# 138

 突然僕の前に姿を現し、訳のわからない発言をした四谷クロウは、見つめた僕の目に満足したのか嫌気がさしたのか、直ぐに握り締めた髪を放した。頭を叩くように乱した僕の髪を整えながら、形の良い唇を動かす。
「あいつと別れたという事は、あの時の俺の忠告が役に立ったと言う事なんだろう。ならば、思う存分感謝しろよ、遠慮はいらない。ま、こうなるとは思ってなかったが、それでも良かったじゃないか。別れていなければお前、ごたごたに巻き込まれたかもしれないんだからな。後味が悪いのなんて、それに比べればどうって事はないだろう。
 って、おい、こら。また、聞こえていないのか? それとも、無視か? 礼のひとつくらい言えよ、愛想なしが」
 気分悪いな、その態度。お前、ホント、可愛げがなさ過ぎる。
 溜息交じりにそんな言葉を吐き出し肩を竦める男が、僕には全くわからなかった。宇宙人と向き合っているような感覚だ。日本語を喋っているが、その本人は言語を理解していないのではないかと思える奇妙な言葉だ。
 何を、言っているのか。何を、呆れているのか。何を、笑っているのか。
 狂ったのか。
 元々その気があるエキセントリックな男だったが、とうとうここまで来たらしいと、真剣に僕はそんな事を考えた。だが、実際には頭の大部分では別の事を考えているのを、僕は知っている。気付いている。ただ、今それが何であるのかを知るために向けるべき目は何故か向けられず、男を狂ったと認識する事に努める自分がここにいた。
 一体何だと言うのか。
 意味がわからない発言をする男と、自分の内面に、僕は溜息を吐く。
 僕は直されたばかりの髪を片手でかきあげ――そのまま動きを止めた。
 目の前の剥き出しの腕に鳥肌が立っているのを、他人の肌であるかのように眺める。自分の体だと言うのに、何故そんな事になっているのか、全くわからなかった。勿論、寒さなど感じていない。
 奇妙に粟立つ腕を認めた瞬間、とても不思議な感覚に包まれた。四谷クロウの声は聞こえるし、その姿は目の前にあるのに、存在はとても遠くに感じる。それはまるで、自分の身体の奥底に意識が潜ってしまったかのような、物理的には測れない距離だ。自分自身の行動さえ、どこか遠い。…気味が悪い――。
「どうかしたのか、おい」
 強い力に手首を握られ、頭に乗せた手を外された。男の手の中でその手が震えている事に気付き、僕は口角を上げる。
 何なんだ、これは。一体、どうしたと言うのか。
 どうやら、狂ったのは僕の方なのかもしれないと、冷静に分析している僕がどこかにいたが、それもとても遠い。
「もしかして、お前、聞いていないのか?」
 男の声が、耳に流れてくる。
 聞く? 何を?
 何を聞くと言うんだと見上げた先に、参ったなと小さな困惑を浮かべた四谷クロウの顔があった。こんな普通の人間であるかのような表情も出来るのかと、それ自体を僕は可笑しく思う。何故困っているかなど、どうでも良い。
「余計な事を言ったのか、俺は? ――いや、別に口止めされている訳でもないし、問題はない」
 あるのなら化けて出てみろと言うものだ、と男は軽い笑いを落とし、僕を真っ直ぐと見つめてきた。その青い目の冷たさに、冷や水を浴びせられた気がして、何もかもが吹っ飛ぶ。そんな僕に、喝を入れてきたかのような男は、冷たい視線を変える事はなく「筑波は死んだ」と簡潔な言葉を落とした。
 それ以上的確な言葉はないのだろうが、一人の人間の死を表すのには些か味気なさ過ぎる言葉に、僕は軽く眉を寄せる。
 死んだ…?
 あの男が?
 男の言葉を直ぐに理解する事は不可能だった。だが、それでも僕は、そうなのだろうと納得もする。この男が僕に「あいつ」と表現し話すのは、筑波直純以外にはいない。ならば、先程からの話は、その男の事ではないか。それしかあり得ないではないか。何故、直ぐに気付かないのかと、僕は自分に呆れた。
 しかし、言葉はわかっても、受け入れるかどうかはまた別問題だ。あの男が死ぬなど、あるわけがないと僕の全てが否定する。そして。
 何よりも、無条件で四谷クロウの話を信じる無防備さは、僕にはなかった。
 何故嘘をつくのかは知らないが、馬鹿げた事を仕掛けてくれるものだと不機嫌な顔を作った僕を気にすることもなく、男は言葉を続ける。
