# 134

 その男がやって来たのは、平日の昼間という時刻だった。25歳の男を訪ねるには適さない時間帯の訪問は、僕が今どのような生活をしているのか知っているのだという事実を、ただ突きつけてくるものだった。
「保志、翔さんですね」
 玄関でのそれも、確認と言う訳でも何もないものなのだろう。事実、初老の男は僕の応えを待たずに言葉を続ける。
「このままで結構ですので、少しお時間を頂きたく思います。今日はあなたにお願いがあって参りました」
 柔和な顔立ちではあるが笑いを浮かべる事はなく、男は淡々とそんな言葉を口にしながら、視線は真っ直ぐと何かを見極めるように僕を観察していた。頭から爪先まで眺め、僕の顔に視線を戻し、そこで漸く微かに口元を緩める。
「ご心配せずとも、危害を加える気はありません。――ああ、これは失礼しました、ご挨拶がまだでしたね。私は天川に仕えている陣野と言う者です」
 遅くなりましたがと、素性を明かし突然の訪問を詫びはじめた男を、僕は慌てて遮った。目の前の男以上に、その男から零れた言葉に驚く。天川とは、一体どういう事なのか。さらりと流された言葉を聞き落とすには、あまりにもそれは大きなもので、僕に無関心を貫かせる事はさせはしない。
 一体何事なのかと、思考を働かせる。だが、思いつく事はひとつもなかった。頼みがあると言ったが、何かを頼まれるような間柄ではない。
 しかし、このまま知らないと追い返す気にもなれず、とりあえずはと、僕は扉を押さえ外に立ったままの男に中へと入るように促した。
「ああ、開けていては寒いですね。失礼」
 そう言う意味ではないのだが、僕のジェスチャーをそうとった男は、狭い玄関に足を踏み入れ扉を閉める。カチャリと小さく響いた音が、妙におかしかった。鉄製の味気ない扉も、この男が閉じれば不快な音はあげないらしい。だが、こんな扉に、誰が両手を添えて開け閉めするだろうか。しないのが普通だ。
 可笑しな男だと、状況も忘れて僕は笑った。
「どうかしましたか?」
 そう問い掛けてくる男に、更に上がるようにと示し、僕は部屋に戻る。床に広げていた楽譜を纏めてベッドの上に置き、入って来た男に座るように促した。
 お茶でも入れるべきなのだろうかと、丁寧な物腰の男に感化されたのか、一瞬悩む。だが、この突然の訪問にそこまでする義務はないだろうと、男が座った事を確認し、僕もベッドに凭れかかるように腰を下ろした。
 そんな僕に、男は軽く眉を上げ、口を開く。
「少し、無用心ですね。もう少し警戒された方が良いと思います」
 チラリと狭い部屋を見回し、手を伸ばせば届きそうな近い距離にいる僕に再び視線を戻し、はっきりとした口調で男は言う。考えが無さ過ぎると指摘するかのようなそれは、けれども毒を含むものでも何でもなく、淡々とし過ぎていてあまり耳には残らないものだった。
 何を言っているのだろうかと疑問を示す気にもなれない僕に、男は「もしも、私がここで何かをしようとしたら、あなたはどうされるのですか」と逆に問い掛けてくる。一体何を考えているのか、本当に可笑しな男だ。
 何か嫌な事をされそうになれば、僕とて抵抗はするだろう。相手は年寄りと言えそうな程の年齢だろうが弱々しくは見えないので、危機となれば遠慮なく手もあげるだろう。だが、具体的にどうだこうだとは言えない。そんな事は、その場面になって見なければわからない。
 僕に何を言わせたいのか。何を言う気なのか。男の発言理由を考え軽く眉を寄せる僕に、「単なるアドバイスです。怒る必要はありません」と表情一つ変えずに相手は返してきた。怒る必要があるかどうか、それは僕が決める事であると言うのに、この男に言われれば何故かそうなのかと思えてくるから始末が悪い。
 飄々とした態度に感化されているのだろうかと、僕は苦笑交じりに肩を竦める。しかし、こうも可笑しな男に説教をされる僕とは、一体なんだというのだろうか。少し、腑に落ちない点もなくはない。
 何を言っているのかと流すべきなのか、それとも失礼だと怒ってみるべきなのか。どちらの態度をとればいいのだろうかと僕は少し悩んだのだが、その間に男が言葉を続ける道を選び、口を開く。
「そちらの窓から逃げるという事は、不可能でしょう。下はアスファルトの駐車場ですから。死ぬつもりがあるのならば可能なのかもしれません。だが、それでは助かる事にはなりませんね。そうだとすれば、玄関があなたにとって唯一の逃げ道となる。しかし、私がこの入口に座った時点でそれが絶たれる事になった」
 僕に視線を向けたまま、片手を軽く挙げ背後の玄関を示した男は、そのまま言葉を続ける。
「確かに、私は危害を加えるつもりはありません。だが、初対面の人間のその言葉を信じるのは軽率でしょう。それとも、私は大丈夫だと、あなたは確信を持って言えるのでしょうか。そう察したのでしょうか。今回はそれが正しかったとは言え、毎回そうだとは限りません。まず、あなたは私を招き入れるべきではなかった。部屋にあげねばならないのなら、歓迎していない客だからこそ、上座に座らせるべきだった。自分の腕に自信があろうとも、相手の力は全くわからない現状では、まず逃げ道を確保しておくのが当然です」
 言っている事はわかるが、何故こんな指摘をこの男から受けねばならないのか。全く、わけがわからない。
 男の言葉に少々へ辟易しながら、僕は傍にあった楽譜の裏にペンを走らせた。
【だが、実際にあなたは何もしないのでしょう? ならば、問題ない】
「今回は、です。何が起こるかわからない世の中です。今申し上げた事を頭に入れ、是非、次回からはお気をつけになる事をお勧めします。勿論、無理にとは申しません。先にも申しましたように、単なる私なりのアドバイスですから」
 説教でも何でもなく、ただの忠告と言うわけらしい。だが、男の意図が何にせよ、僕の耳に入る言葉に変わらない。男が僕の行動について意見している、それだけだ。別に、男の考えなど知りたくはない僕には、必要のない言葉だ。
 何が起こるのかわからないのは、今もそう。ただ、起こるかどうかわからないものを事前に対処する気が僕にはないというだけで、別にたとえ今本当に攻撃されたとしても、そう悔やみはしないだろう。ドジったなと舌打ちすればそれで済む問題だ。態々警戒し、緊張を抱え続ける趣味はないと言うもの。
 だが、そう反論するのも馬鹿らしく、僕は肩を竦めてその話を終える選択をとる事にした。本題ではないだろう事を相手にする程、僕はお人好しではない。
 そんな僕に、男は顔色を変えず、けれども目に小さな笑みを浮かべた。一体、何に対して笑うというのか。男の言葉を聞いた後でも直ぐにはわからなかった。
「あまり、役には立たないアドバイスだったようですね。それは、失礼しました。しかし、これは些か、複雑な思いにかられてしまいますね。あなたは全く、警戒心を持っていない。今でも、失礼ながら、この私一人でもあなたをどうにか出来るという気がします。だが、実際にはそれが難しかった。飄々としたあなたを前にすると、失敗をした自分どもがとてつもなく無能に思えてならないですね。困ったものです。もう少し、見せ掛けだけでもいいので気を張っていただけたのなら、こちらも遣り甲斐があるというものなんですが。あなたにそれを望むのは無理なのでしょうかね」
 やり難い方です、と訳のわからない事を言い出した男に、頭の螺子が取れた人間なのだろうかと僕は疑いを持ちたくなった。
 余程、僕は胡散臭げな顔を作ってしまったのだろう。男の顔が漸く、微かに歪む。
 ほんの少し目を細めた男は、「聞いておられる事でしょうが」と前置きして意外な事実を口にした。
「あなたに暴行を加えるように指示を出したのは私です。その節はご迷惑をおかけしました」
 背筋を伸ばしたまま腰を折り、頭を下げる。その男の口から零れた言葉を理解するには、何もかもが足りなかった。先の男の発言を思い出そうとしたが上手くはいかず、何の事かと直ぐに首を傾げた僕に、「佐久間さんから聞いておりませんか?」と顔をあげた男も少し意外そうに首を傾げる。だが、直ぐに彼は思いつく事があったのだろう、小さな笑みを零した。
「そうですか、実に彼らしい」
 一人で納得する男を見ながら、僕はその言葉を頭で反芻する。暴行とはここに来た若者達の事だろうか。それとも駅での男達だろうか。示された言葉で思い出すのはそのふたつの事だが、それにどうこの男が関わっていると言うのか。
 あれは、やはり、佐久間さんがした事ではない…?
 佐久間さんと知り合いらしい、天川氏に仕えているという男は僕の困惑に気付き、「失礼しました」と笑いを止めた。よく謝る男だ。だが、それは口癖のようなものであって、そこには謝罪の意味などないのだろうと僕は感じる。
「あなたと佐久間さんは親しいようでしたので、お聞きになっているものとばかり思っていましたが、違ったようですね。ならば、勘違いしておられると考えるべきなのでしょうか。
 保志さん。今回の事は私がやった事であり、佐久間さんは関係ありません。むしろ彼は、あなたを私どもから守ろうとしていたぐらいですから」

