恋人

2

 吉井を見送った神崎は直ぐには院内には戻らず、ポケットに入れていた携帯電話を操作し耳にあてた。医者である自分と違い、呼び出す相手は仕事柄どんな時でも携帯の電源を落とすことはない。ましてや、プライベート用と仕事用を使い分ける性格でもないので、繋がらないという事は殆どない。
 そうは確信していてもさほどかけることがないので絶対の自信はなかったが、それでも数コールの後に相手の男は電話に出た。
 突然の電話に驚くわけでもなく、何だと問う言葉にホテルの名前だけを告げる。クククと押えた低い声で笑いながら了解という返事と共に直ぐに通話が切られる。
 そんな簡潔なだけの会話に神崎は小さな苦笑を漏らした。自分も相手も相変わらずだ。こうして連絡をとるのは数ヶ月振りだと言うのに…。連絡をとらなかった空白の時は、互いに黙殺できる関係。それを冷めていると感じるものもいるだろうが、神崎にとってはありがたい存在だった。
 春の風が少し長めの神崎の髪をなびかせる。その動きを追うように見上げた空は嫌になるくらいの青空だった。いや、青空とは語弊があるだろう。白く曇ったような空。その霞の向こうには目が覚めるくらいの青い空があるのだろうが、地上からは見えない。汚れた空。
 白く濁った空。それでも上を向けば、空はある。
 数時間後には、恋人がこの空を飛ぶのであろう。彼からは、何が見えるのだろうか。ゴミゴミとしたこの街でも、見上げれば空があるように、上空からもいつもと何も変わらない濁った街並みを目にするのだろうか。それとも、そんなものは目に入らないのだろうか。下など気にしないだろうか…。
(どちらにしろ、目があうこともなければ、確認する事も出来ない…)
 神崎は自嘲するように少し口の端をあげて笑い、職場への道を歩き出した。


 勤務時間内に終えることは出来なかったが、まだ夕食だと言えるだろう時間に帰り支度をしていた神崎に、葉山が飲みに行かないかと誘ってきた。
「祝う歳じゃないよ」
 そう笑いながら断ると、
「…なら、俺の時もそうしてくれよ」
 と溜息を吐きながら神崎の肩を軽く叩いた。
「さあ、どうかな」
 ニヤリと笑う神崎に葉山は肩を竦め、少し苦笑した。
 神崎とは違い葉山はまだ白衣姿のままだ。おそらく帰る用意をしていた自分を見かけ、思わず声をかけてしまったのだろう。
(心配しすぎだよ…)
 友人の行動に神崎は心の中で苦笑した。自分自身が葉山にそう思わせる態度をとっているのだと言う事を十分自覚している神崎には、口に出してそれを言うことは難しい。
「じゃ、巽。お疲れさま」
 そう言って去る背中に友人が物言いたげな視線を向けていることに神崎は気付いていた。だが、気付かない振りをする。それはいつものこと。
 振り返っても葉山は何も言わないということを知っている。いや、もしかすれば気遣った言葉をかけてくれるかもしれないだろう。だが、絶対に怒りはしないし、否定もしない。そのことを誰よりも神崎はわかっていた。
 友人は自分がこの後誰かと夜を共に過ごす事に気付いているのだろう。吉井が昼間来た時彼もいたのだ。今夜恋人と会えない自分がとる行動など、長年の友人にしてみればわかりきっていることで考えることでもない。
 だから誘いに来たのだ。しかし、葉山はそれ以上の事は何も言わない。
 心の中では色々考えているのだろうが、あまり口にはしない。それが良いのか悪いのかはわからないが、それで神崎が救われているのは事実だ。
(大丈夫だよ、心配するな)
 もう一度心の中で友人に向けて神崎はそう呟いた。きっと彼は自分のこの声に気付いているだろう。そして、その裏にある気持ちにも……。
 それを知りつつ、神崎も葉山同様何も口にはしない。
 10年も続く友人など、神崎にとっては葉山ぐらいしかいないだろう。いや、そもそも友人を作れるタイプではないと神崎自身自覚している。知り合いは沢山居る。自分を必要とする者、わかろうとする者、愛してくれる者。憎む者、得ようとする者、奪う者…沢山の人と関わりをもっている。だが、その中で、自分と同じ対等の立場でいる者がどれくらいいるだろうか。そう、それはほんの一握りだろう。そして、その一握りの中で、自分の中にまで触れられる者はもっと少ない。
 葉山は今の自分にはなくてはならない存在だと神崎は思う。不安定ながらでも、こうして今の自分を保っていられるのは彼のお陰だ。だからこそ、怖いのだ。彼を失うのが。彼に切られるのが。
 彼はそんな事はしないだろう。何があっても自分を切りはしない。10年という短くはない時間を過ごしてきた、自分は彼のことがわかり、彼は自分のことをわかっている。そう、きっとこの関係はいつまでも続くだろう。
 神崎から切ろうとしない限り、一生続く関係。しかしそれは葉山にとっていいことなのだろうか――。寄りかかるばかりだったが、最近それの思いが膨れ上がり不安になりつつある。
 自分に安心感を与える葉山という存在。だが、時にそれが辛くもある事を、友人は気付いているのだろうか。
(いや、それよりも…)
 それよりも問題なのは、自分自身という存在だろう。
 必要だからと葉山に凭れかかっている自分はなんて人間なんだろうか。いや、友人のことだけではなく全てのことがそれに当てはまる。綺麗な振りをして人の温もりを求め、その実、いい様に弄んでいるに過ぎない。医者と言う立場は、単なる娯楽に過ぎない。
 医者としても、人間としても、自分は最低だ。
 そんな自分に望めるものがあるのだろうか。
 夕食も終わり、面会の家族達も大半が帰って静かになった病棟。蛍光灯の明かりだけが輝く、人気のない寂しい廊下。ゆっくりと階段を降りながら、神崎はふとそんな事を思った。真面目に精一杯生きている人間と同じように、自分にも未来があるのだろうか。望を持てるのだろうか。持ってもいいのだろうか、と。
 たった一つだけ…、叶わないとしても、望むことが出来るのなら……。
 その考えに、心に浮かんだ答えを否定し、変わりに神崎は苦い笑いを顔にのせた。
 望みは言葉に出すことも出来ないくらい、自分には分相応なものなのだと。
 外に出た神崎を待っていたのは、静寂な闇。
 まだ消灯時間にはなっていないので、各部屋からカーテン越しに明かりが零れている。だが、それは酷く遠い、蜃気楼のような儚げな光で、神崎の手に届くことはない。
 車のロックを外し、体を滑り込ませる。
(…恭平……)
 声に出すことを躊躇い、心で小さく呟いた恋人の名前は、闇に溶けるほど力のないものだった。



