# 148

 夜までには戻ると言い、男は僕をマンションの前で車から降ろすと、そのまま出掛けて行った。
 教えられた部屋に、預かった鍵を使って入る。あの男の部屋とは言え、全く知らないところに入り込むのは、少し緊張を覚えた。だが、リビングのテーブルに鍵を置き、中央に立ち部屋をひと回り眺めると、直ぐにそれも解ける。
 殺風景と言えそうなほどすっきりとした空間には、僕が覚えている男の匂いと同じものがあった。その懐かしさに、苦笑が漏れる。
 ドアではなく、衝立で仕切られた奥のスペースは寝室として使っているのだろう。少し乱れたベッドを見つけ、僕はそこに腰を降ろした。はしたないと思いつつも、そのまま倒れこむようにして横になる。軋んだスプリングは、けれども耳に心地良いものだった。
 首からさげた紐を引き、鍵を服の中から取り出す。
 心を開けられたのは、僕だけではなく、筑波直純も同じなのかもしれない。
 僕は無意識の内に、彼への想いを心の奥に閉じ込め、確りと鍵をかけていたのだろう。とても大切なものだと、失いたくはないものだと、自分が意識する以上に心はそう感じ取っていたのかもしれない。時と共に薄れていく事を避け、その気持ちをそのままに閉じ込めた。だが、まさか。それがこんな風に役立つ時がくるとは。
 小さな銀色の鍵を片手で握り締め、僕は肩を揺らせる。僕という人間は自分自身が思うよりも、しぶとい人間であるのかもしれない。それとも、人間と言う生き物はこんな風に往生際が悪いものなのだろうか。
 そんな考えは、けれども今はどうでも良く、この手に入れた現実を僕は噛み締める。
 筑波直純は、生きている。
 名前は呼べなくとも、笑顔を向ける事が出来る程に、あの男は近くにいる。
 そして、僕は。あの灰色の目に自分の姿を映す事が出来るのだ。
 数時間前とはまるで違ってしまったかのような自分を自覚し、呆れればいいのか笑えばいいのかはわからずに、僕はそのまま優しい温もりに目を閉じた。

