恋人

1

「それでは三上さん、社長を頼みます」
 高くなった太陽の光が入り込む部屋で、吉井は自分より30センチは低いだろう三上に頭を下げた。
「はい、頑張ります」
 握り拳を作ってそう意気込む彼女に「お願いします」ともう一度軽く頭を下げ、吉井は鞄を持ち部屋を出た。
 扉を閉める前に中から「遅れたら減給だからな!」と声が上がる。吉井は閉めかけていた扉を開き、三上と顔をあわせて苦笑した。声の主は部屋の奥にある扉の向こうで煙草を吸いながら先程渡した書類に目を通しているのだろう。
 そんな雇い主に苦笑しながらもその扉に向かって頭を下げ、今度こそ吉井は部屋を後にした。


 今日は吉井にとって何よりも大切な日であった。恋人の誕生日なのだ。三十をとっくに過ぎた大の男が、恋人の誕生日に心を躍らせるのもどうかと自分自身思うのだが、この日を楽しみにしていたのは紛れも無い事実だ。
 だが、それも数日前までのこと。
 今日は何が何でも仕事は定時に切り上げ、恋人と二人で過ごそうと考えていたと言うのに…。サラリーマンの悲しい所か、出張でアメリカまで行かなければならなくなったのだ。
 社長の第一秘書と立場にいる彼にとってはこういうことは珍しくない。だが、さすがに今回ばかりは悪態の一つでもついてしまいたくなるというものだ。秘書の三上も同行するので、確かに吉井がいなければ困ることもあるだろうが問題は殆ど無い。何より社長自身が行くので、極端なことを言えば仕事は彼一人で事足りるのだ。
 だが、この社長と言うのが問題だった。
 自己中心的というか何というか。はっきり言ってしまえば、子供なのだ。気に入らないことは絶対にせず、仕事へのやる気なんてゲーム感覚でしかない。
 それなのに上手く事が運ぶのは、彼を支える周りの者達のお陰でもあるが、彼自身が人を惹きつける力を持っているからだろう。
 そんな社長のお気に入りは誰が見ても第一秘書の吉井である。今回の出張も吉井が同行すると言わなければ、絶対に面倒だといって頷かなかったのだろう。それがわかっているからこそ、吉井はどうしても仕事を優先しなければならない立場にあった。
 自分の腕に何百人もの社員の人生がかかっている。そう大層に思っているわけではないが、だがやはり常にその思いは何処かに持っていた。社員の事を全く考えていないわけではないが、若い社長にはやはりその思いは薄いといえるのだから、それは仕方が無いことなのかもしれない。
 それを苦しいとは思わない。遣り甲斐のある仕事だし、その緊張感が頑張れる要素でもある。飄々としている自分より年下の社長だが、とても魅力を持った青年で、彼の下で働けるのが素直に楽しいと感じる。
 だが、時には溜息を吐きたくなることもあるのも事実だった。
 恋人の言葉ではないけれど、自分自身仕事に捕まりすぎていると思う。自由になる時間が少ないことはもう諦めたが、恋人と過ごす時間がないのはかなり堪える。特に約束をキャンセルすることになると、自分は恋をするには向かないのだと悩んでしまう。
 仕事を優先する吉井を恋人は責めはしないが、呆れてはいるのだろう。プライベートと仕事の時間をはっきり別けられない自分を情けないと思いつつも、何処かで仕方がないのだと諦めてしまっている。
 妥協しているわけでも優先順位があるわけでもなく、吉井にとっては、仕事も恋人のことも別次元の問題で、それぞれが何にも変えがたいくらいに大切なのだ。だが、吉井の中では別次元として扱っていても、実際に存在するのはこの世界で、それは屁理屈としかいわない。
(わかっていて何も出来ないのは、わかっていないのと同じだ…)
