# 139

 死んだ、のか。
 頭の中で消えていった男の姿に僕が思った事は、それだった。
 目の前に落とされた言葉は、拒絶したくともすんなりと身体に入ってくる。どうやら、持ち主である僕に気付かれないよう、密かに侵略を進めていたらしい。認めた途端に納得するよう、一気に心が静かになっていくのを、僕は他人のものの様に、けれども自分の中で確かにそれを感じた。筑波直純は死んだのだと、信じたくはない思いとは別の場所で、僕は認識する。
 今は、事実はそれしかないようだ。ならば、この場で目を逸らしても、何の意味もないのだろう。
 男の死を認めたくはないだろう四谷クロウがそれを受け入れているという姿は、想像以上に僕に大きな影響を与えたのかもしれない。
 友人を失い何かが少し変わった男を見ながら、僕は根拠も何もなくそんな事を考え、告げられた事実を納得する自分を許した。亡骸が見つからないのならば生きているかもしれないのではないかと、そう立ち向かえない自分をどこかで恥じながらも、僕は受け入れる事を選ぶ。僕が今浮かべるものなど、目の前の男が何度となくしてきた事なのだろう。ならば、もう僕がする事ではないのだと。
 だが、それでも。納得したと言っても、全てが終わるわけではない。
 痺れた心の中から、悲しみ以上の遣り切れなさが顔を出す。何故だと、問わずにはいられない。何故こんな事になったのだろうかと、明確な答えなど欲しくもないのに、苦しみを紛らわすかのように疑問が頭を埋め尽くす。
 男の死を受け入れた途端、予想以上の辛さが僕の全身を襲った。耐えようと身構える事も出来ないそれは、僕の全てを奪うかのように牙を剥いてくる。そのあまりの衝撃に、どう対処すれば良いのか、わからない。
 倒れなかったのは、膝を折らなかったのは奇跡だろう。もう一瞬でも遅ければ、男の言葉が耳に届かなければ、確実の僕はその勢いに呑み込まれていたはずだ。
 ここが何処なのかも忘れ、取り乱していたのかもしれない。
 その声が、耳に入っていなければ。