 薄っすらと明るい部屋の中で神崎は目の前の男の腕にある傷痕を診ていた。
 男は自分より少し大きいぐらいだが、体重はそれなりにあるだろう。見た目はあまり変わらずとも、服を脱ぐと綺麗に筋肉がついた体が現れる。
 引き締まった筋肉に滑らす指先が感じ取った違和感で男の左腕に視線を向けると、そこにはナイフか何かで切られたような、真っ直ぐに伸びた傷があった。抜糸も済んでいるので、ここ数日の傷ではないだろうが、皮膚はまだ引きつった様に引っ張られていた。
 少し浅黒い肌に、濃い紅色の傷痕は、何かの呪い事のようでもある。
「…どうしたの?」
 少し掠れた声が神崎の口から零れる。熱を持った息が空気に溶け、甘い香りを引き起こす。
 その問いに男は神崎の指が触れる自分の二の腕に視線を落とし。「あぁ…」と気のない返事を返した。
「…餓鬼の喧嘩を止めに行った時にやられたんだ」
 どうでもよさそうに男はそう言い、男は再び神崎の首筋に唇を落とした。
 指先ではなく今度は掌全体で確かめるように傷痕を撫でると、男は少し苦笑を漏らした後、神崎の腕を取り、彼をベッドに押し倒した。

 連絡をとったからといって必ずくるとは限らない。
 なので、いつもより早くホテルに着た神崎だったが、男が来るかどうかの確信は全くなかった。しかし、そんな彼の予想に反して、男はさして遅くはない時間にやって来た。
 意外だなと苦笑する神崎に、ちょうど良い口実だったのだと男は笑った。一体何をどうしてきたのか。それを考えると笑うだけでは済まされない気がするが、男の判断に口を挟む気もなければ、深く訊く気もない。
 お互いにこの時間を楽しむことだけを考える。それ以外は必要ない。


