# 145

 ビジネスマンらしからぬ雰囲気を纏っているのだろうか、信号待ちをする幾人かが、その者達を避けるように移動する。それを気にした様子もなく進む男達の中にいる彼の姿は、僕の傍にいた時と何ら変わらないものだった。まるで、一年前に戻ったかのような錯覚を僕は覚える。ただ、街で偶然見かけたかのような、あの訃報は聞いていないかのような、あり得ない感覚が沸き起こる。
 だが、そんなはずがない。
 幻だ。
 ただ生きていると思いたいだけだろうと、頭は判断を下す。この街に来て昔を懐かしんだのではないかと、目の前にいるなどあり得ない事だろうと、否定する。
 だが、心はそれに頷かなかった。
 僕は、彼の死顔を見た訳ではない。死んだ事を、確認した訳ではない。
 突如幻を見るほど、狂ってしまうほど、男を切望していた訳でもないだろう。目の前に、筑波直純がいる。それが、事実じゃないのか。そうだろう…?
 自分の目を疑うか、頭を疑うか。
 いや、疑う事など何ひとつない。自分は正常だ、あそこにいるのは、あの男だ。それが、少なくとも僕の現実だろう。それだけで充分じゃないか!
 無意識に踏み出していた一歩は、次の瞬間には明確な意思を持って体を動かせる。男は直ぐそこにいるのだ。今、呼び止めなければ――
「――危ないですよ!」
 不意に強い力で腕を引かれ、前に進んだ以上に、僕は後ろへとさがった。誰かの体と軽くぶつかる。
「信号、まだ変わっていませんよ」
 春らしくないグレーのコートを着た男がそう言いながら、視線を向けた僕に顎で信号を示した。促されるように再び前に向けた僕の目が、男が言う赤い光りをとらえる。そして。
 車道を挟んだ向かいの歩道からは、先程まで追っていた男の姿が消えていた。
 全身から、一気に力が抜ける。
 極度に緊張していたのだろうか、腋の下から流れた汗が腕を伝う感触をリアルに感じた。軽く腕を動かせ、シャツでそれを拭いながら、振るえる息を吐く。
 やはり幻だったのだろうかと一瞬呆けかけ、けれども、胸に吊るした鍵の感触で僕はそれを吹き飛ばした。そんな事はないと縋るように辺りを見回す。
 奇跡と言うようなタイミングで、交差点から数メートル離れた場所に立つビルに、黒いスーツ姿の男が入っていくのをとらえる。あの男ではない。だが、その後ろ姿はあの一団にいた者のように、どこか一般人とは違う空気を持っているようにも思えた。
 あそこに入ったのかもしれない。
 疑問は、頭で言葉にした瞬間、根拠のない確信を僕に与えた。絶対にそうだと、それ以外にはあり得ないと、その思いが僕を突き動かす。その気迫を感じたかのように、丁度変わった青信号に、僕は周りから一歩飛び出す形で横断歩道に足を踏み入れた。向かい側から歩いてくる人々の間をすり抜け、無我夢中で男が消えた建物に向かう。
 あの中に、筑波直純がいる。
 何故かと、そんな事はどうでも良かった。四谷クロウに騙されたらしいと漸く思いついたそれも、感情を向けるものではなかった。あの男が追いつける場所にいる。それが、僕に与えられた全てだった。
 あの日、別れを告げられた時は、踏み出すのが遅かった。追いかけるのが遅すぎて、男を見つける事が出来なかった。途中でそれを諦めた。だが、今は。
 今は、駆け出した足を止める事など出来はしない。男に辿り着くまでは、絶対に。
 その思いだけで他には考えられず、勢い良く小さなビルに僕は飛び込む。
 直ぐ目の前に、ガラスの扉があった。だが、一階は使われていないのだろうか、立ち入り禁止の汚れた看板が掛けられており、扉には鍵がかかっている。拍子抜けをくらい立ち止まったのも数瞬で、上がった息を整える間も作らずに、僕は側の階段を上がった。
 上には確実に人がいるのだろう。何段も足を運ばないうちに、僕の耳が音を拾う。走りこんできた勢いが嘘のように、今更ながら僕は緊張を覚えた。だが、戻る気はない。このまま確認もせずに出て行けるわけがないと、上の様子を窺いながら階段を上る。
 戸惑っても迷ってもいられはしないのだ。今、動かなくてどうするのだと、僕の全てが訴える。再び後悔をしたいのかと。

