# 146

 一年前、四谷クロウに告げられた訃報を、自分なりに消化してきた僕は一体何だったのだろうか。一体、僕が選んで来たものは何だったのだろうか。裏切られたと思いはしないが、それに似た感情が胸の中に現れる。自分が馬鹿だったのだろうが、それとこれとは話が別だろう。
 体よりも、心を襲う疲労感に、色んな思いが次から次へと浮かんでいく。沈み込んだ自身の中にあるのは、戸惑いよりも何よりも、どうしようもない遣る瀬無さだった。
 僕は、こんな仕打ちを受けなければならないほどの過ちを犯したのか。男は、それ程までに、本心では僕を憎んでいたというのだろうか。だから、こんな制裁を与えたのか。
 握り締めた手に額を押し付け、考える。
 筑波直純が四谷クロウと交流を絶ったとは思えない。ならば、僕が誤解をしている事は知っていたと考えるべきなのだろう。そしてこの結果というのは、やはり、騙されていたとしか言えないものだ。たとえ、単なる冗談だと本人がどれほど訴えようと、冗談になり得るはずもなく、また僕が知る男はそんな事をする人間ではない。ならば、もう関係ないと、僕は誤解をしていれば良いと、彼は考えたのだろう。
 それ以外に、この結果が示すものはない。

「――来た。お前はそのまま大人しくしていろよ。絶対に外には出るな」
 岡山の声が降ってきたかと思うと、直ぐに彼は車から出て行った。来たとは、筑波直純の事なのだろう。男がここに、やってくる。それを実感した途端、僕は肌が粟立つほどの恐怖を感じた。
 つい先程は、必死に男の後を追い、今直ぐ会いたいと渇望していたと言うのに、今はそれが怖かった。男は僕と会いたくないのではないかと、それを必要としていないのではないかという考えに、逃げ出したくもなる。
 そう。僕とて、生きているのがわかっただけでいいのではないか。会って、何を言うつもりだ。今更、あの時言えなかった言葉を言っても何の意味もないだろう。笑顔を向ける関係では、もうないのだろう。何を期待していたのかと、勘違いしていたのかと自分が詰り、ここから離れろと正常な思考がそれを促す。
 だが、体は固まってしまったかのように動かなかった。
 馬鹿でも、何でもいい。蔑まれようと、罵られようと構わない。笑われようと、呆れられようと、それこそ男を不快にさせる事だったとしても困らせる事だったとしても、それでも彼に会いたいのだと心が叫ぶ。
 もう一度だけでもいい。これが最後でもいいから、男は確かに生きているのだともっと実感したい。何も願えなくなるほどに全てを綺麗さっぱり失うとしても、僕はやはり、筑波直純に生きていて欲しいし、それを知っておきたいと思う。この思いは、譲れないものだ。
 多分、あの男でなくて、僕はこう思うだろう。それが、当然だろう。同じように生きている人が死ぬのは、誰だって嬉しくはないはずだ。それは僕とて同じで、たとえ単なる知り合い程度の人間でも、死んだと教えられていたものが実は生きていたのだとしたら、戸惑いはするが喜ばしい事であるはずだ。
 自己満足だと言われようとも、僕はこれを間違っているとは思えない。正しいかどうかはわからずとも、少なくとも人間としては正常な思いであるはずだ。
 だから、今。僕がここで引く必要はないのだと、震える心に教え込む。
 それでも。やはり、ガチャリと後部座席のドアが開き人が乗り込んでくる気配に、僕は体を一瞬強張らせた。一度目を閉じ、ゆっくりと息を吸う。
 運転席と助手席にも人が座る音を耳でとらえ、一拍の間を置いてゆっくりと目を開ける。
 自分でも単純ではないかと思うほどに、僕の中から迷いが消えた。腹をくくったと言うよりも、隣から感じるその気配に、意気込みや不安が消え去り、ただ懐かしさを抱く。
 顔をあげ振り向くと、筑波直純がそこにいた。
 表情は硬く、視線は僕から外れている。けれども、確かに傍にいる。とても近くに。
