# 133
何も気付かない、気付く事が出来ない天川を、確かに腹立たしく思った。だが、決してこんな風になってほしかったわけではない。友人が去ったのは小さな事だと言う風に、弟の死は遠い過去の事だと言う風に、諦めるのでも受け入れるのでもなく、流れた時の一部であるかのように冷めた目をもって欲しくはなかった。
これではまるで、自分を捨てたかのような人間の姿だ。人はこんな風に生きながらにして自らを捨てられるのかと疑いたくなるような、天川であって天川でない人間が僕の隣にいた。こんな風に変わっても、それでも人間だと思えるのが、単純に怖い。
何故だと、嘆いた男の声が耳奥に蘇る。一生許しはしないと憎み続けると言った男の顔を思い出す。
馬鹿だと思った。表面ばかりを見ている男を、周りに左右されてばかりの男に、僕はわざと冷めた目を向けていた。この男がもう少しでも賢ければと、対峙する度に思っていた。
だが、僕はそう思う事で逃げていたのかもしれない。責任を転換していた訳ではないが、天川を蔑む事で、救われている面があったのだろう。感情のままに荒れる男がいたからこそ、僕は冷やかに接する事が出来たのだ。冷静さを装って、その実、子供のように暴れていたのは僕なのかもしれない。そう、頑なに反抗し続けていたのだろう。
だから今、こんなにも恐怖を覚えるのだ。
立場が入れ替わったようだと、冷淡な眼差しを向けてきた天川に思い知らされ、足元から何かが這い上がってくる不快さを覚えた。それは多分、以前天川が見ていたのだろう醜い自分をそこに見たからだ。体の奥底から起きる震えは、単純に嫌悪としか言えない、ただそれだけのものだった。
目を見開き、口を大きく開け吐き出した息は、けれども音にはなりはしない。声が出たのなら、自分は天川がしたように、あの脅えるかのような叫びをあげていたのかもしれないと、閉じた口を引き結びながら思う。そう。これでは、立場が逆転しただけで同じ事を繰り返すだけではないかと、冷静さを取り戻そうと僕は努めた。
天川の視線を少しでも意識しないよう、友人に視線を向ける。
――お前が慌てる必要は何もないだろう。馬鹿だな。
――司が変わったとしても、お前は変わっていないんだから。
友人がそう言い、笑った気がした。その感覚に、ストンと胸の中で何かが落ちた気がし、自分が立つ地面を足の裏に感じる。それは、慌てふためき浮いていた体が、自分の元に返ってきたような感覚だった。
ああ、そうだ。本当に天川が変わってしまったとしても、自分が焦る必要はないのだと苦い笑いが胸の奥から起こる。そして何より、人間はそう簡単に変わりはしないと気付く。
今の天川は、そうしているのが楽だから、こんな風に振舞っているのではないか。本人は無意識にだろうが、正にそうなのだと僕の何かが感知する。自分もそんな風にしていた時があったから間違いではないだろうと、確信さえ持つ。
それは、悪い事ではない。ひとつの方法だろう。これから先、天川がその力を完璧に自分のものとして使えるようになれば、確かな強さとなるのだろう。だが、今は、まだ少し弱い。
けれども。そこに救いがあるように、僕には思えた。
結局はその道を歩かねばならないのなら。この男は自分の意思で、自ら望んで強くなる必要があるだろう。今のように、苦しみを忘れる為ではなく、それを抱え込めるように。
以前の天川ならば無理だろうが、今の天川ならば可能なのかもしれないとそう思う。
だから。
【誠は、最期まであなたを想っていた。恨んでなんかいない】
立ち去ろうとした天川の腕を掴み、僕は携帯の画面を眉間に皺を寄せる顔に突きつけた。上手い言葉なんて、僕には言えない。彼の、あの友人の想いを代弁する事など出来ない。
けれども、僕が見ていたその姿を伝える事は出来る。
友人が僕に頼んだ最期の言葉をこの男に伝えるのは正に今なのだろうと、今なら僕はきちんと伝えられるのだろうと、そう思えた。
【あなたに、ごめんと何度も謝っていた。彼が考えていたのは自分の事じゃない、あなたの事だ】
「…何のつもりだ。放せ」
僕の手を振りきり歩き出す天川を追いかける。
「しつこいぞ、お前」
胸倉を掴みあげられ、以前もされたように直ぐに地面に突き放された。だが、今回は足を振り上げる事はなく、天川は足早に去って行く。僕は体を起こし、駆け出した。今ここで諦めるのならば、最初から仕掛けはしない。
「退け」
天川を追い越し、数メートルの間をあけて向かい合った僕に、低い声が向かってくる。けれどもその命令に従うはずもなく、僕は携帯を操作しながら、近付いてくる天川を見据えた。
目前にせまった男に手を伸ばす。だが、天川も予想していたのだろう、体を引き僕の手をかわす。そして、「いい加減にしろっ」と拳を飛ばしてきた。当たるわけにも行かないので、辛うじてだがどうにか避ける。だが、直ぐに新たな手が伸ばされる。
