ抱くのだから、相当緊張しているのだろう。両親は、突然訪ねる僕をどんな目で見るのだろうかと考えるだけで、足を止めたい気にもなった。
だが、実際に止められなかったのは、最悪な結果になっても自分が招いた種だと言う諦めがあったからだろう。帰れと言われれば帰るしかないし、二度と顔を見せるなと言われれば、僕にはそうするしかないように思えた。覚悟と言うものではないが、そう割り切っているのならば、面の皮を厚くして乗り込むのもまた一興だとふざけた解釈で自分を納得させる。
それでもやはり、玄関の前に立つと背筋が自然と伸び、インターフォンを押す手は微かに震えていた。情けないと思う前に、こんな自分は知らなかったなと、新たな発見にただ驚く。
胸の鼓動を邪魔だと感じながら、耳を済ませていたが、扉が開く気配はなかった。暫く待ち、もう一度ベルを鳴らすが、結果は同じ。漸く、平日の昼間に両親が揃っているわけがないと、僕は思いつく。父親は勿論の事、母親とて買い物に出ていてもおかしくない時間だ。
自分は何をやっているのだろうかと、苦笑と共に安堵のような息を吐いた、その時。
「何を突っ立ているんだ。早く入れ」
突然後ろから上がった声に振り返ると、今、居ないと考えたばかりの父親がそこに立っていた。
最後に見たあの時も相当に疲れてはいたが、歳相応の姿はしていた。だが、今目の前に立つ父は、まだ50半ばだと言うのに髪は大半が白い毛に変わっており、体付きもひと回り小さい。決して筋肉質でも太っていたわけでもないが、必要以上に肉が落ちたような萎んでしまった体は、老人のもののようであり、僕は突然の対面以上に驚くはめになった。顔に深く刻み込まれた皺が、離れた年月の長さを否応なしに教える。
しかし、本人はそんな事は気にしないのか、強い視線で僕を眺めてきた。あの時は向ける事のなかった、何らかの感情を含んだ目だ。今はもう明らかに僕の方が体力は上であるというのに、その目に気圧されるかのように僕は動けず、ただ変わり果てた父親を見続けた。
「翔」
父が、僕の名前を呼ぶ。
「早く家の中に入りなさい」
父はそう言い僕の腕を軽く叩いて促し、玄関の扉を開いた。変わっていないはずはないのだが、それでもこの家の懐かしいと思える空気が、僕を迎える。
隣に回覧板を持って行っただけだと鍵がかかっていない理由を説明しながら、父はさっさと家の中にあがった。その言葉と後ろ姿に、平日のこの時間に彼がいる不自然さと、解せない行動に思い至り、僕は眉を顰める。家庭の用事など何ひとつしなかった父から生活臭を感じ取り、違和感さえ覚えた。
そして、当然の如く、漠然とした不安を抱える。父の行動が意味するものは、そう多くはないのだろう。
「自分の家だ。遠慮せずに上ればいい」
僕の戸惑いをどうとったのか、父はそう言った。そして、微かな笑みを口元に浮かべる。
頭が混乱しそうだった。
父の笑顔を見たのなど、一体いつ以来のことだろうか、思い出せない。小さい頃はそうであったのかもしれないが、物心がついてからはこんな風に笑みを向けられた覚えはない。
「来なさい」
向けられたそれに、逃げ出さないのが精一杯だった。笑い返すどころか顔を強張らせた僕に、父は付いて来いと静かに言うと、廊下を歩きリビングへと入って行く。その後ろ姿は小さくなってしまったが、それでもやはり父親のものだった。
覚悟を決め、緊張しながらも、僕は一歩一歩確かめるように歩き、リビングへと入る。当たり前だが、昔と変わらない空間がそこにはあった。父親の姿を求め部屋を見渡し、縁側から聞こえる声を拾う。
壁の向こうで誰かに話し掛けるその父の声は、はっきりとは聞き取れなかったが、特別な優しさは感じないのに相手に向けられる愛情を何故か僕は感じ取った。