「まあ、残された者の気持ちはともかく、あいつはこの終わりに結構満足しているんだろうな。俺は、そう思うね。実にあの男らしい、羨ましいくらいだ」
 力が抜け切っていたはずの体は、けれどもその言葉に過敏に反応した。頭で理解したと言うよりも、ただ流れ込んできたそれに、体が湧き立つ。
 僕は突き動かされるように目の前の男の服を握り締め、その身体を引き寄せた。そして、その勢いを借りる形で、それを突き放す。
「おっ、い。…何のつもりだ」
 たたらを踏んだ男が、眉間に皺を寄せ、僕を睨んできた。それに負けないように睨み返し、けれども直ぐに馬鹿らしくなり、背中を向ける。首から下げていたサックスを外し、ケースに入れていると、そこに男の影が伸びた。
 胸が、むかつく。目の前から消えろと、落ちた影に沸きあがる怒りのまま、僕は心の中で悪態を吐く。
「何だ、怒っているのか? ったく、訳のわからない奴だな」
 男は落とした短くなった煙草を靴で踏み潰しながら、呆れたような声を出した。
 わからないのはあなたの方だと、僕は怒りのままに勢いよくケースを閉じ、しゃがんだまま男を振り仰ぎ、視線にその意味を込める。
 何処の世界に爆発に飲まれて死ぬのが本望だという人間がいるのだ。本気で筑波直純はそうだったと言っているのか。何が、満足だ。
 冗談じゃない。
 四谷クロウが本心でそれを羨ましいと言っているのかどうかなど、関係ない。この男がどんな死に方を望もうと、それをどう実行しようと、僕の知った事ではない。だが、少なくとも、無神経なそれを今口に出すのはどうか。その神経を疑うというものだ。仮にも、友人が無残な最期を遂げたと理解しているのならば、冗談でも言ってはならないはずだ。いかれたこの男自身はともかく、真っ直ぐと生きていた筑波直純が、自らにそんな死を望んでいたはずがないだろう。確かに人に誇れる仕事に就いていなかったとしても、決して、遺体が見つからないほどの死を与えられる者でもなかった。絶対に。
 それを、満足していると表現するなど、死者への冒涜だ。絶対に間違っていると、僕は飄々と新たな煙草を咥えた男を睨みつける。
 だが、僕の視線に肩を竦め、男は「言っただろう、残された者の気持ちはともかく、と」と、同じ言葉を口にした。向けた怒りなど自分には関係ないと言うように流し、取り出したライターで煙草に火を点ける。
 そして、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、僕を見下ろしたまま、どこか面倒そうに言葉を紡ぎ始めた。
「人間誰だって死ぬんだ、そんな事はあいつだってわかっていたさ。俺もお前も、今は生きていてもいつかは死ぬんだよ、当たり前の事だろう。ならば、その「いつか」に対して何をする? 漠然とそれを感じながらただ過ごすのか。それとも、抗うのか? 死に際し人間は何をするか。色々あるだろうが、俺はふたつにわけられると思う。自分の存在をこの世に残したいと考えるか、それとも全てを消し去っておきたいか、だ。大抵は、前者なんだろうな。誰だって、自分の事を覚えていてくれる者が存在する事を願うさ。自分が生きた証を残したいと思うのが、当然だ。筑波だって、そうだっただろう。あいつの場合は、功績だの何だのじゃなく、単純に俺やお前に、関わった者達にその存在を忘れて欲しくないと思った事だろう。だが、自分がそれを望んで良いのか、本当に自分はそう思っているのか、よくわからなくも思っていたはずだ。いや、「はず」じゃなく、思っていたな。話をしたのは青臭い餓鬼の頃だったが、俺と同じようにあいつもその頃と変わっていないだろう。変わっていたら、俺達の付き合いはとっくに終わっているからな」
 そんなところがなければ、あいつとはつるんでいないと低い笑いを落とした四谷クロウは、指に挟んだ煙草を揺らし、灰を地面に落とす。僕の目の前を、桜の花びらと共に味気ないそれが通り過ぎる。男はふと視線を逸らし、離れた場所にある桜に顔を向けた。
「今年は散るのが早いな」
 血が足りないのか、と男は細い桜の木を笑う。その横顔は、白い肌以上に色をなくしていた。降り注ぐ陽射しがそう見せるのだろうかと、僕は目を細める。それを知ってか知らずか、四谷クロウは再び僕に視線を向け少し移動し、僕の顔に影を落とした。
「俺もあいつも、親に捨てられたのなんて30年も前の話だ。だが、たとえ自身で忘れても、吹っ切ったとしても、消えてなくなるものじゃない。だから、どれほどの一生をかけて沢山の存在理由を作り得たとしても、根本的には何を考えてもそこに行き着くのは当然だろう。俺やあいつの原点がそこなのだからな。何をどう言っても、捨てられた事実が、一番初めなんだよ。顔も知らない両親がたとえ切望して得た子供であったとしても、やむにやまれぬ事情で手放したのだとしても、それだけが子供の生きる道だったのだとしても、そんな事はどうでもいい事だ。俺達には、関係は合ったとしても、全く意味などないものだ。
 さあ、そこでだ。そんな始まりをした人生で、終わりに何を望む、何を望んでいい?
