# 142

 正社員として働き始めた僕に、60を過ぎてもなおその辺の若者よりエネルギッシュな店長が手渡してきたのは、紐がついた単行本程度の大きさのカードだった。そのカードには、「阪神応援の為、声は出張中。耳はあります。」と大きな字で書かれていた。
「首から吊るしておけばええ。邪魔になるのなら、後ろに回しておけ」
 一瞬、新手の苛めだろうかと、そんな考えが頭をよぎる。だが、「どうだ、いいだろう」と笑った店長の顔から絶対にそうではないという事を悟り、僕はニヤリと笑い返しておいた。親切心を発揮してくれたらしいそれに、僕が言うべき言葉は礼しかないのだろう。だが。
「微妙に、酷くない?」
 紐を首にかけた僕の胸からカードを手にし、他の従業員が的確な判断を下した。どこがだと問う店長に、他からも笑い声が上がる。
「流石、店長。デリカシーなさすぎ」
「小学生の頃さ、アホな奴の背中に、「ボクはアホです」って紙張って遊んだよな〜。そんな感じやん、これって。ええんかいな」
 雇い主に対する言葉としては少々適さない物言いでそう指摘した同僚達は、けれどもそのままそれを肴に馬鹿話へと発展させていく。何事でもネタにしようとするかのような会話に慣れたとは言え、関西人はよく喋るものだと感心せずにはいられないものだ。
「何や、あかんか?」
 可愛げに首を傾げる店長に、全くそんな事はありませんと、僕は真面目な顔で首を振っておいた。これが彼のやり方だというのなら、それで構わない。可笑しいと笑う同僚達も、別に反対しているわけでもないだから。
「保志〜。たまにはガツンと言っとかな、ええ用に使われるで」
「そうそう、店長人使い荒いから」
「おお、おお。どんどん言うてくれよ。その度、給料下げるからな、そこの二人」
 最悪だと抗議の声をあげながら笑う彼らは、けれども口と同時に手を動かす。店長も同じように、会話をしながら開店準備を続けている。良く喋るからといって、仕事の効率が悪くなるわけでもないから不思議だ。手と口を同時にこんなにも動かせる彼らは実は凄いのではないかと、僕は時々感じる。
 だが、彼らは特別だというわけではない。
 店の者達同様、客もよく喋る。僕が喋れない事を全く気にせず、一人で勝手にペラペラと喋るのだ、飽きもせずに。もし、僕が喋れていたとしてもその会話に入り込む事は無理だろうと思うくらいに、勢いよく。そのくせ、喋りながらも別の場所で交わされる会話を耳に入れているのだから、口は休み無く動いていてもそれに夢中になっているわけでもないのだろう。
 そんな風な、僕に言わせれば、凄いと思えるその能力は、けれどもこの街では当たり前なものだ。逆に、それについていけない僕はよく笑われる。だが、その笑いも直ぐに新たな話題に変わるので、不快を感じる暇もないので問題はない。おかしなものだ。
 土地が違えば、こんなに人間も違うものなのだろうかと、この歳になって始めて実感した。感動するまでもいかないが、それに誓い衝撃だ。そして、その衝撃は、僕にとってはいい刺激になったのだろう。
 サックスは客のリクエストと言うよりも、店が盛り上がり始めると演奏を頼まれる。他の従業員達も何らかの楽器を吹くので、そうステージに立つ事はなく、バーテンとして働いている方がはるかに多い。だが、演奏するのは何も店だけではなかった。
 これも仕事の一環だと連れて行かれる球場で、店長が入る応援団に紛れて色んな曲を吹く。始めは、野球に関心はなく、また従業員達とそうした場を共にするのは正直と惑ったのだが、人間の適応能力というのは侮れないらしい。ひと月もしない内に、関西人に僕は染まりきっていた。同じように騒ぐほどではないが、それを不快には感じない自分がいるのだから驚きだ。
 良くも悪くも、僕はこの水の都に浸っている。
 真新しい店長の手作りカードを手にし、直ぐに客の落書きで汚れてしまいそうだと考えるあたり、僕がこの生活に馴染んでいる証拠だ。