「…下手だね」
「ん? …虐めて欲しいのか?」
 神崎の言葉を自分の行為の感想だと聞き取った男が眉を寄せて言った。そう言いながらも、彼の体を滑る手は優しさ以外の何も含まない。少し骨張った指がゆっくりと神崎の脚を撫でた。
「違うよ。透のことじゃなくて、この傷を縫った奴だよ」
「ん?」
「結構深い傷だったんだろう? 僕ならあと4針は縫うよ。
 それにこの縫合。もっと揃えろよなぁ。ほら、ガタガタだろ?」
 未だに自分の傷を気にしていた神崎に、男は隠しもせず呆れた表情を見せ溜息を吐いた。だが、直ぐに口の端に笑みを浮かべる。
「もしかして、俺の体にこんな痕つけられて怒っているとか?」
「まさか」
 男の想像を一笑した神崎の胸にくちづけを落としながら、
「なら、そんなもの気にせずこっちに集中しろよ」
 と、男はそこにある小さな突起に歯を立てた。
 甘い痛みに喉を鳴らすが、神崎の視線がそれることはない。
「でもね、同じ医者としてこれはちょっとね」
「…そんなに酷いのか? くっついているぞ」
「それは当たり前、生きているんだから、くっつくよ。
 でもこれだとね、その辺の医学生の方が上手いよ。僕ならこんなに痕は残さない」
「…ったく、あのオヤジ。今度詫び入れさせてやる」
 そう言う男に「残念だったね」と神崎は傷跡に唇を寄せて笑った。触れた舌先が、ピリリと少し痺れた気がした。

 一夜限りの相手が多い神崎にとって、南部透との関係は例外だった。会うのはお互いの都合がいい時だけで無理に時間を作ろうとしたりはしない。二人とも急に何が入ってもおかしくはない仕事をしているので、連絡をとっていてもその約束を果たせないこともある。なので、会う時はそうなってもいいホテルが多い。ホテルだと、睡眠時間なんてまともに取れない二人とって最も有効に時間を使えるからだ。
 週に何度か会うこともあれば、1、2ヶ月平気で連絡をとらないことも珍しくない。だからこそ、こうも長く続いているのだろう。南部との関係は2年近くになる。
 飲酒運転で取締に引っ掛かった神崎に、今夜自分と付き合ってくれるのなら見逃してやると警察官にはあるまじき誘いをかけてきたのが南部だった。後で知ったところ、元々助っ人で借り出された取締で、酔っ払いオヤジの相手にイライラしていた時にやって来た神崎に冗談でそう言ったのだそうだ。なので、南部としてはあっさりと頷いた神崎に驚いた。だが、神崎にとっては彼のような者は珍しくはなく、逆に冗談だったと聞かされた時は少々複雑であった。
 一度で終わるはずの関係が、こう続いたのは、気が合ったという一言に尽きるだろう。お互い歳よりも若い外見に笑いあい、性格に似合わない職業を詰りあったりした。南部の大雑把でいて人との接し方が上手い性格は、神崎にとって好感が持てるもので、いつの間にか、この関係は当たり前のものになってしまっていた。
 呼び出せば必ず来る、自分を助けてくれる。そんなものでは決してないが、それに近い思いがある。何も多くは語らないが、その中で、南部との関係は神崎にとって自分が楽になれる場所だった。
 ある意味、割り切って付き合っているからこそ持てる逃げ場所なのかもしれない。嫌なら切れればいいだけのこと。それを簡単に出来る関係だからこそ、気分的に楽なのだろう。
 南部が自分に関心をもっていることに気付いてもいるし、自分が南部を利用するように付き合っている面を持っていることにも神崎は気付いている。それは、南部も同じ事。お互いの立場がわかっているからこそ、それ以上もそれ以下にもならない。
 そんな関係に何があるのだと人は言うのかもしれない。だが、こんな関係だからこそ、自分を見つめられるのだ。そして、我が儘な子供のように、男に甘える自分を許せることも出来る…。