 そんな考えをする事自体卑屈になっている証拠だ、悲観的だ、自傷して何が楽しい、自分を哀れんで満足しているクソ野郎でしかない。己を甘やかせているだけじゃないのか、全てを捨てているだけだろう、ってな自問など腐る程したさ。生死の意味など何も考えていない馬鹿どもに比べれば、自分は立派じゃないか。悩んだ分だけでも、甘えていいんじゃないか。単純に考えていいんじゃないか。望むようにしていいんじゃないか。そんな言葉など、あきるほどに使ったさ。俺より融通の利かないあいつは、もっと考えただろう。だがな、答えなど出ないんだよ。望んで何が悪いと、この世に生きた証を刻み付けてやろうじゃないかと粋がっても、その瞬間に自分はただそうするのが普通だからそれを真似ようとしているだけじゃないのかと、自分を誤魔化すためにしているんじゃないのかと疑問を持つんだ。本当は、本心では何も残したくないんじゃないかとね。今まで生きて得た価値観と、自分の存在理由とがまるで合わない。そのギャップを感じながらもそれをどうにかしてみせるほど、己を突き詰められるわけでも、詳しく自分を知っている訳でもない。結局は中途半端なんだろうな、俺やあいつの自分に対する命の理由が。別に自分達を不幸だとは思っていない。腐った親を持つよりはマシだっただろう。育った環境は二の次だ。ただ、単純に、何をしたいのかという決断力がないだけなんだろう。同じ境遇でも、そんな疑問も何も持たない奴もいる。逆に極普通の生活をしてきても、同じようにに迷っている奴もいるだろう。別に特別な事じゃない。だから、たとえそれが次の瞬間には覆ったとしても、こうだと決めてしまえばいいんだ。そう思った事もあったな。今の答えを永久に続けなければならない訳でもないんだからな、と。だが、あいつも俺も、それが出来なかった。そして、いつの間にか、努力する事も、考える事も止めた。それは何故かなんて、簡単な話だ。いつまで経っても平行線のままだと、俺達は同じ結論を出したからだ。単純に、疲れたんだよ、それを考える事に。
 男なら、種のひとつも残したいと思うのが本能だろう。俺にだってそれはあるし、あいつにだってあっただろう。だが、結局はしなかった。それが、答えなんだ。俺にはまだ、少しばかり時間があるようだが、悩みはしても新たな答えを出す事はないだろう。だがそれでも、頭の隅に問いは常に存在する。
 今こんな風になんだかんだと言っていても、目の前に死を突きつけられたら、俺は自分の葛藤を無視して、本能的に何かをするのかもしれない。そう考えると、正直恐怖さえ感じる。人間は動物なんだから仕方がないだろうが、そんな事俺の意思には関係ない。だから、俺は。その一瞬どんな激痛に苛まれたのだとしても、どんな後悔を胸に抱えたのだとしても、突然の死を迎えたあいつを羨ましいと言った。病院のベッドでそれを待つよりも、断然良いと俺は思った。自分の死後の選択を迫られるよりも、流れるままに流がされる道を選べるのは魅力的だと感じる俺は、可笑しいか? お前には欠陥人間に見えるか? 怒ったのは、俺のそれを不快に思ったからだろう。ならば聞くが、お前は俺を怒れるほどのものを持っているのか?
 人間はどう死んだかによってそいつの生き方がわかるだとか、人生が決まるだとか言うが、俺にとっては馬鹿げた言葉だ。あいつも、筑波も笑っていた。安らかに死んだら、幸せだと? 苦しんでも、いい人生だったと? ふざけた話だ。だが、もしそれが本当だったのなら、確かにあいつの最期は最悪で、その人生も不幸だったとあらわすんだろう。だが、実際は違う。別に不幸でも何でもなかったさ。そうだろう? あいつは、その瞬間まで「死」を考えてなんかいなかっただろう。そうして終われるのなんて、俺は最高だと思うね。あいつ自身、そういうのを望んでいたんだよ。お前は納得出来ずとも、そう言う終わりもあるんだよ。そして、それが結果的にいい場合もある。自らの死を知っていたら、どうなっていた。あいつは苦しんだだろう。考えるのを止めた事をまた考えなければならなくなっていた。一人で生きているわけでも、安い立場にいる訳でもない。周りもごちゃごちゃと勝手に騒いでくれた事だろう。それがないのだけでもいいじゃないか。
 犬死があいつらしいと言っているわけじゃない。あんな死に方があっているほど、腐った人間じゃない。俺も医者の端くれなんでな、命の尊さはそれなりにわかっているつもりだ。この世に、殺されるべき人間などいないさ。どんなに極悪人でも、殺していいはずがない。理想論だ、だが、真実だ。人間は一人で勝手に生まれてそのまま死んでいくわけじゃないんだからな。だが、それとこれとは話が別だ。馬鹿だなと、何故死んだんだと恨み言を言いたくなる者の気持ちもわからなくはないが、俺は言わない。あいつにとって、悪いものじゃなかったと俺は自信を持って言えるからな。もっと最悪な、堪えられない死に方なんて腐るほどある。あいつの生きている世界は、そんな事があってもおかしくはないところだ。惨めに生きながらえさせられるよりは、断然マシだ。俺はあいつに今会えるのなら、上手い事やりやがったなと笑ってやる。お前がどう思おうが、俺はそんな自分にあいつは笑い返すと思っている。確かに、この世に生きていたんだから、未練のひとつやふたつあるだろう。だが、そんな事も消化して、絶対にあいつは笑うと確信している。それが、俺の中の筑波直純だ」


 ――僕は。
 僕は、筑波直純と言う男をどれだけ知っているのだろうか。
 この男のように、こんな男だとどれだけあげる事が出来るのだろうか。
 自信を持ってこうだといえる四谷クロウを、ただ単純に羨ましく思う。
 だが、僕にも。
 僕にも、確かに、この男にはわからない、知らない、僕だけの筑波直純と言う男があるはずだ。この胸の中に。
 僕の中の男は、四谷クロウの中の彼のように、笑うのだろうか。

 考えたそれは、答えを出せるものではなかったが、それでも。
 それでも、あの別れた時のように笑えばいいと、僕は思った。その笑顔を、悲しくとも辛くとも、僕は見たいと思う。それが傲慢だろうと、なんだろうと。

 四谷クロウも、そう思っているから、こんな風に話すのかもしれない。

2003/11/21
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