# 132

 当たり前な事なのだろうが。
 僕達は子供だったのだなと、自らの浅はかさや弱さから逃れるためではなく、ただの事実として目の前の友人に語りかける。
 たった17年生きただけで、悟れる事など何ひとつないのだろうに、全てを見知った気でいた。確かに、あの時僕達の中にあるものが真実であったのも、世界の総てであったのも間違いではなかったのだろう。だがそれは、小さな子供の、ちっぽけな世界だったのだと。その中でしか通用しない事だったのだと、今ならよくわかる。
 あの頃の僕は、小さなモノサシで全てを測っていた。その自分のモノサシがどんなサイズなのか考えもしなかったのは、やはり幼かったからなのだろう。もしも、周りの世界の大きさに気付いていたら、僕達は違う未来を選んでいただろうかと、目の前の墓石に問い掛ける。
 お前が出した答えは、やはり正しくはなかったと。僕はあの時何をしてでも止めるべきだったのだろうと、眠る友に僕は言葉を落とす。
 子供だった事を過ちだとは思わないが、それでも、気付けたかもしれないものであったのも事実だ。
 幼さ故に、選んでしまった事なのだろう。悔やんでも、仕方がない事だと言うのは充分にわかっている。だが、それでも。今はどうにもならずとも、過去を少しは見極める事が出来るのだから、あの時は出せなかった答えを出してもいいのではないかとも思う。仕方がなかったというのではなく、はっきりと、選んではならないものだったのだと、そう考える必要が僕にはあるように思える。
 変化するこの世界に、生きているのだから。
 死者を詰る訳ではなく、ただそれが真実だろうと、お前はまだそうは思えないのだろうかと、友人に語りかける。
 死を選んだお前も、それを認めてしまった僕も、本当に幼かったなと。今ならそう、二人して笑い飛ばせる気がするのだが。
 お前はどうだろうか、誠――
 暖かな陽射しが降り注ぎ、僕の足元にのびる十字の影が色を濃くする。薄い雲に隠れていた太陽が顔を覗かせた事を確認し、そのまま見渡した空に僕は目を細めた。2月の冬の空は、近付く春を教えてくれているかのように、勢いよく雲を流している。
 先日のように、この空を母も見ているのだろうかと考え、僕は小さな笑いを落とした。
 両親に会いに行ったんだと、視線を戻し友人に忘れていた報告をする。
 あの日、何の前触れもなく僕を思い出し、疑問に思う事無く受け入れた母は、三人で早い夕食を摂った後直ぐに眠りについた。残されてしまった男二人で酒を飲み、家を出てからの事を、近況を、僕は父に話した。
 本来ならば、短くはない年月の事だ、話す事は沢山あるのだろう。だが、僕にはそう言うものが極端に少ないと、それに気付き笑うしかなかった。何て面白味のない人間なのかと、かつて父親に感じていたものを自分に感じ、人の事は言えないではないかとおかしかった。普段は気にもしないが、客観的に見る自分は、味気ない事この上ない人物だった。
 だが、それを嫌だとは思わなかった。逆に、本当に自分は恵まれていたと、強くそう思う事が出来た。声の出せない家出同然の僕が、話して聞かせるような苦労一つなく7年半と言う時間を親に頼らずに過ごしたのだ。周りに恵まれていなければ、早々に挫折し、ここに戻るなり落ちぶれるなりしていたのだろう。
 話す事がないからと言って、味気ない、無意味な生活をしていたわけではない。確かに、僕は淡々としていたのだろうが、立っていた場所は、歩いていた道は誇れるものだと、父とグラスを傾けながらはっきりとそう思えた。残念ながら、今は無職の身で、偉そうな事など言える立場ではなかったのだが。
 仕事はありそうなのかとの父の問いに、大丈夫だと安心させられる答えを返す事は出来なかったが、「まあ、ゆっくりやればいい。今まで頑張ってきたんだ、少しばかり休憩しても罰は当たるまい」と落とされる言葉に、素直に頷く事が出来た。そして、特別に嬉しかったと言うわけでもなかったが、父親の大きさを感じ取ったのか、胸が温かくなり涙が零れそうにもなった。
 だから。
 帰り際、遠慮がちに、時間に余裕があるうちに病院に通ってみてはどうかとの言葉も、素直に耳に入れる事が出来た。その言葉に頷く事は出来なかったが、多分、今の父ならば、そんな僕の心をわかってくれるのだろうと信じられた。
