# 140

「さあ、まだ俺に文句があるか。なんだったら、今度は突き飛ばすのじゃなく、殴ってみるか」
 僕を見下ろす視線に強さを込めると、四谷クロウはそう言い、漸く口を閉じた。だが、一拍の間を置くと同時に短くなった煙草を足元に捨てると、頭を反らして空を見上げ、「…まずったか」と誰かに問い掛けるように呟く。
 何なのかと男に視線を当てたまま僕が立ち上がると、サングラスをかけながら顔を戻した四谷クロウは、「何を言っているのか自分でもわからないな」と肩を竦めた。
「訳のわからない御託を並べてるって感じだな。まあ、別に嘘は言っちゃいないが、八つ当たり臭くて気に入らない。実際にそうであったとしても、今のはちょっと頂けない。いや、かなり、か。――って事で、納得するなよ、お前。今のは、聞き流せ。忘れろ。出来なくてもそうしろよ、お前が言わせたんだからな、ったく。
 ショックを受けるなり何なりすれば、それなりに気遣ってやっても良いと思ってやっていたのに、あいつが死んだと言ってもお前がしれっとしているから、言わなくてもいい事を言うはめになったんだ。おい、わかっているのか、そこのところを。俺なんて、筑波の訃報を聞いた時には爆笑したというのに、お前の態度は何だ。落ち着きすぎていて、気にいらない。っていうか、冷静でいられるお前が小憎たらしい。もうちょっと取り乱せば、可愛げがあるのに、面白くねえ。それならばいっその事、別れた男などどうでも良いってくらいにふてぶてしくなって欲しいもんだ。ま、お前は人の意見なんて聞きそうにないし、俺の望みを叶える義理などないと言いたいんだろうがな」
 ああ、言っても無駄な相手に何を言っているんだか、俺は。
 そう言い、自嘲代わりに深い息を吐き出した男は、本当に面白くないと軽く頭を振った。
 何を一人でバタバタしているのか。…照れているのか?
 頭に浮かんだそれを、まさかと僕は瞬殺する。
「ったく、何で俺がお前にあいつの死を告げているんだか。こんな役目、知っていたら逃げたんだがな、ついてねえ。お前、あいつの組の方に知り合いはいないのかよ。普通、ちょっとぐらいは耳に挟むだろう。それとも、筑波の奴、周りに緘口令でも強いていたのか」
 男が首を傾げる。だが、そんな事、僕が知るわけがない。
 別れたのだから、知らなくて当然の事ではないか。僕は、あんな偏狂な場所で医者をしているような男と違い、極普通に暮らしているのだ。裏社会と繋がりなど持っておらず、小耳に挟む事などあるはずがないだろう。
「しかし、引き受けたからにはしょうがないか。ついでだ、お節介を焼いてやろう」
 行くかどうかは自由だと、四谷クロウは、ひとつの住所を口にした。
「形見が欲しいだとか、この終わりじゃ後味が悪いと思うのなら、そこへ行け。組のものは出入りしないが、正確な情報は入る。一応、筑波の女がやっている店になっているからな。何より、気に入らない俺の話よりも聞きやすいだろう。少々口煩いのを除けば、出来たイイ女だ。お前を悪いようにはしない、その点は安心しろ。ケリをつけるには、いい場所だ」
 なぜ…?
 何故そんな事を言うのかと、男の真意がわからず、僕は首を傾げる。これではまるで、男が僕を心配でしているかのようだ。僕に知らされていなかった筑波直純の死を告げた後悔など、この男にはないだろう。ならば、何故こんな風に手を貸すような事をするのか。
 疑問を表す僕に、男は軽く眉を寄せる。
「何だ? あいつに女がいる事も知らなかったのか? 聞いていなかったとは言え、考えればわかるだろう、普通。あの歳とあの仕事で、面倒見る奴の一人や二人いない方が可笑しい。下っ端じゃないんだからな、女を抱くのも仕事のうちさ。俺が知る限りでも、あいつには片手程の女がいるぜ。何なら、全部教えてやろうか?」
 ニヤリと笑った男は実に楽しそうで、僕はもういいと、呆れたように首を振る。この男に何かを訊こうとしたのが間違いだ。
「そう遠慮をするな。ここで止めたら、俺は悪人みたいじゃないか」
 何をそこまで楽しんでいるのか、四谷クロウは喉を鳴らして笑った。みたいではなく、充分にもう悪人だろう。その死を告げられるのに比べれば、女性関係を聞かされる事などどうって事はないのだろうが、それでも耳にして嬉しい話ではない。
 もう結構だと僕は片手で男の言葉を遮り、視線を逸らした。だが、男はそのまま言葉を続ける。
「嫉妬しているのか? 興味がないって訳じゃないんだろう、まあ、聞けよ。餓鬼じゃないんだから、目を逸らすのもどうかと思うぞ」
 うるさい。
 自分本位なこの男に説教をされるのは、何だか納得がいかない。
「心配せずとも、いくら連れだとは言え、あいつの性生活まで知っているわけがないだろう。下品な話はしないから、安心しろよ。ま、食ってはいるだろうがな、別に囲っているわけじゃない。確かに面倒見ているが、理由があってのものだ。そこに恋愛感情など、皆無だ」
 笑いを押し殺した声で、四谷クロウは言った。
 何を言っているのか、思いも寄らないその言葉に、僕は男を振り返る。知らなかったとは馬鹿だなとからかわれるとばかり思っていた僕には、彼の言葉は直ぐには理解出来ないものだった。
 驚く僕に、男はサングラス越しに真っ直ぐと僕を見つめ、どこか真摯な声を落とす。
「心配するな。お前が見ていたあいつは、筑波直純そのものだ。あの鬱陶しいほど真っ直ぐな奴を信じればいい、間違いはない。あいつは、心底お前に惚れていたさ」
 何故か、そう話す男の姿に、筑波直純の姿が重なった。
 何の理由もなく、この男とあの男が似ていると思った。二人の絆を、強く感じる。
「そして、お前もあいつに惚れていた。今も、そうだろう。俺はそう思ったから、お前を相手にしているんだ。そうでなきゃ、無視しているぞ。こっちだって暇じゃないんだからな。さっきから、俺はさっさと話しを終われと痛い視線を受けているんだ、わかっているのか。お前に構ったせいで、俺はこの後、あの男に小言を言われるはめになったんだぞ。ったく、あの堅物の説教は肩が凝るんだよな、どうしてくれるんだよ」
 真面目な表情を作ったのも一瞬で、やれやれと肩を竦めながら口元に笑みを浮かべる。何の事かと、男が示す方に目を向けた僕は、離れた場所でこちらを見ているスーツ姿の男を見つけた。僕達が視線を向けたのに対し、男は律儀にも軽く頭を下げる。
「俺の守り役だ。そろそろ引き上げないと、実力行使に出てきそうだな」
 取り出した携帯電話で時刻を確認した男は、低く笑ってそう言った。一体何処までが真実なのか、相変わらずの男の発言に、けれども何故か懐かしさを感じ、僕も小さく笑う。
「汗をかくのは結構だが、いい加減、上着を着ないと風邪を引くぞ。じゃあな。もう会う事はないんだろう、達者で暮らせよ」
 役者のような台詞を吐き後ろでに手を振りながら、四谷クロウは守り役だと言う男に向かって歩いていった。その背に向けて、僕は男がやってきた時と同じように、溜息を落とす。
 視線を落とし、短い自身の影を眺める。