「福島、何か書くものを」
 久し振りに聞いたその声は、少し低く掠れていた。
 助手席に座った福島氏から受け取ったレポート用紙とボールペンを僕に差し出し、男は溜息のような息を吐く。
「…久し振りだな、保志」
 僕の手が差し出されたものを受け取るのを見届け、男はゆっくりと視線を上げた。漸く、僕と目を合わせる。灰色の目に、僕の姿が映っていた。
 間近で見た筑波直純は、確かに流れた短くはない月日を教えてくる。それが悲しいと言うわけではないが、何となく見難くて、今度は僕が視線を外した。だが。手の中のペンを握りながら、けれども外した視線に不安を覚え再び男を見る。
 老けたと言う訳ではないが、年を刻んだかのように、男は重みのある雰囲気を纏っていた。貫禄が付いたとでも言うのだろうか、深みがある。髪を後ろに流した額に、2センチほどの傷跡があった。最近のものではないのだろうそれは、けれども浅い切り傷であったようには思えず、未だどこか痛々しい。初めて見るからだろうか、端整な顔立ちの男には似合わないものだった。
 不意に動き始めた車の振動に、互いの間に落ちた奇妙な静寂が消えていく。
 チラリと前に走らせた視線は、表通りに出ようとする車の動きを捉えた。
「時間は、あるのか?」
 大丈夫だと、硬い声で問われる質問に頷き返し、僕はペンを走らせる。
【僕は、四谷氏にだまされたんですか? それとも、あなたに?】
 気の効いた事はひとつも思い浮かばず、またそんな言葉を交わす雰囲気でもない空気に、内心ではもうどうでもいい事だろうと思いながらも、このまま終わりにして別れるのも嫌で、そんな文字を記してみた。だが書くと同時に、自分はそうではないのだと否定されたがっている事に気付く。
 甘い期待を抱いているかのような自分に、嫌気がさした。いい加減、現実と言うものを理解すべきだろうと、それを受け止めるべきだろうと頭の半分ではそんな判断をしている。だが、それでも、この真相を男に訊ねてみたかった。自分でも女々しい奴だと、そう思いながらも。
【あなたは死んだのだと、僕は聞かされていた】
 それを知っているかと問う僕に、男は顔を顰めながら長い息を吐いた。
「俺が日本に戻って来たのは年末だが、それまであいつも俺が生きているとは知らなかった。だから、別にお前をだましたわけじゃない。お前も同じように俺が死んだと思っていると言う事も、その時に奴から聞いた。だが、俺はその誤解を解く気にはなれなかった。騙そうと思った訳じゃない。だが、結果的にお前がそう感じるのなら、それは俺のせいだ。クロウは関係ない」
 一言一言噛み締めながら、友人を庇うようにそう言った男に、僕はそれは何故なのかと当然の問いを放つ。
 騙すつもりはなく、誤解が生じているのを知っていたのなら、一言でも告げるべきではないのか。そんな考えすら、もう僕には持たなかったと言う事なのか。
 僕のその問いに対し、男は頷くように視線を自分の手元に落としながら、「知らせる必要はないと思った。だから、お前には言わなかった」と答えを返した。
「お前がそれを聞いたのは、去年の春だろう。半年以上も経って、実は生きているんだと、新たな生活を始めたお前に教える事など俺には出来なかったし、したくはなかった。お前と、生きていて良かったと和みあう事など、どう考えても出来はしない。会ったところで、気まずくなるだけだろう。確かに後味の悪い思いをさせただろうが、それが薄れて当然の月日が立っているんだ、今更顔を出したところでまた嫌な気にさせるだけじゃないか。ならば、このままでいいだろう。会わない方がいいに決まっている。俺はそう考えた。自分勝手な事だと言われても、それ以外には出来なかった。まさかこうして偶然に会う事など、考えても見なかった…」