 そう言って全てではなく一部なのだろうが男が僕に説明した話は、佐久間さんが言ったものとは少し違っていた。佐久間さんは自分が黒幕であったかのように言ったが、真の黒幕は天川氏なのだと、その計画を少し手伝っただけにしか過ぎないのだと、陣野氏からの話で伺う事が出来た。
 どうしても息子を後継者にしたかった天川氏には、天川司の心を惑わすものが全て邪魔だった。器用であれば問題はないが、そうではない息子がそれを持ったままこの裏の世界で立ち上がることは不可能だと見た父親は、彼からその弱さとなりうる部分を取り去ろうとした。その手始めが、弟という存在だったらしい。
 そして。そんな天川氏の手助けをしたのが、佐久間さんだった。いや、手助けというよりも、彼も天川氏に利用されたと言うべきなのだろうか。陣野氏の言葉を全て受け入れるわけにはいかず、彼の立場と僕の知っている佐久間さんを考慮し導き出せる答えは、天川氏と佐久間さんの思いは似ていたのかもしれないが同じではなかったと言う事だ。
 弟が死んでから、天川は確かに周りによって支えられてだが、それなりに上へと上ってきた。だが、このままやっていけるだろうと思い始めた時、彼の前に僕が現れた。
 頭角を現してくる息子を、その父親はどう思ったのだろうか。全てが、自分が目をかけるお陰だと考え、天川司自身の力など何ひとつとして信じていなかったのかもしれない。だからこそ、僕なんかを気にしたのだろう。当の本人である天川司は、実は口にする程僕に意識を向けていたわけではなかったと言うのに、だ。
 天川氏は息子の関心を引く僕を邪魔に思った。だから、僕をこの街から去らそうと、天川司の前から消そうと考え、実行した。
 もう一人の息子を消した時のように。

2003/11/14
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