# 143

 暖かくなり、春を感じはじめた頃、店は時期外れの長期の休暇に入った。アメリカで暮らす息子夫婦に子供が生まれたとの事で、孫の顔を見に行く店長が2週間もの間、店を閉める事にしたからだ。
 前半の休みを大阪でのんびりと過ごし、僕は東京行きの新幹線に乗った。9月の社員旅行が東京ドームでの野球観戦だったので、言うほどにも離れていたわけではなく、たった半年ぶりといった程度の帰郷だ。
 だが、久し振りに踏んだその地は、思いのほか僕に懐かしさを覚えさせた。人が溢れるばかりで思い入れなどないと言うのに、雑路の匂いが胸に染みる。無機質な街ではあるが、間違いなく僕の故郷はここなのだと、妙に実感した。
 大阪とはまた違う心地良さは、僕の中から様々な記憶を呼び覚ます。その感覚を味わうように街をうろつき、そうして漸く帰りついた実家では、「お帰りなさい、翔」と母の穏やかな笑顔に迎え入れられた。
 睡眠時間は相変わらず長いが、意識の混濁はなくなってきたと父に聞いていたが、まさかこうもしっかりしているとは思いもせず、僕は玄関先で茫然と立ち尽くし、微笑む母と長い間見つめ合う事となった。思えば、こうして向き合う事などあまりなかったと、これもまた今になって気付く。ただいまと声では返せられない応えを、僕は母のその目を見つめ深く頷く事で示した。