「俺が大人しくしているからといって、つけあがれる立場に自分がいると思っているのか。俺が邪魔だと、鬱陶しいと感じれば、お前など消す事も出来るんだぞ」
この頭にはそれがわからないのかと、天川は僕の髪を掴み後ろに引いた。
わからないなと嘲笑するように口元を上げ、鋭さを増した天川の目の前に、僕は携帯を突きつける。
【彼の中にあるのは、あなたの事だけだった。大事なのは、あなただけだった。だが、あなたはそれに気付かなかった。僕はだから、あなたが嫌いだ。けれど誠は、あなたのそんな馬鹿な部分も大事にしたんだ。あなたが、自分を重荷に思い始めたところも、全て】
「……知った風な事を言うな」
掠れた声が僕に落ちた。髪を掴む手が緩んだのに気付き、僕はその腕を払う。そして、先程までの仮面をはがしたかのように動揺が窺える天川を見据え、知っていると僕は唇を動かす。
【僕は、見ていた。あなたとは違う場所で、彼を】
僕の言葉を無言で待っていた男は、その言葉に盛大に顔を歪ませ、「煩いっ。お前も、二度と俺にその顔を見せるな!」と捨て台詞を吐くと去っていた。
もう、追いかける必要はないと、僕はその場に佇みその背中を見送る。
何を言っているんだと、僕の言葉を無視出来る程、彼はまだ強くはないだろう。考えればいいと、あの頃のままではなく、今の少しは大人になった部分で考えればいいのだと、消えた背中に呼びかける。確かな答えなど見つけずともいいから、あの少年の事を考えてくれと。自分自身に嘆くのではなく、彼の思いを感じて欲しいと、僕は天川に望んだ。
それを望んでもいい人間だと、漸く思える事が出来た。
遠くになってしまった、友人が眠る場所を振り返り、問い掛ける。これで良かったのだろうかと。僕はそれなりに満足しているのだが、お前は納得いかないのだろうかと。
――お前にしては、上出来だ。
冷たい風に乗ってきた言葉に擽られ、僕は小さな笑いを落とした。
肩に乗っていた重みがひとつ、消えたような気がした。
その夜。
僕と天川のやり取りをまるで見ていたかのようなタイミングで、僕の携帯電話に長いメールが届いた。
佐久間さんからだった。
『僕はあれから日本を離れたんだけど、筑波もそうだと聞いたよ。保志くん、元気にしているかい? 君の場合、寂しくて泣いている何て事はないだろうけど、心配だよ。自分の痛みには鈍感そうだからね。君は本当に、駄目だね。筑波の一人や二人、捕まえておかなきゃ。まあ、済んだ事は仕方がないけれどさ。次は失敗しない様に学習しなよ。いいね。
さて、あまり説教しても、嫌われそうだからこの件は置いておくとして。
君の事だから、僕を気にかけてくれていたかな。それなら、悪かったと一言謝っておくよ。僕の方は、かなり楽しくやっていたりするからね。医者は何処へ行っても重宝されるものだ。今の日本と違って、医療ミスだ何だとのバッシングは流行っていないから、それだけでも気分が楽だよ。心配してくれたかもしれない保志くんには悪いんだけどね、仕事も生活も上手くやっている。僕には今の生活があっているようだ。のんびりと気紛れに過ごすのがね。
あんな別れ方だったから、早く連絡しようと思っていたんだよ。でもね、最初に行った国は、ウェブ環境は最悪で、無理だったんだ。どんなに良いパソコンを持っていても、あれはどうしようもない。早々に観光だけして出てきたよ。でも、またそんな国にも行くのだろうし、連絡がとれなくなったら何処かに行ったなと思ってよ。その時は、メールはサーバーに保存されるから、返事は返らずともめげずに送ってよ。って、ああ、何かいいね。保志くんとメール交換か。楽しそうだ。
鬱陶しい。今、そう思ったかい? 酷いな。でも、まあ、嫌なら無視してくれていいよ。寂しいけれどさ、仕方がない。けど、今、暇なら、このメールに対しての返信はお願いしたいんだけど。駄目かな。実はあまり慣れないOSを使っていてね、実験中と言うか、使い勝手を試しているんだ。ま、保志くんには全く関係ないんだけど、是非とも協力を頼みます。
さて。読まれないかもしれないメールでこれ以上書くのもなんだし。じゃあ、また、次がある事を祈って。 佐久間』
あの時、「またね」と、動いた彼の唇を僕はそう読み取ったが、こう言う事だったのか。
突っ込みどころが満載のメールに、一体何処をどう相手すればいいのだろう。
返信の操作をしながら、佐久間さんが佐久間さんらしいままである事に僕は安堵した。強がっているわけではないと、僕に連絡をしてきた時点でわかるというもの。逆に、今までは色々考え、前に進む為に彼は苦労していたのだろう。
その一歩目が僕への連絡かどうかなのかはわからないが、変わらず接する彼の存在が単純に僕にはありがたかった。
2003/11/10