 結局今回も、恋人と彼の誕生日を一緒に過ごすのを断念し、仕事を選んだ。サラリーマンならそれは当然のことなのかもしれないが、そんな言葉では自分を慰められないほどに吉井は落ち込んでいた。
 会えないとわかった時は、それまでにプレゼントだけでも渡そうと思った。だが、普段から仕事で擦れ違いが多いことに加え、吉井の出張の準備やら何やらと忙しく、結局会うことが出来なかった。
 気付けば当日になっており、仕事の手を動かしながらも吉井は知らず知らずに溜息を付いていた。
 そんな吉井に、三上が「どうしたんですか、お疲れのようですね」と声をかけた。
「それ、誰かへのプレゼントですか?」
「あ…」
「朝からそればかりに目が行っていますよ」
 デスクの上に置いた包みを指さしながらそうからかわれ、吉井は少し顔を赤らめた。
「あぁ、…すみません」
 社内でも評判の男の可愛い仕草に、三上は苦笑を漏らす。
「少し休憩にしましょうか。コーヒーでいいですか?」
「お願いします」
 そう言いつつも、また吉井はまた視線を包みに戻す。
 どうにかして会えないかと考えていたので、郵送することも言付けることも無く、結局自分の手の中でこの日を迎えてしまった恋人へのプレゼント。黒に銀の小さな模様が描かれた包装紙で包まれた、掌大の長方形の贈り物を吉井は手に取り、再び溜息を落とした。
 ちょうどコーヒーを机に置いた三上が、「大丈夫ですか」と心配げに首を傾げた。
「ありがとうございます、すみません。大丈夫ですよ。
 実は、今日は彼の誕生日なんです。だが、今まで時間がなくて、渡せませんでした」
 手の中の包みを机に戻しながら、「帰って来てからになりますね」と吉井は苦笑した。
「何言ってるんですか!?」
 そんな吉井に、三上は呆れたような驚いた声をあげた。
「駄目ですよ、そんなの!」
「えっ?」
「私は明後日に帰ってきますが、吉井さんは社長と一緒で来週まで帰られないのでしょう。その後だなんて、遅すぎです!」
「…そうですかね」
「ええ、そうです」
 そう言うと彼女は新たなコーヒーをトレイに載せ、社長室へと入っていった。
そんな彼女の姿を眺めた後ボンヤリしそうになっていた吉井だが、直ぐに二人の大きな声がドア越しに聞こえ、慌てて席を立つ。
「どうしたんですか?」
 律儀にもノックをした後「失礼します」と言って中に入りそう質問した吉井に、上司の怒声が落ちてきた。
「どうしたじゃない! 三上を黙らせろ!」
 ソファーに座りそう怒鳴った男の服装は溜息がつきたくなるものだった。ボタンを全て外したシャツ、足は裸足で髪の毛は寝癖ではねている。ズボンを穿いていたのがせめてもの救いだろう、でなければ三上の怒りはもっと上がっていたに違いない。
「ったく、女のヒステリックな声で目覚めるなんて最悪だ!」
 その一言に三上が口を開きかけたが、それより素早く吉井は彼女の名を呼び牽制した。口を閉じた三上に頷きかけ、社長に向き合う。
「…社長、ずっと寝ていたんですか?」
「ん? あぁ、寝てなかったんだから仕方ないだろう」
 詫びることも無く、当然だという風に答える久住に怒りは湧いてこない。呆れるだけだ。だが、吉井はそうでも三上は違う。
「何をしていたんですか?」
 腹が立っても上司は上司。何かと久住と揉めることが多い三上だが、その事は充分に理解しているので、大きな欠伸をする青年に眉を顰めながらもきちんと質問をする。
「煩い。秘密だ」
 三上の努力も虚しく、ふてぶてしくもそう答えた久住。
「……」
 一瞬の沈黙後、素早い動きで近くに放られていたスーツの上着を掴み、無言で久住に投げつけたの三上の行動は、この場合仕方が無いこととなのかもしれない。だが、彼らの間にいる立場としてはそれを見過ごす事は出来ず、吉井は三上に注意をした。