 長期休暇に入る前に、僕はCDを出してみないかとの誘いを受けた。

 初めて見るその男は、けれども以前に僕のサックスを聞いた事があるらしく、「音が変わった。いい音になった」と一人満足しながら、僕にその話を切り出してきた。何だろうかと訝しく思いながらも聞いてみると、和音さんの知り合いらしく、何年か前に僕を紹介されその時勤めていた店にも顔を出していたのだと言う。
「何処かにいい奴はいないかと和音に聞いたところ、君を紹介されたんだ。なかなか面白いと聞いたので行ってみたんだが、あの時は正直、そうは思わなかった。確かに、下手じゃない。上手いと言えるだろう、サックスを知っている。だが、和音が感じるような面白さは俺にはわからなかった。それを言うとさ、あいつ何て言ったと思う? ならば、一年後にまた聞きに行ってみろよ、だぜ。何だか宿題を出された気分だったよ、あの時は。俺にはわからない何かを、和音は君に見つけているのかとね。だから、俺は質問した。売れると思うか、と。それじゃあ、『売れるわけがない、素人の中では上手いかもしれないが、それだけだ。彼は自分の色を持っていない』といけしゃあしゃあと応える。どっちなんだよと、あいつにからかわれたのかと思ったよ。だから、一年後にまた行けなどと言う言葉は、忘れたさ。綺麗さっぱりと」
 それが何故、態々この大阪まで来たのかと、ますます眉間に皺を寄せる僕に、男は言った。
「だけどさ、不思議な事に、耳は覚えているんだ。仕事柄、音の記憶力はいい方だ。だが、人より多くの音を仕入れるからこそ、気に入らないものはどんどん捨てていく。それなのに、和音から君の話が出た時、何年も前の事なのに君の音を思い出した。正直、自分が覚えている事に驚いた。だが、和音は当然だろうと言うんだ。普通、吹き手は音に自分の色をつける。プロとしてやっているのは、その表現が上手い奴だ。音を奏でるのが感情を持った人間ならば、色がつくのは絶対だ。だが、君にはそれがなかった。凄い事だ。気付いていなかったのかと、プロデューサー失格だと和音に散々言われたよ。確かに、音を聞くというよりも、俺は売れそうかどうかでしか音を聞いていなかったのかもしれない。ガツンときたね。
 もう一度、何が何でもあの音を聞きたくなった。だが、残念な事に東京にいないと言うじゃないか。行き先を知っているらしい和音を問い詰めると、行ってもいいが無理強いはするなよと理由は言わずに釘を刺してくる。何を言っているんだろうかと思っていたんだが、今わかったよ。演奏を訊いたら、誘いをかけずにはいられなくなる俺を見越していたんだな、あいつは。だが、忠告は無駄になりそうだ。俺は君の音が気に入ったよ。あの時とは違い色を得たようだが、それは深さを増して濃くなったという感じが強い。相変わらず、聞き手に音の色を任せる部分がある。だが、それがいい。君の中では確りとしたものがあるのにそれを押し付けないというのは、新しい感覚だな。音というのは聴かせるものだ。それを君のように与えようとしても、普通は不安定で聴いていられないだろう。君の歌い方は、和音なんかは絶対に真似出来ないものだ。あいつは超一流の語り手だからな。それに比べれば、やはり味気なさはなくなりはしない。だが、悪くはない。不思議なもんだ」
 音が変わったと、年明けに店に来た和音さんに言われてはいたが、実際僕にはどう変わったのかわからなかった。僕は、耳がいいわけではない。音楽もただの趣味だ、自己流のものでしかない。だから、男が気に入ったと言い語るそれも、いまいちピンとくるものではなかった。
 今までも、プロにならないかと言う誘ういは何度かあった。だがそれは、喋れないからこそのものであって、レベルがどうだこうだというものではないと僕は思っていた。確かに何年も吹いてきたのだ、ある程度は楽器を扱える。だが、それを仕事にする程、上手い訳ではない。そう思い、サックスで生活をしてみないかと言う話は全て断ってきた。
 だが。
「はっきり言って、音に評価をつけるなんて無謀もいいところで、人それぞれの感性が刺激されるかどうかと言うだけのものだ。それを好きか嫌いかという感覚に、正しいも間違いもない。絵に上手いも下手もないとよく言うが、音も一緒だ。だが、この世界、そうは言っても何にでもレベルがつく。何より、慈善活動をするわけじゃなく、俺は仕事をしているんだ。やるからには売れる物を作る。技術があり、大衆にウケる、レベルが上の奴を選ぶ。当然だろう。
 その点で言えば、君のサックスははっきり言って、どの条件もない。聴く者全てがいい耳をしているわけじゃないから、俺や和音のような評価は役には立たないと考えるべきだろう。あくまでも、普通の奴が対象となるんだ。ウケるかどうかは、その時代と吹き手の個性による。君の場合、声が出ないという障害を広めれば、ある程度は売れるだろう。一時の話題にはなるから、商売性はある。だが、それまでだ」
 そんなに甘い世界じゃないと、男ははっきりと言う。確かに、その通りだろう。そんな事は僕とて言われるまでも無くわかっていた。喋れないなど、珍しい個性でもなんでもない。
「けれど、俺は君の音が欲しい。君を売りたいというよりも、ただ、やってみたいだけだな、本心を言えば。だが、悪いようにはしない。頼む、協力してくれないか。儲けにする自信は、正直言ってない。でが、満足するものを作って売ってやるという意欲はある。片手間のバイト感覚でもなんでもいい、その音をくれないか?」
 ある意味散々貶しての、それでも欲しいというその訴えは、正直者というよりも計算されているかのような策略にも感じた。だが、嫌な気は全くしなかった。
 僕を使う上では外せない、声が出ないと言うハンディをわざと言葉にして切り捨て、売れるかどうかわからないとも口にする。やってみたいと訴えながら、僕にはアルバイトみたいなものだと気軽に誘う。それはまるで、男の手腕を試すためのひとつの駒か何かのよう。少し個性的だというだけの無名の新人を売り出す。その無謀なチャレンジに乗ってくれと言っているようなものだ。
 だが、そうであるからこそ、僕の心に届いたのかもしれない。この男は、僕自身にはわからない、僕の音を聞いたのだろう。頭を下げても欲しいと思うものが、そこにあったのだろう。そう思うと、僕もその僕の音を聞きたくなった。男に協力すれば、CDという形にすれば、僕も男が訊いた音を訊けるのだろうかと少し心が揺れた。だが。
 考えてみてくれと言い残し男が去った後も、けれども僕の心はそこまでだった。実際にCDを作るといっても、それがどんなものであるのか僕にはわからない。自分には全く縁のないものであると言う事を、充分に知っているだけだ。確かに、プロでなくとも自分達で簡単に作っている者も多くいるのだろうが、僕には関わりを持つような対象ではなかった。
 しかし。