「――消えたのかと、都合のいい夢だったのかと焦ったぞ」
 頭に触れてくる何かに気付き覚醒を促すと、耳にそんな声が飛び込んできた。苦笑交じりのそれに目を開けると、今帰って来たばかりなのだろうか、スーツ姿のままで筑波直純がベッドに腰掛けていた。
 男が言ったように、本当に夢のようだ。やはり、つい先ほどまで死んだと思っていた人物がこうして目の前に居るのは、奇妙な感じだ。
 だが、これが現実。
「これは、俺がやった部屋の鍵か?」
 僕の首からさがるそれに気付き、触れていた頭から手を外した男は、今度は銀色の鍵を片手で弄ぶ。お守りだと軽口のように口元を上げながら応えると、「こんなもので効果はあるのか?」と呆れるように肩を竦めてきた。
 そんな男の手から鍵を奪い、僕は体を起こし服の中にそれを仕舞う。お守りなど、気分的なものでしかない。ならば、僕にはこれで充分だろう。これ以上のものはないだろう。
 大事なものだと言うように、服の上から胸の鍵に掌を当てて僕が笑うと、筑波直純は少し困ったような笑みを落とした。
「俺がお前にやったのは、そんなものだけだったんだな。お前がそれを未だに持っているなんて、大切にしているなんて考えてもみなかったな、俺は。薄情者だな、本当に」
 思いも寄らない自嘲的なその科白に、僕は目を向く。別に、何かを欲しかった訳ではない。たまたま、それがあったから、こうして持っていただけだ。正直、偶然に見つけるまでその存在を忘れていたのだ、僕は。男が薄情者だという事はないだろう。
 何を言っているのかと少し呆れる僕に、けれども男は鍵だけの事をさしているのではなかったのだろう、そのまま言葉を続けた。
「会いたいと、思っていた。そう焦がれているのは自分だけなのだろうと、信じ切っていた。そんな自分に、少し酔っていたのかもしれないな、今にして思えば。お前を想っても、お前の事をどこまで考えていたのか、怪しいものだ。お前の言うとおり、俺は勝手な事ばかり考えていたんだな」
 済まなかったと目を伏せる男に、僕は短い溜息を落とす。
 確かに僕は怒ったが、男が謝る必要などないのだ。そして、多分僕も、謝る必要はないだろう。僕達は、傲慢な考えでそれを選んだわけではなく、たとえ馬鹿だったとしても、良いと思ってしていた事だろう。ならば、噛合わなかったからといって、どちらかが謝罪をする必要はないはずだ。
 自分の膝に乗せた男の手を叩くように、僕は自らの手をその上に重ね、軽く揺する。気にしなくていいのだと、その手を握り締める。
 間違っていただとか、正しかっただとかではなく。僕が、あなたがそう思ったという事を知られれば、それで充分なのだ。それ以上の事は、ないのだ。だから、謝る必要はない。
 言葉にはしないその思いが伝わったのかどうなのか、男が手を反し、指を絡めてきた。僕はもうこれだけで満足だと、未だ硬い表情をする男に向かって、口の端を上げる。ニヤリと笑った僕に、筑波直純は苦笑を落とした。
「何だか、慰められているみたいだな」
 お前は会わないうちに凄く大人になったみたいだ、と軽口を言う。だが、そうだろうか。僕は大人にはなっていないだろう。むしろ、その逆だ。多分。
 そう考える僕の短い髪を梳き、筑波直純は少し僕を引き寄せた。僕はそのまま、彼に体重を預ける。
 部屋よりも、ベッドよりもずっと濃い、男の匂いが僕の中に染み渡ってきた。満足感に視線を伏せた僕に、ゆっくりと男が言葉をかけてくる。
「なあ、保志。俺が最後に会った時に言った事を覚えているか? あれは、半分以上が見栄だと自分でもわかりながら言った言葉だ。お前を守る自信などなくても、心ではお前を連れて何処かへ行きたいと思っていた。本気で死を目の前に考えていたわけじゃないが、このまま組にいればそうなる可能性は高かい事がわかっていたからな。それなら、お前と一緒にと思った。だが、それが出来なかったのは、お前の事を考えたのも確かだが、それ以上に意地があったんだろう。馬鹿なプライドだったと、今は思う。けれど、後悔はしなかった。見栄を張っていても、嘘ではなかったからな。本心だった。好きな女と子供を持って幸せになれと言ったのも、そうだ。自分の気持ちとしては辛くもあったが、それはそれでいいと、お前にとっては絶対にいい事だと心から思っていた。だから、言えたんだ。大人しく聞いているお前を見るのは、少々辛かったがな」
 別に大人しく聞いていたわけではなく、ただ反応出来なかったのだと、そう答えを返そうかと考えた僕の一瞬を付くように、男は爆弾を落としてきた。
「だが、そんな風に俺が必死で言った言葉を聞いて、あいつは笑い飛ばした。お前はそんな事を願ってはいないと、はっきりと言い切ったよ、佐久間は」
 突然その口から零れた意外な言葉に、僕は一体どんな顔をしたのか。
 体を起こし、まじまじとその顔を見た僕を笑いながら、「向こうで会ったんだ。あいつは世界中をウロウロしているようだな」と男は簡単な説明をした。
 佐久間さんが、筑波直純と会っていた。それはそれで、彼らしいと言えるが、何だか少し釈然としない。そう頻繁にではなく思い出したようにメールを交わすだけだが、それでも僕がこの男を死んだと思っていた事は彼も知っていたのだ。教えなかったのは、悪戯か…?
 いつものそれにしては、けれども性質が悪過ぎる。
 不満げな顔をしたのだろうか、そう考えた僕に、自分があいつに口止めをしたのだと筑波直純は言った。あまり良くわからないが、詳しく話す気はなさそうな男に肩を竦め、話を元に戻す。彼らの関係が悪くはないようなら、それでいい。
「あいつは、俺が思う幸せと、お前が考える幸せは同じじゃないと言った。確かにそうだろう。だが、正直あいつに言われるのは腹が立ったな。お前はそういうのは別に望んでいないだろうと言うあいつに、ならば何があいつにとって幸せなのかお前は知っているのか、そう俺は訊いた。なら、知るわけがないとあいつはしれっと応えた。そして、な。お前の考える幸せはわからないが、お前には少し強引なくらいの相手が必要だろうと俺に教えてきたんだ。聞き分けはない自分を根気良く引っ張ってくれる、そんな人間がお前には必要だとな。そして、俺もそうしてみればいいのだとからかいにきた。嫌な顔をされても、手綱をとってみろと。
 正直、俺には無理だと思った。自分が出来るか出来ないかではなく、俺はそんな事を試せる環境にいない。お前にはそんな人間が本当に必要なのだとしても、それは俺ではないだろう。友人だろうと恋人だろうと、まともな人間を見つければいい。あえて俺みたいなリスクを選ぶ事はない。そうだろう? 確かに、佐久間の言葉は正しいのかもしれないと思ったが、それを俺が出来るとは到底思えなかった。
 だが。なあ、保志。
 お前が俺を好きだと言ってくれたその言葉に、俺は自惚れていいだろうか。お前を守り引っ張っていけるほど力はないのだろうが、その道を選んでいいか? 俺は、お前と一緒にいたい。後悔させる事の方が多いだろうが、その人生を俺に預けてくれないか?」
 真剣な顔で言った男に、僕は眉を寄せる。

 冗談じゃない。

2003/11/30
Novel  Title  Back  Next