 母が喜ぶからいつでもくれば良いとの言葉を土産に貰い、帰路についたその道は、夜だというのに昼間に歩いた時よりも明るく見えた。現金なものだと思いながらも、そんな自分を少し愛しくさえ思った。
 なくしたと思い込んでいた。もう自分には必要ないのだと、そう考える事で失った寂しさを忘れようとさえしていた。けれど、あっさりと、僕は再び家族というものをこの手に入れたのだ。それも、以前の関係ではなく、新しい関係で。
 こんな事は、考えても見なかった。凄い事だと思わないか、と僕は友人に笑いかける。そして。
 こんな事がありえる世の中だとわかった途端、同じように別のものを望むのは貪欲すぎるのだろうかと、問い掛ける。なくしたものを再び求めるのは、都合が良すぎるというものだろう。だが、心は欲するのだ。
 どうすればいいのだろうかと、お前にならわかるのではないかと、僕は友人に尋ねる。
 あの男が、筑波直純が傍にいない事には、慣れた。
 だが、僕の心には、彼が近くにいないが為にあいた穴がある。
 その穴は、あの男でなければ埋められない。いや、あいてしまったものは、たとえあの男が僕の傍に来たとしても、もう塞がる事はないのかもしれない。僕はただ、その穴の存在に慣れるしかないのだろう。
 ならば、それに慣れた後は、どうすればいいのだろうか。
 新しい何かを探せるほど、僕は器用ではなく。また、何かで代用出来るほど、小さな穴ではない。時と共に心の奥底へと動かす事は出来るのかもしれないが、過去は変わらないように、僕のその穴は消える事はないのだろう。
 ふとした拍子に、その穴を意識し、なくしてしまった温もりを渇望するのかもしれない。耐えられず、新たな傷を作るのかもしれない。そんな風に、不安さえ呼ぶ穴は、けれどもあの男といた証でもある。決して、心から消えて欲しいと願っている訳でもない。
 喪失感を、心地良くさえ思えるのだ。なくしたくもないものなのだろう。
 厄介なものだと、苦笑さえ零れる。だが、そんな風に笑えると言う事は、僕は既にその穴の存在を全て受け入れているのかもしれない。
 だからこそ、僕は望んでしまうのだろう。
 もう一度、筑波直純の傍に立つ事を。
 希望というには浅ましく、けれども願望と言うほど、奇跡を信じている子供でもなく。両親の温もりを得たように、そうなれたら自分は嬉しいだろうと思う程度の願いを抱く僕を、お前は笑うのだろうか、誠。
 この友人ならば、お前らしくはないと本当に笑いそうだと、僕は自ら苦笑を落とす。
 だが。
 本当に変わったな。でも、そう言うお前も、嫌いじゃないよ。
 そう言ってくれそうでもあり、僕は飽きもせず、決して他の者には言えはしない内面をさらけ出した。
 本当に、あの男が好きなのだと。
 この想いは、いつかは静かな愛情に変わるのかもしれない。だが、果たしてそれは一体いつの事なのか。
 一番その答えを知っていそうな友人に問い掛けるが、返答はくれそうにない。
 秘密だと、いつだったか何かの質問で、悪戯を成功させた子供のように笑った友人の顔を思い出す。自分で考えろよと、励ますように言われた気がした。
 こうして彼に語りかけられるのも、今はいない彼の姿を頭に描けるのも。単なる僕の自分勝手な満足ではないのだと、信じている。僕達は、今なお友人だろうと言い切る事も出来る。それは、ひとえにこの友人の力なのだろう。
 僕にそんな心を持たせたのは、お前だ。だから、責任を取れよ。
 お前が嫌がっても、僕はこうして語りかける事を止めはしないだろう。たとえ鬱陶しいと思っても、付き合う義務がお前にはあるだろう。
 少し傲慢な僕の態度に、頬を膨らませながらも目は笑っている友人をそこに見る。何て奴だと呆れる彼に、そんな僕を気に入っていたんだろうと心で言い返す。
 救われる気がする。こんな風に向き合っていても。
 だが。
 やはり、寂しい事実は変わらない。
 友人は、確かに僕の目の前にいても、もう同じ世界にはいないのだから。
 生きていたならば、いくらでも望む事が出来るのだ。だから、たとえもう会えないと決まっていても、それを知っていても、僕は男に会いたいと願う。だが、死んでいてはどうにもならない。
 本当に馬鹿だったのだ。
 友人も、そして、あの頃の自分も。