「…すみません」
 そう謝る三上を笑い、更に囃したてようとする久住に向かっても釘を刺す。
「社長もいい加減にしてください。あなたも何をやっているんですか、全く」
「なんだよ、仕方ないだろう。移動中に寝ようと思ったんだが、我慢できなくなったんだよ」
「そんなのは知りませんよ。遊んでいるあなたが悪いんでしょう」
「そう言うなよ、な。悪いがもう少し寝かせてくれよ。出かける前に起こしてくれ」
「何馬鹿なことを言ってるんですか」
「そうですよ、朝渡した書類に目を通してくれましたか?」
「しているわけ無いだろう」
 三上の眉がつり上がるのを目の端に捕らえながら吉井は大きな溜息を付き、仕方がないと渡したまま机に置かれていた書類に手を伸ばす。だが、
「吉井さんがすることはありません。
 社長、さっさとその見苦しい姿を整えて、しゃきっと仕事にかかってください」
「はぁ、何だよ」
「吉井さんは今から休憩です」
「えっ?」
「はあ?」
 三上の言葉に男二人が同時に首を傾げる。
「空港で待ち合わせにしましょう、吉井さん。そうですね…2時前には来て下さい」
「えっと…、三上さん?」
 吉井の驚きを余所に彼の手の中の書類を取り、三上はボサボサ頭をかく社長に向き直る。
「そう言うことなので、社長はこれからこの書類に目を通してください。1時間で終わらせて下さい、いいですね」
「…よくねーよ。なんで俺がやって吉井が休憩なんだよ。俺も腹減ったぞ」
「なら、何か頼みこちらに持ってきます。さっさと始めなければ終わりませんよ」
「ったく、何だよ。全然意味わかんねーぞ。っで、お前は何処行くんだよ?」
「…さぁ?」
 その質問に首を傾げてしまった吉井に、三上は久住に対する勢いのまま、「なに言ってるんですか!」と声をあげた。
「さあ? じゃないでしょう、吉井さん!
 今からなら少ししか時間はありませんが会えますよ。あちらも昼休憩ぐらいなんじゃないですか?」
 三上が言った意味を理解し、吉井は驚きの声を上げた。
「え!? …あぁ、そうですね。でも…」
 吉井が言おうとした続きは三上の声で掻き消える。
「社長っ!! 何寝てるんですか!?
 終わらせなきゃ、ニューヨークには一人で行ってもらいますよ!」
「なっ! 三上!」
「文句がおありですか? 社長?」
 三上の目の怖さに、さすがの久住も息を呑みこむ。
「では、失礼します。吉井さんも」
「え、あ、はい」
 三上に引っ張られるようにして部屋を出る自分の後ろ姿に久住の視線が突き刺さるのを感じたが、後ろを振り返る事も出来ずに部屋を出る。
 バタンと大きな音を立てて扉を閉めた後、ようやく三上は吉井の腕を離した。次にその大きな背中をグイッと押す。
「あの、三上さん!?」
 身長差もさることながら、体重の面で言っても倍近くの違いがあるのではないかと思う彼女に押され吉井は困惑した。
「もう、大事な事は早く言って下さいよ。知っていたらもっと早く手を打てたのに」
 早く行って下さいと吉井を机の方に押しやりながら三上はそう言い悔しがった。どうも、久住へ向かう怒りがまだ彼女の中に燻っているらしい。
「…あのですね」
「駄目です。時間はあるんですから彼に会いに行ってください」
「しかし…」
 困った顔をする吉井を見、三上は思い切り溜息を吐いた。
「吉井さん」
「はい」
「私では社長を手には負えませんからね。一応彼も社長ですから、吉井さんがいなければ一人で何とか出来るのでしょうが…」
「ええ、わかっています。でも、今回は三上さんも行くんだから、私が居なくてはあなたに迷惑がかかります」
「なに言ってるんですか。私と吉井さんとじゃ比べ物にはなりませんが、同じ秘書ですよ。彼の我が儘が何ですか。いいんですよ、そんなのは。手には負えませんが、私は負けはしませんので」
