# 137

 彼の言葉に流されたというわけでは、決してない。良く話し合ったというほどでもないが、僕はきちんと自分で考え、早川さんのところで働くことを決めた。
 だが、月が変わる前に、開店から1週間も経たないうちに、僕は店を辞めた。開店準備中の出勤を入れても半月も働かずに辞表を出すというのは、流石に申し訳なく思ったが、仕方がない事でもあった。
 考えが甘いと言われようが何だろうが、僕には早川さんの店はどうしても合わなかったのだ。
 他の従業員と上手くいかない事は、研修中からわかっていた。僕よりも若い者が多く、彼らが自分をどう扱えばいいのか戸惑っているのは見て取れたのだが、それをどうこう出来る程、僕は器用ではなかった。生まれた距離は、僕にとっては慣れているものだと平気に思えても、他の者達には違う、息苦しいものだったのだろう。当然の結果のように、仕事に支障をもたらした。そうなってしまえば、もう無視出来るものではない。
 まだ互いによく知らないだけだ、問題ないさ。開店前で、皆、気を張りすぎているんだろう。慣れれば余裕も出来、上手くやっていけるさ。心配する事じゃない。
 長い間客商売をしていた自分が選んだ人材だ。最高とは言えないだろうが、悪い奴はいない。だから気にするなと、早川さんは苦笑交じりにそう言った。上手くやってくれと言うのではなく、周りを気にする僕に笑みを落としたのは、彼の優しさなのだろう。ありがたく思ったが、僕はそれを受取れる器ではなかった。
 問題ないと判断した彼のその自信は、わからないわけではない。確かに、一人ひとりを見れば、悪い奴などいないだろう。馬鹿はいないと言えないが、問題がある人間ではない。僕とて、彼らが悪いなどとは思っていない。僕に向ける態度も、感じるのは戸惑いだ。それは当然のものだろうと、僕自身納得出来る。
 問題は、僕が以前の職場のような距離を彼らととれない事であり、彼ら自身に非がある訳ではないのだ。
 全員が似たような態度で僕と距離をとっている。それは、考えた以上に、正しく脅威として僕の前に立ちはだかった。個人的に対応したのなら埋められそうなものだが、団結されたかのようなそれには、僕では太刀打出来そうになかった。
 いっその事、わかり易いくらいに嫌悪されるなり馬鹿にしたように笑われたならば、青臭いガキ共だと貶せるくらいに嫌な奴らだったならば良かったのかもしれない。そうだったのなら、喧嘩をして揉めるなり、徹底的に無視するなり出来たのだろう。
 だが、現実はそうはっきりとはしておらず、何となくギクシャクとした微妙な対立をし続けるだけだった。小さな緊張さえ含むそれは、僕には疲れを覚えさせるものでしかなかった。
 そして。
 それに加え、開店後の店に僕が感じたのは、違和感だった。何がではない。突きつけられたのは、僕自身が場違いだと言う、ただの事実だった。
 若い男女をターゲットにした店に、僕は合わせる事が出来なかった。以前のように下手な笑顔で流してくれるような客は少なく、店内で動けば動くだけ、問題を起こしてしまいそうな感じが付き纏う。息苦しいと思うほどではなかったが、軽い考えは持てないものだった。
 参ったな。それが正直な感想だった。
 このままズルズルと続ける方が拙いだろうと、早川さんに辞めたい胸を伝えた。もう一度考えろと言われ、休み明けに僕の気持ちが変わらない事を確かめた彼は、わかったと辞表を受理した。
「こんな事で関係が悪くなるとは考えるなよ。暇な時には遠慮せず遊びに来い、サービスしてやる」
 ありがたくもそんな言葉をくれた早川さんだが、予想以上にあっさりとしたその対応は、彼もまた僕に限界を見ていたのだろう事が窺い知れるものでもあった。

 その後、再び職をなくした焦りではないが、必死に出来る仕事を探し、僕は週末のバイトをはじめた。無国籍料理店でのサックス演奏だ。しかし、週数時間のその仕事だけの収入では当然の如く生活は難しく、結局は変わらずに仕事を探し続けている。