 そんな風に。
 目まぐるしいと言える日々を過ごし、気付いた時には、夏は終わりを迎えていた。
 男と出会った初秋が過ぎてゆくのを見送ったと思うと、直ぐに冬がやって来る。
 幾分か南にやって来たとは言え、大阪の冬は東京とそう変わらず、やはり寒かった。
 秋の終わりから身につけ始めた鍵の冷たさに、ドキリとしてしまう季節。子供ものように紐を通して首から下げたそれは、冬の寒さ以上に冷たいもので、肌に感じる度、僕は軽い笑いを溢すはめになった。だが、馬鹿だと思いつつも、肌から離そうとは思わなかった。
 鍵は、すっかりとその存在を忘れていた頃に、楽器ケースの中から転がり出てきた。
 どうしただろうかと、なくしたのだろうと思っていたそれは、あの男の部屋の合い鍵だ。使った記憶は無いそれがこの手にあるというのは、何とも不思議な感じがするものだった。まるで、こんな時の為に用意されていたかのようで、僕は何度も笑った。
 いつだったか返してしまったものの代わりに、自分で指輪を買おうかと思ったが、結局は無意味なので実行にはうつさなかった。その代わりと言う訳ではないが、僕は鍵を肌身離さず持つ事にした。後から考えてもあまりにも自分らしくないその行動は、けれども未だに止めようとしないのだから、それなりに自分には必要なものであったのだろう。
 仕事時は、服の下にそれがあり、そしてその上には、やはり客によって落書きがされた僕専用のカードがある。その関係に自ら何度も笑いを落とし、そして、満足を覚えた。鍵っ子のようなそれを見た同僚達は色々好き勝手に言ってくれていたが、僕には心落ち着くものだった。一種のお守りとでも言うのだろうか。
 だが、流石に、寒い季節には少し堪えるのも事実。
 昨年は筑波直純と過ごした冬を、今年は一人で過ごす。
 そんな考えをする自分が可笑しかったが、多分きっと、僕は毎年こうして去年の冬を思い出すのであろうと予感する。何年、何十年後も、あの時男は確かに僕の傍にいたのだと、思いを馳せるのであろう。そうしてまた、次の冬を、僕は迎えるのだ。

 大阪の地に初雪が降ったのは、年の瀬の事だった。
 天から舞う雪は直ぐに溶けてしまうものだったが、それでも、僕はあの時男と見た雪を思い出す。
 こうして、思い出と共に生きて行くのも悪くはないと、記憶に残るあの笑顔にそんな事を思う。まだ、完全に吹っ切れただとか、男を懐かしく思うだとか、そこまで受け入れられた訳ではない。まだ、心は痛むし、どうしようもなく辛く感じる時もある。だが、必要としていたものを失ったのだから、それが当然なのだ。だから、その事自体に、男がいない事自体に嘆くのは間違っている。
 そう思えるようになった点では、僕は何もしなかった自分の愚かさに笑った時よりは、確実に前に進んでいるのだろう。こうして、僕は、生きていくのだろう。一歩一歩と足を踏み出す事により、心の中の男に近付いていっている気さえする。

 いつか。
 友人に話し掛けるように、僕は彼に言葉を向けるのだろうか。向き合った時は出せなかった胸の想いを、筑波直純に差し出すのだろうか。
 もし、それが出来るようになったのなら。
 僕は何よりもまず、彼の名を呼びたいと思う。笑顔を向けたいと思う。
 それをしなければならない時に出来なかった罪滅ぼしだというわけではなく、ただ単純にそう思う。

 友人にも思った事と同じだが、やはり人間は死んでしまってはどうにもなりはしない。
 会いたいと、必ずもう一度あの灰色の目に自分の姿を映したいと思った僕の願いは、あっさりと消えてしまった。もう、願う事も無意味になってしまった。
 だが。それで終わらせられるほど、人の心は単純なものではない。貪欲に、新たな願いを僕は持つ。
 聞こえないはずの声が聞こえるようだと言った男に、届かない言葉が届くのであれば。
 僕はこの辛さをいつか必ず飲み込んでみせる。だから。
 だから、僕に。彼の名を呼ばせて欲しい。一度でいいから、喋らせて欲しい。
 自分の全てで彼に呼びかけてみたいと、僕は願う。

 生きている人間だからこそ、それを夢に見る。

2003/11/30
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