「しかし…」
「つべこべ言わずに、行って下さい! 折角時間が取れたんですよ。吉井さんがいれば、社長は自力で何もしませんし、ちょうどいいですよ。
 それに、私も彼のファンですからね。…私からのプレゼントですよ、これは」
 ニコリと笑う三上に、吉井はただただ感謝するばかりだ。
「すみません。ありがとうございます」
 深く頭を下げた吉井に、三上は慌てて頭を上げてくださいと懇願した。
「当然のことじゃないですか。それでなくとも吉井さんは働きすぎなんですから…。
 …そうですね、明日の昼の便に乗ってくだされば何とかなりますから、素敵な誕生日にしてください」
 そう言って微笑む三上に「2時に必ず間に合わせますから」と、彼女の気持ちを受けとり、吉井は急いで用意をして職場を後にしたのだった。



 恋人が勤める病院の外来用駐車場に車を止め、吉井は正面玄関に向かった。
 恋人の神崎には連絡はしなかった。三上はああ言っていたが、恋人も勤務中なのに会いに来るというのは、やはり社会人としてどうだろうかと気が引けたのだ。会えそうになければ受付にでも言付けようと、吉井は考えていたのだが…。
 玄関で神崎の友人の医者が患者を車に乗せているのが見えた。車が走り去り院内に戻ろうする彼に吉井は声をかける。
「葉山さん」
 直ぐに吉井に気付き、葉山は軽く頭を下げた。
「こんにちは、吉井さん。どうかしましたか?」
 そう訊いた葉山だが、吉井が口を開く前に自ら答えを述べる。
「あぁ、今日は神崎の誕生日なんですね」
 自分は覚えておらず先程看護婦達に言われて気付いたのだと葉山は話す。
「実は、この後仕事でニューヨークに行くんですが…、恥ずかしながらどうしてもプレゼントだけは渡したいと思いまして…」
 本当に年甲斐もないと吉井は苦笑する。
「そうですか…」
「葉山さん? 何か…?」
「いえ…何でもありません。仕事、大変そうですね」
「いや、そんなことは無いですよ」
「あいつの面倒を見ているというだけ、充分に凄いことですよ」
 葉山はそう言っておどけたように肩を竦めた。
「どうせあいつ一人でも良いのに、吉井さんが行かなければ行かないとか何とか駄々をこねたんでしょう」
「え? あはは…、するどいですね」
 久住の幼馴染である葉山の勘の鋭さに吉井は苦笑した。
「でも、今回はあちらで色々する事がありますからね、私が抜けても誰かが行かなければならないんですよ。それに、三上さんも行きますしね」
「三上さんも? それはいいですね」
「ええ。今も彼女のお陰で抜けて来られたんです」
「…なら、この後あいつのご機嫌取りですか。飛行機の中で無理難題言われますよ」
「脅かさないで下さいよ」
 そんな話をしつつ二人は受付に足を向けた。
 吉井が名乗ろうとしたのを制し、葉山が声をかける。
「神崎医師と繋いで。多分、小児科病棟。居なければ医局か、食堂」
 はい、と返事をし、受付嬢が受話器を取った。
「忙しいようでしたら…、あの、これ彼に渡しておいてくれませんか?」
 吉井が鞄を開けようと腕に持ち上げかけたのを止め、葉山は頭を小さく横に振った。
「大丈夫ですよ。彼は今、休憩ですから。
 それより、吉井さんの時間は大丈夫なんですか?」
「えぇ、そうですね。本当に渡すだけになりそうですが…。
 彼女に迷惑が掛かるので、遅れるわけにはいきませんから」
 苦笑した吉井の言葉に「本当に大変ですね」と葉山が口の端を上げて笑った。
「葉山医師。神崎医師が、病室に居るので直ぐに医局からかけ直すとの事です。しばらくお待ちください」
「ああ、ありがとう」