「――馬鹿な奴だ」
 ふと上がった言葉に、僕は一瞬自分の心を読まれたのかと驚き、勢いよく振り返った。そんな僕の慌てように関心を示す事無く、突然現れた天川司は僕の隣に並ぶ。
「出生故に周りから疎まれ、実の父親にさえ嫌われ。兄の俺は役立たずで、他人の言葉に簡単に唆されて死を選ぶ。――安い人生だとさえ言えるな。だが、そんなものを与えられる奴じゃなかった」
 静かに弟の墓に視線を向けたまま、天川は淡々と言葉を続けた。
「俺が哀れむのは筋違いだろうが…、本当に、不運な奴だ」
 さっさとあの家を見限っていたら良かったものを、と囁くような声で、低く呟く。
 確かに、そうだ。天川の言うとおり、不運な奴だ。あの家を出ていたら、それなりの幸せと言うものをつかめたのかもしれない。だが、それを天川が言うのは、どうだろうか。
 友人は、この男がいたからこそ、どんなに最低な場所でも家を出なかった。彼はそこを選んだのだ。自分が望む場所を手にしようとしたのだ。
「秀は、あれから直ぐに東京を出た」
 弟の気持ちを本当にわかっているのかと問い掛けたくなった僕の気を逸らすように、唐突にその言葉が落ちた。
「今はもう、日本にはいないらしいな」
 一体、何処に行ったのか。そんな興味も感心も含みはしない淡々とした声で佐久間さんの事を語り、天川は漸く僕に顔を向ける。そこには、一皮向けて大きくなったのか、それとも大切なものを失い危うさを剥き出しにしているのか、微妙な変化を遂げた男の顔があった。達観したようでもあり、これ以上は崩れないほどに砕けてしまったようでもあるその姿は、けれども脆くは見えない。以前のように危うげではなく、自分の足で確かに立っている、天川司という男の存在を強く感じるものだった。
 その、目を覚まし始めたかのような天川に、僕は佐久間さんがこの男は変わると言っていた言葉を何処かで納得する。何がどうだと具体的にさせるものはないが、目の前の男の姿が、僕にそれを教えていた。
 だが、たとえあの佐久間さんの選択が間違っていなかったとしても。今も僕は、あれが正しかったとは思いたくはない。
「お前は、筑波に捨てられたようだな。なあ、それは、どんな気分だ」
 不躾と言うには、問いを発した男の顔は、その目は、無機物過ぎた。かけられた言葉の意味を理解するよりも、そのアンバランスさに僕は軽く眉を寄せる。しかし、そんな僕など視界に入れていないのか、はじめから答えなど必要としていないのか、「こいつは、どう思っていたんだろうか。母親に捨てられ、父親に捨てられ。結局は俺にまで捨てられて」と天川は再び墓石に視線を向けた。
「本当に、馬鹿な奴だ」
 淡々と言葉を紡ぐ天川の目には、やはり以前のような弱さはない。他人任せに逃げていた部分に気付いたのか、それとも、それさえもどうでも良くなったのか。亡き弟を見つめる目も、寂しさ以上に達観したようにさえ感じられ、僕は背筋を寒くした。

 これで、本当にいいと言えるのか――?

 そう問い掛けられる佐久間さんはここにはおらず、目の前の友人は答えを返さない。
 今は僕だけしかいない事に、天川の隣にいるのが自分だけだという事実に、僕は恐怖すら感じた。

2003/11/10
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