 筑波直純が、死んだ。

 この世界から、消えていなくなった。

 今更のようにその言葉を飲み込むが、けれどもそれはまだ、何重ものフィルターがかかっているかのように、直接心に響きはしない。そうなのかと、今まで話していた四谷クロウともう会うことはないのだろうというのと同じ程度に、ただ納得しているだけといった感じだ。
 あの友人が死んだ時も、こんな曖昧な感覚に付き纏われていた事を思い出す。目の前で命を消した友人を理解しながらも、死んだのだと告げられながらも、僕ははっきりと意識していなかったように思う。知っていると言いながらも、彼が死んだという事実をよくわかっていなかった。その時と、今の僕は同じなのかもしれない。
 だが。成長していないだとか言うのではなく、多分、人間とはこう言うものなのだろう。
 そんな結論を自らに落とし、顔をあげる。人が絶えない公園、暑いほどの陽射し。時折視界を舞う桜。僕が生きている現実だ。だが、目に写る世界だけが全てではない。人間には、記憶も感情も存在する。心がある。そのバランスを崩さないために、色々なものを使って苦しみを補うのだろう。大切なものを失った痛みをダイレクトに受け止めていては、生きてはいけないのが人間だ。
 僕は、おかしくはない。苦しみを制御するのは、生きようとしている証だ。だから、これでいいんだ。
 何を考えているのか自分でもわからない、励ましなのか何なのかそんな言葉を自らにかけながら長い溜息を落とす。
 公園の入口からこちらに向かってくる藤代に気付き、僕は全身に襲ってきた脱力感に従うように、芝生の上に腰を降ろした。のんびりと歩いてくる藤代が、復活したと言わんばかりに笑顔を向けてくるが、片手を上げて答える気力もない。
 あの男はいなくなってしまったのかと、僕はそのままその場に寝転がり、空を見上げた。
 水色の春の空は、ただ眩しく、僕の目を刺激する。
 ぼやける視界に入った木々の鮮やか新緑は、いつか男と飲んだ綺麗なカクテルを思い出させた。




 男の死を知ってから、数日後。
 僕は新たな仕事のため、生まれ育ったこの東京を離れる事に決めた。

 彼の時間が止まっても、僕の時間は、止まらない。

2003/11/21
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