 その葉山の礼が言い終わらない内に内線がなる。受付嬢が出て直ぐに「神崎医師からです」と葉山に受話器を渡した。彼はそれを吉井に渡す。
『もしもし、巽? どうかしたの』
「あ、いえ。吉井です」
『えっ!?』
 受話器の向こうで驚きの声が上がった。
「時間が少し取れましたので来てしまいました。迷惑なら葉山さんに託けをしておきますので後で受け取ってくだされば…」
『何言ってんの、恭平』
 軽い溜息と同時に神崎がそう呟いた。
「えっ? あの…」
『ねぇ、まだそこに巽はいる?』
「はい」
『なら、食堂に連れて行ってもらって。僕も行くから』
 そう言うと直ぐに電話が切れた。
「何処に来ると?」
 会話を予測してか、葉山がそう訊いてくる。
「えっと、食堂に…」
「なら行きましょう」
 そう言い葉山は興味津々に二人を見ていた受付の者達に礼を言うと歩き出した。
「あ。ありがとうございました」
 吉井も握ったままだった受話器を受付嬢に返し軽く頭を下げ、葉山の後を追った。


「恭平!」
 食堂近くに来た所で上から声が降ってきた。
 声と共に階段から飛び下りるような勢いで吉井の前に現れたのは、白衣を着て眼鏡をかけた神崎だった。吉井にとっては少し見慣れない格好だが、街を歩けば誰もが振り返るような美青年は、仕事中でもその魅力が衰えることは無いようだ。銀縁眼鏡では色あせない綺麗な微笑を吉井に向ける。
「晶さん」
「びっくりしたよ、会えないって言ってたから」
「すみません」
「謝る必要は何もないよ。嬉しいんだから。ありがとう、来てくれて」
 ニコリと微笑む神崎につられ、吉井も笑う。
「あ、巽!」
 神崎の声に、黙って立ち去ろうとしていた葉山が振り返った。
「菊地さんが探していたから、行ってみてよ。多分、東さんの相談だろうから」
「ああ、わかった。
 じゃ、吉井さん、失礼します」
「あ、はい。お手数かけました」
 軽く頭を下げた吉井にと同じように葉山も礼を返し、食堂の中へ入っていった。
 嫌いだというわけではないが、吉井は葉山と接するのが得意ではなかった。いつも少し緊張してしまう。とてもいい青年で、同じ歳の久住とは比べ物にならないくらい落ち着いており、好感が持てる人物だ。それなのに苦手と感じてしまうのは、単なる劣等感だろうか…。
 神崎は仕事でしか眼鏡をかけない。理由は童顔の顔を少しでも隠すためだとか。若いとなめられるからねといつだったか言っていたのを吉井は思い出す。だが、本当にそれだけだろうか。
 普段見ない彼の眼鏡姿は年齢より幼く見える顔ばかりではない何かを隠しているようにも感じた。そう、別人というわけではないが、いつも吉井の前にいる神崎の雰囲気とどこか違うように感じた。
 その理由を、葉山は知っているのかもしれない……。
「…何?」
「あ、いえ…」
「時間、大丈夫なの?」
 首を傾げる神崎に、吉井は考えても仕方がないことだと頭を軽く振り、苦笑しながら答えた。
「残念ですが、あまりゆっくりはしていられません…」
「そう、なら、外に行こうか」
 そう言い神崎は一歩先に歩く。そして、神崎はさり気無く眼鏡を外しシャツのポケットにしまった。
 脇の出入り口から外に出る。
 正面の駐車場の横にある、生垣で囲まれた庭に行きベンチに座る。もう少しすれば患者達の姿があるのだろうが、ちょうど昼時なので人影は何処にも無かった。
 少し風が強いが天気はポカポカ日和で、じっとしていても暑いくらいだ。このままこうして日向ぼっこをしていれば、すぐに眠ってしまうかもしれない。
「そうか、2時に空港か。なら、これを飲む時間だけだね」
 そう言い、神崎は白衣のポケットから缶コーヒーを2本取り出した。
「さっき買ったんだけど、冷たくて気持ち良いから渡しそびれた。