「何だ、お前は」
 二階に上がったところで、声が降ってきた。地味なスーツを着ているが、明らかにその筋のものだろう男が、僕に気付き奥から歩いてくる。
 近付いてくるその男の背中と横に扉があり、それぞれ部屋の中から微かな音が漏れていた。この階に人がいる事は間違いないのだと小さな安堵を覚えながら、僕は向かってくる男を意識しながらも、更に上の階の様子を探ろうと集中してみる。だが、良くわからない。
 外から見た限りでは、四階建ての小さなビルだった。この階同様、上にも二部屋ずつあるのだろう。そこにも、人がいるのかもしれないし、いないのかもしれない。だが、いずれかにあの男が、筑波直純がいるのは絶対だ。
「組の者じゃないな。さっさと出て行け」
 片っ端から飛び込むか。それとも、他に方法はあるだろうか。
 既に見付かっているのだから、悠長に中を窺っているわけにはいかない。摘み出されるのがオチだ。大きな声をあげてあの男を呼び出す事も、僕には出来ない。ならば、やはり突っ走るのみだろう。
 ただ迷い込んだだけだと思い込んでいるらしい男が、僕を追い出そうと側までやって来るのを見ながら、どうすればこの男をかわせるだろうかと冷静な部分で考える。体は、極度に緊張していて、どれだけ動けるのか怪しいものだ。何より、面倒そうな表情をしながらも強い視線を外しはしないこの男の横を通り抜けるなど、持ちえる力を発揮し尽くしたところで無理だろう。
 早くしなければと、心が焦る。だが、方法は見付からない。
「おいっ、聞こえないのか、お前ッ!」
 苛立たしげに、男が声を大きくした。その声に突き動かされるかのように、僕はそれまでの思考を捨て去り、気付けば足を前へと向けていた。
 ぶつかるような勢いで男の横をすり抜けようとしたが、やはり捕まってしまう。右腕に痛みが走り、同時に足を払われた。このまま転べば手首を痛めてしまうと、妙に冷静な判断を下したが、全く効果はない。体勢を整える事など不可能であり、僕は痛みを覚悟し体を強張らせた。
 だが、衝撃は予想以上に軽いものだった。
 いや、そうではなく誰かに背中を受け止められたのだと気付いたのは、低い声を耳に入れた後だった。
「気をつけて下さい。この箱の中身はお教えしたでしょう。数百万の弁償が大した事ではないのなら、構いませんけれど」
「そう怒るな。こいつが行き成り突っ込んできたからだなぁ」
「誰ですか」
 僕の手を離しながら説明をしようとした男の言葉を遮り、感情の読めない声を出した人物は、抱えていた僕の体を床へと落とした。軽い衝撃に力を入れた体が、再び左手を捕まれ押さえ込まれる。
「その様子からして、招かれざる客ですね」
「ああ、俺は知らない。どうやらそっちもそのようだが。オイ、お前、何者だ」
 腕を引かれ立ち上がらされた僕に、男が顔を近づけながら聞いてきた。その視線を避けるように僕は横を向き、新たに現れ僕を拘束した男を振り返る。
 驚いた事に、後ろに立っていたのは、何度か顔を合わせた事のある福島氏だった。
 だが、しかし。僕を見返すその目に、何の感情もなかった。僕の事など覚えていないのかもしれないと、その可能性をそこにみる。
「痛い目を見たくなければ素直に喋れよ、兄さん」
「待って下さい。今ここでそんな事はナシですよ、小畑さん。
 誰かは知らないが、大人しくしていろ。暴れるなり叫ぶなりするのであれば、こちらも手段は選ばない」
 捕まえられた腕を外そうともがきかけた僕に、福島氏の低い声が落ちる。そこには一切余計な色はなく、言葉の全てが事実である事を示していた。
「おい。だが、このままという訳にもいかないだろう」
 体を硬くした僕の髪を男が掴む。
「待たせている者のところへでも連れて行きます。ここに置いておくよりはいいでしょう。数日前まで、この上で悪さをしている連中がいましてね。ああ、もちろん組の者ではありません、無知な学生達です。この彼も、多分その関係でしょう。もし、そちらに関係する時は、お引渡しします。とりあえずは、それで今は通して下さい」
 福島氏は淡々と男に言いながら、僕を促し歩き出した。
「確かに、今は騒げないからそれでもいいが。関係なくとも、報告は入れろよ」
「勿論です。それでは、少し外させて頂きますので、よろしくお願いします」
 抵抗らしい抵抗も出来ずに、僕はビルの外へと連れ出される。