「やってみろや」
 僕の思いを知ってか知らずか、話を聞いていた店長が当然のようにそう言った。
「別に、悪徳商法やないやろう。丹下さんの知り合いなら、ぼったくられる事もないさ。心配するな」
 僕の背中をバシバシ叩きながら、「気になるんなら、丹下さんに連絡してみいや」とまで促す。だが、僕はそんな事を気にしているわけではないのだ。具体的な話をした訳ではないが、これから悪い条件を示されるなどと言う事はないだろう。その点は、店長の言うように、考える必要はないのだと思う。疑ってもいない。ただ、こんな話を貰う程、自分が特別だとは思わないのだ。サックスが上手い人間は、それこそゴマンといる。何故、僕なのか。自信がないと言うよりも、納得が出来ない。
 僕がそう言うと、店長は難しく考えるなと少し呆れたように肩を竦めた。
「俺なら、間違いなく受けるけどな。ま、お前はお前か。だが、なあ。目の前に飛べるかもしれんハードルがあるんや。普通、跳べないかもしれん、コケるかもと思わない事もないんやろうが、とりあえず跳んでみよう、やってみよかと思うもんやろう。コケたら、起こしてまた挑戦するなり、誰かにそれを見られて恥しくなっても笑い返しておけばいいだけの事や。たとえ馬鹿にされたかて、死にゃせん。態々、そんなものは見えませんよってな感じに無視するのは単なるアホやろう。あるもんはあるんやから、目向けるしかないやろう。よそ見してたら、それこそぶつかってコケるわ」
 屁理屈と、そう言うものではないのだろうか、これは。普通、転ぶのが嫌で、出来なかった時の事を考えて回避するのだ。あるからといって、跳ばなければならない訳ではない。それこそ、飛ぶ必要が何処にあるのだろうか。
 だが、眉を寄せる僕に、店長はおかしな事を言っただろうかと言うように首を傾げた。
「普通は、跳ぶもんやろう? お前は、こそこそと抜け道を探すクチか? だがな、前にあるんやから、よける事はないやろう。何で態々避けなあかんねん。それが何なのか、見えるんやから怖くもないやろ。バーが見えないくらいの大きな高飛びをしろって訳やない。超えられるかもしれへんものやったら、むこうていくのが当然や。ぶつかっても、そのまま行けるんなら行けばええ。やり直したかったら、やり直したらええ。どうせ、見えるハードルなら、大した怪我はしない。もし飛び越えた先に落とし穴とかあったとしても、その時はその時や。大きな声で助け呼んだら、誰かが覗いてくれる。そんなもんやで、この世の中は。お前はちょっと、考えすぎるな。もっと楽に生きやな、損やぞ」
 楽天家なのだろうかと、自信満々に言う店長をそう思ったが、そうでもないのだろう。彼がというよりも、この街がこんな考えを持たせる場所なのかもしれない。さすが、関西人だなと、妙な所で僕は実感した。
 障害物が見える程度のものならば大した痛手は負いはしないと、店長は経験で知っているのだろう。それを常識のように言い、口を挟んでくるその行為を不躾だと捕らえる者もいるだろうが、正直、僕にはありがたいものだった。
 ハードルを飛び越えようとするのを、僕は何処かで無鉄砲だと、考えのない行動なのだと思っていたのかもしれない。きちんと目の前のものを見、飛び越えられないかもしれないが挑戦してみるという、そんな考えは僕にはなかった。駄目そうなら避けるのが当然だった。いや、自信があっても、避けられるものなら避けてきた。
 今までもあった誘いを真面目に取らなかったのは、言葉に耳を傾けなかったのは、無意識の内に僕は避ける道を選んでいたからなのだろうか。プロというものに興味がないのは確かだが、僕にとってサックスは手離せられない物なのだ。サックスが吹ける環境の仕事があるというその魅力的なチャンスをきちんと考えもしなかった事自体、初めから避けていたと言えるものなのかもしれない。意固地な程に、僕はその可能性全てに目を瞑ってきたのだろう。
 それは、実力が無いからとか言うのではなく。本当は、喋れない自分を卑下する事で、僕は自らを守っていたのかもしれない。誰かの目に止まるのは、サックスではなくこの障害のせいだと僕は卑屈になり、沢山の壁を作っていたのかもしれない。
 店長に言われ振り返ってみれば、跳ぶ事も何もせずに避けてきたハードルが、僕の歩いてきた道には沢山あるように思えた。
 僕は、一体、自分の何を守ろうとしていたのだろうか。
 今考えてみても、確かな答えは見えない。穏やかな日常の変化を変えたくなかったのか、ただ変わるのが億劫だったのか。それとも、そう意識してこなかったがこのハンディを何処かで恥じていたのか、客でも知人でもない、全く関係のない者から不躾な注目を浴びる可能性に怯えての事なのか。全てがそうであるようにも思えるが、違うようにも思える。
 だが、過去の自分が何を考え何を胸に秘めていたのかはわからないが、今どうして誘いの言葉に耳を貸せたのか、店長の言葉を理解したのかはわかる気がする。心に余裕があるのだろう。その余裕は、多分、自分の足でここに立つ自分自身を認めているからだ。
 落ち着いたと言えるほどの年齢でも、そんな長い年月が流れた訳でもないが、きっとそんなものなのだと思う。人生を達観するには、まだまだ足りないものだらけだろうが、それに一歩近付いた事は確かなのかもしれない。
 8年かけて友人の事を知り、半年にも満たない間に想いを寄せた男との付き合いに終止符を打ち、住み慣れた街を離れ新しい環境に身をおいた。自分を知るのに必要なそれなりの経験をしたのだろうと、自身でも思う。過去を確りと持つ力を少しは得られたのだろうし、大切なものに気付けるだけの知恵も少しはついたはずだ。確かに、まだまだ頼りなく馬鹿ではあるのだろうが、そんな自分を甘やかして見守るだけではなく、成長させる事も出来る自信の希望にも気付いた。
 南に下って得たものは、何も温かさばかりではない。甘えられる分、厳しい部分も確かにある街だ。大阪は、周りに関心が薄い東京よりも、多分シビアであるのだろう。だからこそ、人の温もりがこうも胸に響くのかもしれない。

「よく考えてみろよ、決めるのはお前だ」
 店長の言葉に、僕は新しい未来への欠片を手に入れる。

 手にしたそれをどうするのかは、僕自身がよく考えて決める事なのだ。

2003/11/30
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