 温くなったけど…よければどうぞ」
「頂きます」
 吉井は受け取りそれをベンチに置き、鞄からプレゼントを取り出し神崎に差し出した。
「ん?」
「誕生日おめでとうございます。気に入ってもらえるかどうかわからないんですが…良ければ貰ってください」
 真面目な顔でそう言う吉井に神崎は苦笑を漏らし、
「頂きます」
 と、吉井と同じ言葉を言って包みを受け取った。
 吉井はホッとし、神崎の手に行った物の変わりに置いていた缶コーヒーを取りプルタブに指をかける。
「開けていい?」
「え!?」
「駄目なの?」
「いえ、あの、私はこういうのは苦手でして…、何にしようか迷ったんですが…」
「うん」
「でも、ああ、別の物の方が良かったかもしれません。いえ、確かにこれだと思って買ったんですが…」
「ん?」
「晶さんに似合うでしょうか…。あ、でも…」
 自分でも何を焦っているのかわからず、更に慌てふためく吉井に神崎は苦笑を漏らした。
「恭平、落ち着いてよ」
「え? あ、はい」
「…照れているの?」
「…そうですね、はい。すみません…」
 まるで子供のような自分の姿に吉井は悲しくなる。これでは初恋をしている小学生の様ではないだろうか。自分自身の行動に嫌気がさす。プレゼントを自ら渡しておきながら、いざ恋人の手の中にそれが渡ると彼には不似合いな物だと思えてしまい焦るとは。情けなすぎる…。
「う〜ん。なら、これは後で開けるよ」
「晶さん…」
「その様子じゃ今開けると、「やっぱり私のセンスは駄目ですね」とか言って取り上げられそうだからね」
 クスクスと笑いながら神崎はそう言った。
「でもね、恭平。恭平がそう思ってくれるのは嬉しいけど、僕は恭平がくれるものなら何でも嬉しいんだから。そんなに怖がらないでよ」
「怖がっては…」
「そう? ならいいけど」
 そう言って神崎は大事そうに包みを膝の上に置き、吉井の左手を両手で包み込み軽く握った。
「…ありがとう、恭平」

 今までも恋はしてきた。だが、今にして思えばそれが本当に恋だったのかどうかわからない。いつでも穏やかな恋愛を自分はしているのだと吉井は思っていた。それが彼の恋愛というものだった。感情は燃え上がることはなかったが、彼女達と一緒にいて幸せだと感じていたのは事実だ。だが、それは家族愛のようなものだったのかもしれないと今は思う。
 相手の女性達からは自分を包み込んでくれるような温かさを常に感じた。自分も彼女達を大事にしたいと思っていた。だがそれはそれだけで、それ以上になる思いではなかったのだと、神崎を好きになって気付いた。
 自分はその居心地のよさを恋だと思っていただけなのだ。穏やかで幸せだと感じていたのは自分だけで、彼女達は不安を抱いていたのかもしれない。去っていく者を特に追う事はなく、仕方がないで終わらせることが出来たのが何よりの証拠だろう。
 神崎に恋をして、一喜一憂子供のように騒ぐ自分がおかしくて仕方がない。自分を見失ったり、相手を狂うほど求めたり、そんな強い感情が自分にあったということに驚く。
 神崎といると穏やかな気分になる、幸せになる。だが、それだけではない。側にいないと不安で仕方がない。いや、こうして隣にいても、ふと消えてしまうのではないかと思ってしまうこともある。
 神崎にとって自分は多くの彼を求める者と何ら変わらない存在であることは知っている。いや、恋人だという立場なら自分はその中でも特別なのかもしれない。だが、それが何だというのだろうか。言葉でも、体でも、彼を縛りは出来ない。
 今吉井が願うのは彼に嫌われないことだ。飽きられないことだった。だから、神崎にとっては大したものではない事でも、自分は酷く心配してしまう。臆病になってしまうのだ。