「至急こっちに来てくれ。いや、そのままでいい、走って来い。――暴れても無駄ですよ」
 どこかに連絡をとった福島氏が、片手で器用に携帯電話をスーツの内ポケットにしまいながらそう言った。そして。「あなたの行動はわからなくはないですが、こちらの事情も察して下さいよ、保志さん」と、人ごみの中、さらに声を押さえて僕にそう囁きかける。
 驚いたのは一瞬で、自分を忘れたわけではないらしい男に僕は視線を向けた。
 あの男は、筑波直純は生きているのかと、その目に問い掛ける。あのビルに居るのかと。
 福島氏の答えは、簡潔なものだった。
「筑波は確かに居ます。偶然見かけ、追いかけて来たんですか? だが、あまりそれは賢くはない。歓迎も出来ない。とりあえず、今はこのまま引いて下さい。どのみち、あの場でまともに筑波と対面する事は不可能ですからね。今、岡山を呼んだので、彼と居て下さい。直ぐに来ますから。くれぐれも、勝手な真似はしないで下さいよ。こちらも、手荒な真似はしたくはないので。筑波には、私の方から必ず話しておきますから」
 正確に僕の意思を汲み取ったらしい男は、けれどもそれを特別に思う事もせずに話を進める。本当に走ってやって来た岡山に僕の見張りを頼むと、僕にはわからない会話を少し交わし、福島氏は急ぐように出てきたビルへと戻っていった。
 全くわかりはしないが、何か面倒な事をしているのだろう。僕は彼に助けられたのかもしれないと、漸く気付く。だが、感謝する気には到底なれはしなかった。
「行くぞ、おい」
 去って行く福島氏の後ろ姿を眺める僕の腕を、久し振りに会った感慨など見せずに、岡山が強く引く。促されるままに数歩前へと進み、僕は足を止めた。
 筑波直純が、生きている。
 振り返り、追い出されたビルを見る。戻っても、福島氏の言うとおり、同じ結果となるのだろう。だが、今直ぐにあの男の存在をもっとはっきりと確かめたい衝動が、僕の中で湧き上がる。一分、一秒も待てない。直ぐに会いたいと、水を見た途端に喉の渇きを覚えたかのように、あの男に飢えていた自分に気付く。
 だが、それも。何故だと疑問を持てば、萎ませるしかない思いでもある。
 日本に、東京に帰ってきていた。だが、僕にそれを教えはしなかった。会いはしなかった。それが、あの男の答えなのではないだろうか。
 筑波直純にとって、僕は別れた相手でしかないのだろう。僕のこの誤解も、態々訂正するものではなかったのだろう。彼にすれば、あの冬の日に、僕との事は全て終わっていたのだろう。関係など、もう何ひとつ残っていなかったのだろう。だからこそ、僕は今、こんな風にひとり取り残されているのではないか。
 直ぐ近くの、あのビルに、筑波直純がいる。それは確かなのだろうが、今は、生存を知る前よりも、訃報を聞かされた時よりも、その存在をとても遠くに感じた。
 事態に、ついていけないのだろう。心が、追いつけないのだろう。
 あの男が生きている事が、嬉しいのかどうなのかもわからないくらいに、僕は戸惑っている。おかしな程に、自分が何を思えばいいのかすら、わからない。
 呆然と立ち尽くした僕を、岡山が肘を掴み歩かせる。少し離れた場所に停められていた車に押し込まれ、僕はそこで漸く、自分の手が微かに震えていることに気付いた。だが、それが何故なのか、わからない。
 運転席に乗り込んだ岡山が、「お前、戻ってきたのか?」と声を掛けてきた。
「大阪で働いていただろう、辞めたのか?」
 何故知っているのだろうかと思いながらも、問い掛ける気にもなれずにただ首を横に振る。そうか、と答えたその声に、彼がこちらを見ているのだろう事はわかったが、顔をあげる気にもなれなかった。
「休みか。なら、また戻るんだな。上手くやっているんだな、良かったじゃないか。ああ、そういえば。お前、モデルをやっていただろう。前に雑誌で見て驚いた、笑ったぜ」
 岡山の声が、車内に響く。僕は握り合わせた両手を見つめながら、その音を耳に流した。

 夢だ。
 これは単なる夢なんだ。
 そう言ってくれる第三者の出現を願うが、そんな馬鹿な思いは自らにも受け入れられないようで、直ぐに消えていく。
 手持ち無沙汰のように、ポツポツと声をかけてくる岡山を頭に入れながらも、僕は自分の中に沈みこんだ。

 それ程までに、とても疲れていた。

2003/11/30
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