「もうひと月程前の事だ、あいつが乗っていた車が爆発炎上し、そのまま海にダイブしたのはな。乗車した4人の内一人は数日後に死体で上がってきたそうだ。背格好からして同乗した中国人らしいが、確証はないようだな。残る三人は、未だ何も見つかっていない。
 俺も、別にそこで事故を見ていたわけじゃない。そう簡単に聞いただけだからな、確認していないものを信じる信じないはお前の勝手だ。だが、俺は生きている可能性は万に一つもないと思っている。情報筋はいい加減なものじゃないし、実際あいつの組の方も死んだものとしているし、確かだろう。唯一上がった遺体の状態を考えれば、それは当然な判断だ。他の死体が上がらないのは木端微塵になったか、魚の餌になったか、後は仕掛けた奴らに綺麗さっぱり処理されたかだな。ま、この最後のは、可能性としては低すぎるな。普通、そこまでする奴はいない」
 手持ち無沙汰になったのか、そうしなければ語るのが辛いからか。煙草を取り出し口にしながら淡々と話す男の言葉に、眩暈がした。男が吐き出した煙のせいか、息苦しささえ覚える。
 車が、爆発した。
 現実離れした言葉は、けれどもありえない話ではなかった。毎日のようにニュースでは、何処かの国での同じような爆発シーンが流れているのだ、僕が感じる以上にそれは身近なものなのだろう。
 だが、それでもやはり、信じられない思いしかない。
 いや、冗談だと、嘘だと否定し切れない自分がいた。信じられないではなく、信じたくはないという思いに、僕の心は既に傾いている。本当なのかもしれないと、疑う意思がいつの間にか消えているのを感じ、ただ、単純に僕は背筋を振るわせる。
 冗談じゃない。
 この男に良い様に飲まれてどうするんだと、僕は自分を叱責する。今は、それしか出来ない。
 筑波直純が死んだ事がか、それともそんな死に方をした事がかわからないが、今は四谷クロウの言葉を認める余裕は僕の中のどこにもなかった。それが、唯一の縋れる部分であった。
 何故、この男はこんな事を言っているのだろうかと現れた疑問は、けれども直ぐにまた何処かへと消える。
 筑波直純が死ぬなど、あり得ない。
 そう何度も心で繰り返す。だが、けれども矛盾を感じているのも確かだった。
 絶対に嘘だと言う確証など、僕は何ひとつ持っていないのだ。
「そう言うわけで、骨のひとつも帰らない。待っていなくて良かったと言う訳だ」
 無駄にならずに済んだじゃないかと、四谷クロウは軽く口角を上げる。
 感謝しろと言った先の言葉はこう言う意味だったのかと、何となく言われた言葉が漸くわかった。だが、それをどうだこうだと判断する気にはならない。何故そんな風にこの男が言ったのかなど、やはり知りたくはない。
 けれど。
 目の前に現れた男に対して感じたものが、男が僕を見て言った事が、わかりたくはないのにわかってしまった。
 僕の前に立つ四谷クロウは、兄弟と呼べもするような男を失ったのだ。だから、僕はその空気を何処かで敏感に感じ取り、脅えた。僕を素っ気ないといった男の目は、半身を失ったかのような昏さを持っている。そんな自分を知っているからこそ、この男は僕を見るのだ。こんな言葉をかけるのだ。
 そう考えれば、全ての辻褄があうのではないか…?
 そう気付いたら最後、僕は筑波直純が死んだ事を認めないわけにはいかないのだろうが、それでも。
 それでも、他の答えを僕は探す。存在するのかどうなのかさえわからない、答えを。

 あの男は、本当に死んだのだろうか…。
 記憶の中の、最後に会った男を思い出す。
 彼は、笑っていた。とても穏やかに、優しく。
 そして。

――もう、戻って来ないかもしれない。
――まだ、お前の人生はこれからだ。好きな女を作って結婚して子供を持って、人並みの幸せというものを味わえ。

 あの言葉は、この事を予期していたものであったのか。
 あの時の男は既に自分の死を身近に感じ、そして、僕に幸せになれと言ったのか。

 何を思い、何を考え、筑波直純は僕と向き合い、僕にその言葉を向けたのだろうか。
 あの日見つめたその姿を思い出そうと僕はしたが、こんな時に限ってそれは上手くはゆかず、記憶の中の男の笑顔は呼吸をする度に霞んでいった。

2003/11/21
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