# 144

 東京に来た翌日は藤代に捕まり、兼ねてから、去年と同じようにモデルをして欲しいと言われていた撮影に付き合い、一日を過ごした。
 こちらに来たからといって、特に予定もなかったので了承した事だが、昨年とは違い少し本格的なそれに少々僕は引いてしまった。前回のものが好評だったとかで、今回は力を入れたのだというアキヒトさんにそうなのかと頷いてはおいたが、からかわれた感が強い。僕自身藤代に写真を見せてもらったが、好評かどうかはともかく、別に僕に拘る事もない出来だと思えるものだったのだから、その言葉を素直に信じる事は出来ない。
 だが、だからと言って不満があるわけでもなく、出来る限りの協力はし、僕はまたバイト代を貰って見送られた。気分は、お小遣いを貰った子供のような感じだ。適当に伸ばしていた髪が短く切られ、すっきりとした頭で考えるのはやはり、遊ばれているのかも知れないと言う事で。
 けれども、そうだとしてもやはり問題はなく、何なのだろうかという苦笑ひとつで終わってしまう。
「もっとこっちに戻って来いよ」
 実験台が居なくなったと嘆く藤代の言葉を受けながら、隣を歩くこの青年も、そしてアキヒトさんも、離れた土地に突然飛んでいった僕を気にかけてくれているのだろうと思いつく。確かに、昨年の自分は、どうしたのかと思う行動力を発揮した。だが、僕とてもう26歳の男だ。今もなお気にするのは、それもそれでどうかと思うのだが。
 しかし、ありがたいと思うことに変わりはない。
 藤代と夕食を摂り、この休みのうちにもう一度会う約束をして別れる。家路に着きながら、明日は久し振りに友人の墓参りに行こうかと考える。自分を迎え入れてくれた家でも居るべきなのだろうが、他に言ってみようかと思う場所が次々に浮かぶ。
 予定はあまりなかったというのに、帰って来たら来たで、色々と行きたいところがあるのだから不思議なものだ。
 だが、それが故郷と言うものなのかもしれない。



 適当に数日を過ごしながら早川さんの店へ顔を出した時に、僕は新たな約束を取り付けた。それを守るため、明後日には大阪へと戻る週末、都内のピアノ教室で働くマスターを訊ねた。
「久し振りだね、保志くん」
「お邪魔するよ」
 あの頃と変わらない、優しい笑顔を浮かべ迎えてくれたマスターの隣には、何故か和音さんがいた。ご無沙汰していますと、頭を下げた僕に対し、それ以上の深さで彼は腰を折ってきた。突然の事で驚く僕に、「津村が迷惑かけて悪かったよ。こうも早く押しかけるとは思わなくて、ホント、済まない」と謝罪を口にする。津村とは、CDを出さないかと僕を誘ってきたあの男だと思い出すのに、暫しの時間が要った。
「良く喋る男だろう、あれは。音楽よりも、口で食っていけると思うくらいにね。保志くん、意見を言う間もなかったんじゃないか?」
 悪い奴じゃないんだが、一直線ってな感じで少々ウザイ奴なんだ。
 友達だと言いながら、その男を貶す和音さんは、心底疲れたような顔をして僕を笑わせた。
 そうして、マスターの仕事の都合もあるのでそう長い時間ではなかったが、僕は近況報告と、そのCDの件について彼らと話をした。
 マスターは、大阪の店長と同じく、やってみればいいんじゃないかと言ったが、和音さんはどちらとも言わなかった。もっと時間をかけて考えてから決めるべきだろうと、今僕が出す結論はどちらであってもよくはないと言うような言い方をした。
「津村だけに言える事じゃなく、プロデューサーというのは独自の世界を確りともった奴だ。今ここでよろしくお願いしますといっても、上手くいとは俺は思えない。俺の場合、あいつのその世界観を良く知っているから、この曲ならばあいつがもっとよくしてくれるだろうとか、この曲はあいつには似合わないとかいうのがわかる。けど、保志くんは、あいつのその世界に自分を入れる事が出来るのかどうかもわからない。
 津村がこうしろと言った事は、しなければならない。絶対ではないが、実績も何もない君が意見出来る部分なんて全く無いと考えて挑むべきだ。それが、出来るか? 出来たとして、保志くんはそれでいいのか? 君の音に、津村が色を塗るんだぞ」
 やってみなければわからないが、成功するよりも失敗する可能性が大きい事を知っておくべきだ。それにより、ダメージを受けるのは津村ではなく、間違いなく君なんだ、と和音さんは硬い表情で言った。彼の意見は、大阪で聞いた店長の意見とは逆だった。
 だが、僕のように後ろ向きなものではなく、和音さんはもっとずっと先を見て発言しているのだろう事が良くわかった。
「君の音を録音したいというのなら、俺はこうも言わない。前から言っている様に、保志君のサックスは好きだからね。だが、津村はそうじゃなく、作りたいんだ。それが、保志くんにどう影響を与えるか。今のままじゃ、不安だよ俺は。軽い気持ちでするのなら、今回は断るべきなのかもしれない」
 反対はしない。協力出来る事があるのなら、君のファンとして出来うる限りの事はしたいと思うが、今はまだ早いと思う。
 そんな風に言う和音さんに、「お前の不安を語って聞かせてどうするんだ」とマスターは笑った。しかし。
「だが、こいつの言う事は、私にもわかるよ。保志くんは、確りした音を持っている。だが、それを自分では良くわかっていないだろう。だから、その音にポリシーを持っている訳でもない。それ故に、君の音は、あっさりと変わってしまうリスクを負っている。
 それをどうだこうだとは言わないが、私はね、保志くん。君はもう少し周りを気にするべきだと思う。楽しいと、自分が吹きたいからと吹くのではなく、そろそろ聞く人を意識してみていいんじゃないかい。聞きたいと言ってくれる人に、いい演奏を聞かせようという気持ちを持ってみるべきではないのかな。確かに、楽しんで吹くのはいい事だ。だが、音は他の者にも伝わるんだよ。聞かれている、聞かせているというのをもう少し意識すれば、もっと君の音は深みを増すと思う。行き成り相手の望むものを吹けと言われても無理だろうが、少なくとも目の前にいる人間は自分のこの奏でる音を聴いているのだともっと知っておくべきだよ。
 他人を意識すれば、多少なりとも緊張するものだ。だが、最初はそれがプレッシャーになったとしても、慣れれば確かな力になる。妙にリラックスするよりも、断然いいはずだよ」
「それは言えるな。保志くんは変に場慣れしているから、緊張するくらいに周りを気にしてみるのもいいかもしれない。それこそ、レコーディングにチャレンジするのもひとつの手なのかもしれない」
 マスターの言葉に頷いた和音さんは、「その辺りのところ、もっと良く津村と話すべきだろう。俺からも少し話してみよう」と、CDの件はともかく、まずこの機会に色々考え自分の音を知るのがいいだろうと言葉を続けた。
 確かに、僕とて緊張した事は何度もあるが、いい意味でのそれを経験した事はあまりないように思う。他人の目も、そう気にした事はない。マスターの言うとおり、僕はいつでも、自分の為に吹いていたように思う。サックスを吹くのが楽しいからと、その欲求を満たす為に店でも路上でも演奏をしていた。自分が満足すれば、充分だった。その音を他人が訊きどう思うかなど、あまり関心を向ける事ではなかった。
 長い間僕の演奏を聞き続けていた彼の言うとおり、僕はもっと、聞いている他人を意識するべきなのかもしれない。聴きたいと言ってくれる人にいい演奏を聴いてもらえるよう、努力してみるのもいいのかもしれない。確かにそれは少し刺激的なのかもしれないと、彼らと話をしながらも、僕は無性にサックスが吹きたくなった。この場にそれがない事を、とても残念に思った。
 自分の音が、言葉のように相手に伝わるものだという事を、僕は忘れかけていたのかもしれないと、二人の言葉に気付かされる。もっと、僕は周りを見てみようと、素直に思えた。