 こんな再会があるのがわかっていたのなら、不快な思いをさせないようにしていた。だが、今はもう、何を言っても遅いのだろう。
 済まないと、だが、決して騙してやろうとしたわけでもないのだと男が続けた言葉は、けれども僕にはいい訳のようにしか聞こえなかった。
 これならばいっその事、お前に知らせる義務はないと、そんな関係ではないではないかと、はっきりと詰ってくれた方がマシだと言うものだ。こんな風に、気まずさからそれらしい言葉を捜すように言われるなど、堪らない。
 握り締めた手が僅かに振るえ、紙の上にインクの波を描いた。
 車が信号で止まり、動き始めるまでの間、何とも言えない沈黙が落ちる。
「クロウに聞いたように、俺が事故に遭ったのは事実だ。奇跡的に助かった。後遺症もあまりない。こっちに帰って来てからも、俺は相変わらず、バタバタ忙しく仕事をしているが、――お前は、どうなんだ。仕事は、楽しいか? どんな店なんだ?」
 同じ日本だが、東と西では違いもあるだろう。大阪はお前にとって住み易い場所なのかと、男は幾分か軽くなった声で僕の近況を聞いてきた。その声を奥歯で噛み砕き、握り締めた手を湧き上がる苛立ちのままシートに叩きつける。
 何が、新しい生活だ。
 ふざけるなと、世間話に流そうとした先の男の言葉に僕は噛みつく。
 何が嫌な気にさせるだ。
 そんな言葉で僕を納得させられると思っているのかと、男を睨みつける。
「保志…」
 僕の突然の行動に、少し驚いたように、けれども眉間に皺を刻んだ男に言葉を投げる。
【あなたが僕に教えなかったのは、僕のせいだというのか?】
 確かに、環境を変え、新たな生活だと自分でも思っていた。だが、それがどうしたと言うのだ。生活に新しいも古いもないとは言わないが、それを決めるのは僕であって、男が口にする事ではないはずだ。
 誰かが死んでも生き続けるのが普通だろう、当然の事だろう。それを、過去と全て決別したかのように言われるなど腹立たしい限りだと、僕はその思いを男にぶつける。
【東京を離れたからと、大阪で仕事をしているからなんだというんだ】
 その死に嘆いていれば良かったというのか。全てを遮断していれば、死んだかのように生きていれば満足したのか。そうしていたのなら、日本に戻ってきて直ぐに僕を訪ねたとでも言うのか。僕にそれを望んでいたとでも言うのか!
【何もせずにその者の帰りを待っていなければ、人はその存在を教えてもらえないのか。 そんなに、人間はバラバラなのか】
 その訃報を耳にしてからも、極々普通に生きてきた奴など沢山いるだろう。前に座っている二人もそうだろうし、四谷クロウもそうではないか。男が言う新しい生活を彼らもしていたのだろうに、彼らは生存を知っている。僕は知らなかったのに、だ。
 僕とて、彼らと自分が同じ立場にいるわけではないとわかっている。彼らと違う答えを出されたことに怒っているわけでもない。だが、それでも。
 僕がその訃報を聞いていると知っていたのならば、必要でなくとも、出来なくとも、知らせるべきではないのか。普通はそうだろう。
 それをしなかったという事が意味するのは、やはり、ただ男が僕を切っただけだというものでしかない。気まずい思いをさせるだとか、嫌な気分にさせるだとか、会わない方が良いのだという言葉は、単なるこの場の言い訳だろう。いや、この男ならば、優しさであるのかもしれない。そう。こんな言葉で誤魔化そうとするのは、僕への感情が少しは残っていると考えられもするのだろう。気を使ってくれているのだとも思えなくはない。
 だが、僕は、それを納得したくはない。
 我慢が出来ないのだと、僕はペンを握る手に力を入れる。
 それでも。

 鈍い痛みは、怒りを押さえはしない。

2003/11/30
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