半ば予想しながらも近付き覗いたそこに、母の姿を見つける。悪い冗談だと、自分が思い描いてしまっていた最悪の事態に、苦笑が零れた。湧き上がる安堵と共に、短い息を吐く。だが、それも一瞬の事で、やはりおかしいと僕は違和感を覚えた。
父の手によって肩にかけられるストールに視線を向け、それに手を伸ばし母は嬉しげに微笑む。それは少女のような無垢な笑みではあったが、実際の母親は父親と同じく顔に深い皺を刻んでいた。痛々しいほどに体は細く、何らかの病気であるのがわかる。
「喜久子。珍しい奴が来たよ」
父に促され立ち尽くす僕を見た母は、母ではなかった。僕を不思議そうに見、誰だというように首を傾げ、唯一信頼すべき人間であるかのように父を見る。
「翔だよ、喜久子。翔」
「かける…?」
「そう、私達の息子だ」
大きく頷く父に、母は首を傾け、もう一度僕を見た。そんな母に父は苦笑を落とし、そっと肩を包み込む。
「大丈夫、直ぐに思い出す。突然で驚いただけだ。もう少し、ここで休んでいなさい。今日は天気がいいから、温かくて気持ちがいいだろう」
父の言葉に、母は僕を気にしながらも、素直にコクリと頷いた。
「そうか。まだ、声は出ないのか」
ならば、苦労しただろう。
コーヒーカップをテーブルに置きながら、父は一言そう言った。その中にどれほどの思いが込められているのか、今の僕には量れそうにもない。正直、気が動転している。
リビングのソファからは、縁側で日光浴をする母の姿が良く見えた。
一体彼女に何があったのか。僕が出て行った後、両親はどんな時間を過ごしていたのか。今まで考えなかった、僕と同じように彼らにも同じ長い時が流れた事を、最悪な形で僕は実感した。
気付くには遅すぎたその事実に動揺する僕に、父は「母さんなら、大丈夫だ」と静かに笑う。
「心配せずとも、今のお前より大丈夫だ。お前の方がよっぽど死にそうな顔をしている」
思わぬ父の発言に驚き、母から横に座る父に視線を向けると、今度は楽しげな笑いを落とした。父が僕に対して冗談のような言葉を吐くのも、一体いつ以来なのか。いや、そもそもこんな事が過去にあっただろうか。
自ら入れたカップを口元に運び、熱いコーヒーを一口啜った父は、驚く僕にもそれを飲めと言うように無言で促した。そう言えば、コーヒーさえ自分で入れる人ではなかったと思い出す。生まれて初めて口にしたそれは、インスタントだと言うのにとても美味しく感じられ、それ以上に温かく胸に染みる気がした。
「私が笑うのは、おかしいか? まあ、そうかもしれないな。お前とは、こんな時間を持とうともしなかったからな」
だからと言って自分も人間だ、笑いもするさと父は再び苦笑を落とす。そう言われ、それもそうだと気付く。
「それにしても。そんなに驚くほど、私は変わったか?」
僕が頷くと、「老けたからな、当然か」と少し寂しそうに手で頬を擦った。外見もそうだが、僕が驚くのはその内面の変化だ。こんな風に父と向きあうなど、以前ならば考えられはしなかった事だ。そして、その理由があの母にあると考えるのは、間違ってはいない事なのだろう。
視線を戻した先では、変わらずに母が外を眺めていた。
「お前も、変わったな、翔。もう、大人なんだな」
自分はこうも年をとったと言うのに、お前はあの頃のままなのだろうと何処かで思っていた、と。18歳のままのお前をいつも考えていたと、父は苦笑する。その声が、少し湿っているように感じ、僕は振り向けずにコーヒーを啜った。褐色の液体が、情けない僕の顔を映す。