 偶然の出会いで始まった関係。いつ終わってもおかしくはないのだろう。
 恋人の友人は、神崎にとってあなたは特別なのだと言った。だが、その言葉を素直に信じられるほど吉井は子供ではない。愚かでも、純粋でもない。
 吉井にしてみれば、自分よりも神崎は葉山を大切にしていると思えて仕方がないのだ。それを口にした時、葉山は寂しそうに「違いますよ…」と首を振った。学生時代からの友人という以上の関係はないのだと。
 それは事実だろうが、それだけではないというのも本当だ。現に付き合い始めても、神崎の葉山に対する思いは自分や他の者へのものと明らかに違った。どこがどうだとははっきりとはいえないが、傍にいるからこそ吉井はそれを強く感じ取ることが出来た。
 それを寂しいと思う。自分はあの友人以上の者にはなれないという事を。男の醜い嫉妬だと感じる時すらある。それでも、仕方がないのだと思っていなければ神崎と過ごすことは出来ない。
 三十路をとうに過ぎた男がこう思うのは女々しいだろうが、それでも吉井は今の関係を壊したくはなかった。神崎にもっと必要とされたい。もっと好きになってもらいたい。それがたとえ特別ではなくとも、傍にいて欲しい。いや、傍にいたい。
 今の自分たちの関係は普通の恋人ではないだろうが、そうだと思いたかった。
 合わせた掌を解き、指を絡め握りあう。いつも体温が少し低い神崎の冷たい手に自分の熱が伝わっていくのを、吉井は温かな日差しの中で感じ取っていた。
 このまま時が止まればいい。
 何の意味も持たないその思い。そうわかりながらも願う自分が確かにいた。


「本当にありがとう、恭平。忙しいのに来てくれて」
「いえ、私のほうこそ時間を作れなくてすみません。約束、していましたのに…」
「いいんだよ。それにこうして会えたんだから。ほら、遅れるよ」
 その言葉に押されるように吉井は車に乗り込む。キーを回しエンジンをかけ、窓を開ける。
「じゃあ、仕事頑張って」
「はい、晶さんも」
「うん」
「次はもっとゆっくり会えるようにしますから」
「そうだね」
 楽しみにしているよ。忙しい自分達では次がいつかわからないが、それを言葉にはせずに神崎は微笑んだ。
「では…」
 吉井のその言葉に、車に凭れていた神崎が体を起し一方後ろに下がる。それを確認し吉井はギアを変えようと視線を落とした。が、直ぐに引っ張られたかと思うと窓の方に顔をむけられ、次の瞬間には神崎と唇を重ねていた。
 つるりとした歯の並びを確かめるように滑らしてくる神崎の舌を吉井は捕らえ絡ませる。だが直ぐ唇は離れ、二人の間に細い糸が伸びた。引かれた糸が切れる前に再び角度をかえ、どちらからともなく吸い寄せられるように唇を重ねる。
 湿った音がなるのも気にせずに舌を絡ませきつく吸い合った。
 離れていく神崎の濡れた唇は、少年のように紅かった。その艶に、吉井は再びくちづけたくなる欲求を押さえ込む。これ以上やってはそれだけでは済まないと、自身の体の変化を感じ取ったからだ。
 だが、まるでそんな吉井を知っているかのように、神崎は口角を上げニヤリと笑うと、ちゅっと音を立てて頬にキスを落とした。耳を軽く噛み、「ご馳走様」と囁きかけ体勢を戻す。
 神崎のその行動にここが何処なのかを思い出した吉井は慌てて辺りを見回した。そんな彼に「大丈夫だよ」と美しい青年は笑い声を零す。
 そして、息もつけないくらいの貪るようなくちづけのために少し上気した顔で、
「行ってらっしゃい」
 と神崎は綺麗に微笑んだ。

2002/04/20
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