「じゃ、行って来る」
 パタパタとシャツの襟元を指で引っ張り身体に空気を送りながら、だらだらと踵を引きずるようにして、藤代は公園を出て行った。彼がバテている姿を拝めるのは滅多にない事で、僕は消えた後ろ姿に笑いを落とす。相当に、参っているらしい。
 藤代がそうなるのも当然で、今日は4月半ばとは思えない天気で、春と言うよりは夏であるかのように陽射しが強い。その下で長い間演奏をし続ければ、バテもするだろう。それに加え、大人しく演奏するのならまだしも、馬鹿騒ぎをしているかのようにはしゃぐのだから、自業自得でもある。
 そう言う僕も、半袖Tシャツの上に羽織っていたジャケットは、早々に楽器ケースの上に放っていた。それでも、シャツは汗で背中にぺったりと張り付いているのだから、人の事は言えない。真夏の格好と同じ僕でこうなのだから、春先の服を着た藤代は相当のものだろう。僕が止めなければ、人の目を気にせずに肌を晒すぐらいの事は本気でしていたはずだ。
 近くのコンビニに遣いを出して正解だったなと、腕で汗を拭いながら僕は飲み物を買いに行った藤代の事を考え、もう一度笑いを落とした。今頃は、冷蔵庫の扉を開けて涼んでいるのだろう。その姿が容易に想像出来、可笑しかった。
 藤代からの誘いで公園に着いてから数時間。丁度良い休憩となるが、もう一曲だけと、彼が帰ってくるまではと、僕は懲りずに再びマウスピースを咥えた。この時季に脱水症状を起こすなど馬鹿でしかないのだろうが、折角のっているこの昂ぶりを手放すのは惜しく、止められそうにない。
 だが、息を吹き込みかけて、一瞬前は出来なかったそれを、僕は実行した。それくらいにインパクトがあったのだろう、マウスピースから口を離し、止めた息をゆっくりと吐き出す。
 一体いつからそこに居たのだろうか。
 少し離れた木陰に、知った男の姿があった。サングラスをかけているので気付かず、見落としていたのだろう。四谷クロウが、じっとこちらを見て立っていた。
 僕が気付いた事を察し、何のつもりか男は近付いてくる。
 その姿を眺めながら、僕は知らずうちに溜息を溢していた。
 洗練されたかのような物腰、人目を惹く容姿。目元は隠されていても、これで醜男ならばギャグだろうと言う雰囲気を醸し出しているので、サングラスに意味はない。尤も、人並み外れた素顔を覆うためではなく、ただのアイテムとしているのであれば、充分に効果を発揮しているのだろう。視線を向ける誰もが、サングラスの下を見たいと思っているはずだ。僕は、全く、見たくはないが。
 逆はあっても、決して人に不快感を与える顔ではない。男は見惚れてしまう程の美貌を持っているのだと、僕も良く知っている。だが、それでも溜息が落ちたのは、その性格の捻じ曲がり具合が相当のものだともわかっているからだろう。初めて男と会った時はその姿に目を奪われはしたが、知ってしまえば何て事はなく、意識が向かうのは男そのものへだ。本当に厄介なのは外ではなく中身の方で、外見など二の次の人物なのである。警戒するのが当然だろう。
 四谷クロウという男は、こうして偶然に出会って嬉しいと思える相手ではない。ただ、擦れ違うだけの人間ならば、その見目の良さに、偶然の出会いを手放しに喜べるものなのだろう。だが、今の状況は、男がこちらに向かってきているというのは、どう考えても良い事などひとつもありそうにないのだ。からかわれるのも、馬鹿にされるのも、問題になるほどのものではないが、僕も人間だ。それなりに不快を感じるし、不愉快も覚えるというもので、僕の中では間違いなく、出来る事なら相手にしたくはない人物に入っている。
 年明けに会った時は体調が悪かったので、男の事に考えを回せる余裕など全くなく、半分以上流れに乗っているだけの接触だった。だが、今にして思えば、僕の扱い方もその態度もかなりのもので、それは嫌うには充分の理由であるだろう。男の性格を考えれば、僕に嫌われたところでどうと言う事もないのだろうが、だからと言って僕にとっては、完全に無視出来る無害なものではない。厄介極まりない相手だ。
 一体何の用なのかと、僕は目の前に迫ってくる男を見、眉間に皺を寄せた。
 だが…。
 ……違う。
 顰めた顔を作った瞬間、そうではないだろうと不意に気付く。
 確かに、相手は苦手な人間だ。だが、そんな事が理由ではないのだと、胸のざわめきと思考の不一致に別の考えが浮かぶ。
 訳のわからないこの緊張、不安、嫌悪。それを感じるのは、男自身に対してではなく、男が持っている何かに対してなのかもしれないと、唐突に思いつく。
 以前に会った時とは何かが変わったような男を確認し、僕はそれを確信へと変えた。
 何が変わったのか。男に何があったのか。
 知りたくはないと、僕は拒絶しているのかもしれない。だからこそ、男を見止めた瞬間、嫌な予感に溜息を溢したのだろう。逃れる術を探したのだろう。
 ろくでもない対応を平気でとる男の何に、今更警戒しろと言うのか。無意味に終わるしかないのだろうそれを知りながらも、僕は心持ち背筋を伸ばした。そうして、覚悟を決められないままに、四谷クロウと向きあう。
「よう。元気そうだな」
 僕の目の前に立った男は、ニヤリと口元を歪め笑いながら、片手でサングラスを外した。
 直ぐ傍まで来ているかのような恐怖を無視し、僕は現れた青い瞳から視線を逸らし公園の入口を見る。藤代は、まだ戻って来そうにない。
「それにしても、元気すぎやしないか。若さの違いか。汗までかいて、餓鬼みたいだな」
 喉を鳴らし笑った四谷クロウは、けれどもふと真面目な顔をして僕を眺めた。反射的に、その視線を避け、目を逸らす。泳がせた僕の目は、光りに照らされ金色に輝く男の長い髪をとらえた。風になびくそれを眺める僕に、男の言葉が降ってくる。
 それを直ぐに理解できなかったのは、意識を向けていなかったからか、その内容からか――。
「まあ、お前があいつの後を追って自殺するような奴だなんて思っていなかったが、そこまで元気だと憎たらしくもなるな。
 俺は暗くなるよりはその方が断然良いとは思うが、あいつは餓鬼臭いところがあったからな。お前の立ち直りの早さに、泣いているかもしれないぞ。薄情な奴だと嘆いているぞ――なんて苛めたくなる。だが、お前にそれをしても全く面白くも何ともないだろうから、実際にはする気はないがな」
 そう言った男は、「相変わらず反応が薄い奴だ」と軽く鼻を鳴らし、僕の頭に手を伸ばしてきた。髪を握り締められ、上を向かされ、無理やり視線を合わせられる。
 抵抗する考えは、僕の頭にはなかった。
 かけられた言葉が何を言っているのか全くわからず、けれども疑問を表す事も出来ずに、僕は再び男の言葉を無防備に受ける事しかできなかった。

「恋人が死んだ男にしては、素っ気ない目だな。だが、元・恋人ならば、まあ、こんなものか」

 なるほどなと、何を納得しているのか、一人頷く男を僕はただ見返した。

 やはり、言われた言葉の意味は、理解出来るものではなかった。

2003/11/21
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