僕とて、あの頃見ていた父を、彼の全てだと思っていた。こんな風に笑うなど、穏やかに話すなど、絶対にない人だと信じ込んでいたのは、幼さ故だろうか。知っていたのならば、疲れた父と苦しむ母を残して家を出る事はなかったのかもしれない。今は、何を言ってももう遅いのだろうが。
「立派になったもんだ。まあ、その頭は、少しいただけないとは思うがな」
またもや落とされた軽口に、僕は堪らずに苦笑いを零した。後悔を覚える僕に気を使っての言葉だとわかるが、まさか髪を指摘されるとは考えていなかった。だが、確かにこの頭はいただけない。根元の黒髪が目立ち始めた金髪は、誰が見てもまずいのだろう。藤代が見れば、直ぐに弄られそうだ。
自分もそう思うと頷きながら、僕は煙草を取り出した。だが、灰皿を探す間に、父にそれを奪われる。
「この家は、禁煙だ。我慢しろ」
その言葉に、喫煙家であった父に止めたのかと視線で問うと、「3年程前にな」と答えが返ってきた。そして、僕が出て行ってから後の事をゆっくりと話しはじめる。
僕がこの家を出てからも、母の鬱は酷くなったそうだ。だが、どうにか二人の生活に慣れ、症状を少しずつ良くなり始めた時、それを嘲笑するかのように母は交通事故に遭ったそうだ。4年前の事だと言った父は、今なおそれを許せられはしないのか、顔を顰めた。車を運転していたのは、中学生だったらしい。保護されたその少年を見る事さえ出来なかった父の無念は、時と共に風化する事などは絶対にないのだろう。
事故のショックで更に酷くなった鬱病に、怪我による辛いリハビリの入院生活は、父の口からは簡潔に語られたが、僕の想像以上のものだったのだろう。父の老けた訳が、苦しいくらいに重く僕に圧し掛かってきた。一体、その頃僕は何を考えていたのだろうか。何故、もっと早くここに足を向けなかったのだろうかと、悔やまずにはいられない。何が出来るというわけではないのだろうが、その場にいなかった事を悔しく思う。
母の体は、今では日常生活に支障をきたさない程度には回復しているらしい。だが、強く打った頭の後遺症は、今の医学ではどうにもならないとの事だ。事故に遭った母には、記憶障害という大きな傷痕が残った。
父が言うには、そう酷いものでもなく、生活はあまり困らないそうだ。時々意識が混濁したり、ぽっかりと記憶を失ったりするのと、一日の半分以上の時間を睡眠に回さなければならない程度のものなのだと、彼は笑った。だが、その世話をしてきたというのは、そう簡単なものではないのだろう。現に、父は定年を前に、あんなにも打ち込んでいた仕事を辞めていた。
2年前に不況の煽りで実施された早期退職を志願し、自ら会社から身を引いたらしい。仕事にだけ目を向けていた父しか見てこなかった僕としては、それを聞いた時は複雑な思いが胸を駆け巡った。だが、もうそれも2年も前の事で、その頃の僕は家族の事など考えもしていなかったのだ、何も言う資格はないのだろう。
「あぁ、翔」
不意の呼びかけに顔を向けると、縁側に座る母がこちらを振り返り微笑んでいた。
「帰っていたのね。おかえりなさい、翔」
先程とは違い、歳相応の微笑みと母親の顔を向けてきた彼女に、僕はただ頷きを返す。ただいまと笑いかける事も出来ない自分は、母の言葉に生返事ばかりを返していた昔とあまり変わりはしないではないかと思ったが、向けられる笑顔に応えるだけの余裕は僕にはなかった。
溢れそうになる涙を零さないようにするだけで必死な僕の背を、父の軽くて小さい、けれども重くて大きい、温かい手が数度励ますように叩く。
「よく、帰って来てくれたな。おかえり、翔」
父の言葉に、僕の目からは、耐えきれない涙が零れた。
この場所を、この人達を。
失わなくて良かったと、心からそう思えた。
2003/11/06