 そうして彼らと別れた後も、僕は自分の音楽というものに、思考を奪われていた。自分にとって、サックスとは何なのか。今までも何度も考えた事のあるそれに、今、新しい答えが出そうな予感に、緊張と興奮を覚えた。
 昼下りの人ごみの中で考えるには少し似合わないものだが、気にする事でもない。行き交う人にぶつからないよう一応は注意しながらも、周りよりもワンテンポ遅いリズムで足を動かせる。
 少しふわふわとした感覚に、何を楽しんでいるのだろうかと自分を笑ったが、目の前に拓けかけている何かを掴みたくて仕方がない。サックスは思った以上に自分の中で大きな存在のようだと、赤信号に足を止め、僕は空を仰いだ。
 大阪の街でも、同僚達と路上演奏を時々するが、東京にいた頃の程でもない。
 この街にしては綺麗な、春の水色の空を見ながら、やはり今サックスが手元にないのは惜しいなと、僕は小さな生きを溢した。
 そして。

 頭を戻し、何気なく周りを見回した景色が、突然色をなくした。
 いや、とらえた映像を頭が処理できず、一時的に機能を停止したのだろう。ありえないものを見た、人間の本能がそうさせるのか。それとも単純に、ショートしただけなのか。
 通り過ぎた視線を戻した先で、僕はそんな事態に陥った原因を知る。

 筑波直純が、数十メートル離れたところを歩いていた。

 …とうとう、狂ったか?
 足元から這い上がってくる震えを無視し、僕はそう止まりかけた頭を動かせた。白昼夢を見せるほどイカレてしまったのかと、自分の目を疑い、瞼を閉ざす。
 驚きのあまりに聴覚さえもおかしくなった体が落ち着き正常になるのをそのままで待ち、僕は街のざわめきが耳に入ってきた事を確認し、目を開けた。
 だが。
 深く息を吐き出しながら開いた視界に、街の雑路が正確に飛び込んでくる。味気ないビルの谷間を進む道路を、様々な車が走っている。その側を、似たような格好をした沢山の人々が信号を待っている、歩道を歩いている。そして――。
 やはり、先程と同じように、そこにあの男の姿があった。
 向かいの歩道を歩くダークスーツの一段の中に、筑波直純の姿が。

 死んだはずの男が、道の向こうに居た。

2003/11/30
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