「…あぁ? そう言えば、今日ってお前誕生日じゃなかったか?」
「今日じゃなく、もう昨日だ」
 日付が変わった事を知らせるため、時計を指さしながら神崎は言った。だが、その手は直ぐにベッドに沈む。心地よい体のだるさに身を任せる。自分はこの一瞬を迎えたいがために他人と体を合わせるのかもしれない。神崎は時々そう思う。
 人の温もりが欲しい彼にすれば、ただ抱き合っているだけで満足なのだ。それなのに、こうして交じり合うのは、この疲労感を感じたいからだろう。この一瞬は、何も考えなくてすむ。いや、ただ、生きているのだと感じるだけで満足する。
 スパークする時ではなく、事後に思い入れを持つ自分を男としてどうだろうかと思うが、この脱力感に似た心地よさの中ではそんなことすらどうでも良くなる。
 神崎はまとまらない考えに小さな苦笑を漏らす。だが、それ以上に隣で半身を起こした南部が大きな溜息で神崎のそれをかき消した。
「なんだよ、お前。誕生日に一緒に過ごしたい奴の一人や二人いないのかよ」
 少し眉を寄せながら言う男に引き寄せられるまま、神崎も上体を少し起こし、南部の胸に凭れかかる。
「だから透と居るんだろう。何言ってんだよ」
「それはこっちの科白だ。ったく、お前は……。…いや、止めておく」
 自分の行動をとやかく言えるほど、南部の生活が規則正しいものではない事を知っている神崎は、後ろ手に男の短い髪を指で弄りながらニヤリと笑った。
「お互い様だからね」
「…煩い」
 黙れと言う代わりに、南部は神崎の顎を取り振り向かせ、まだ紅く熟れたように艶のある唇を塞いだ。室内に湿った音が響く。
 唇を合わせたまま体の向きを変え、南部の脚に横向きに座る。そうして神崎が目の端にとらえた時計は真夜中を告げていた。
(…午前2時。あちらではお昼頃か…)
「どうした? 眠いのか?」
 拒みはしないが積極的に返しては来ない神崎に、唇を外して顔を覗き込みながら南部はそう訊いてきた。その仕草が少々子供に対するようなもので、神崎は苦笑する。
「…いや、まだ寝ない。…やろう」
 そう言って男の首に腕を絡める。温かな人肌が、汗で少し冷えてしまった体に気持ちがいい。神崎が南部の頬に唇を落とすと、彼は小さな溜息をついた。
「ったく。お前、…いつか刺されるぞ」
「まさか、そんなことを言うのは透だけだよ」
「だろうね。…ったく、面白くない奴だな」
 あっさりと言う神崎に南部は眉根を寄せたがその下の目は笑っていた。
 彼とて単に体だけを求めて神崎とこうして付き合っているわけではない。
 自分が彼にとって特別とまでは行かないまでも、例外な存在であることはわかっている。出会いが出会いだったので、神崎についてはそれなりに知ってはいるし、その後も付き合ううちにわかってきたこともある。だが、それはこうして体を重ねる者としては珍しいことなのだと理解もしている。
 そう、神崎の言う通り、例えこの青年に狂い何かがあったとしても、誰も彼を傷つけはしないだろう。神崎の周りにいるのは、彼を汚すのなら自らの死を選ぶような者達ばかりだ。
 何て奴なのか…。自分自身を見せず、人をこれだけ惹きつけられる者がいるなんて…。
 神崎に入れ込んでいる者の中で、どれだけ彼が医者をしていると知っているだろうか。何人の者が心に触れられるのだろうか…。自信に満ちたように見えるが、本当は単なる寂しがり屋なのだと知っている奴なんているのだろうか…?
 その者達に比べれば、自分は神崎晶と言う男の情報は持っているほうだろう。だが、それでも自分は他の者達と何ら変わらないのだろうことも南部は十分わかっていた。
 今時の若者と何ら変わらないようなダラダラとした生活をしていると自身でそう思うが、それでも警官なんてヤクザな商売のせいで、他人を見る目はそれなりに持っていると自負している。なので、南部には神崎の中にあるものを漠然とだが感じることが出来た。
 深すぎる闇を抱えて生きていくには神崎は純粋すぎるのだと南部には思えてならなかった。不純があるからこそ、純粋がある。キレイな物ばかりではないのだ。人は全てどちらも持っている、美しさも醜さも。神崎もまた、汚れた面を抱えているからこそ、綺麗に輝く。
 なのに、彼はその輝きも許さないかのように生きている。他人を求めながらも、自分はそれをしてはいけないのだと思い込んでいる。一見、そんなことには無関心で、好き勝手に生きているようにも思えるが、それは彼が作っている外面にしか過ぎない。本当の彼は、人として当たり前な事を自分に許さないほど、苦しい生き方をしている。
 そんな神崎の中で唯一の例外が、何度か友人だと話の中に出てきた青年だろうか。詳しくは語らないがそれでも彼の中で特別な存在である事は容易に想像できた。
 自分でも気付いていないのだろう、少し寂しそうに話すその姿は、全身で彼を求めているように南部には感じられた。それが少し切なく、反対にほっともした。
 彼にも求める者があることが嬉しかった。そんな神崎が愛しかった。
 なのに、久し振りにあった神崎は少し変わったように思う。いや、それは少し前からだろうか…。小さな不安が南部を襲う。だが、自分が踏み込めば神崎は逃げるだろうし、逆に縋られても、自分が助ける事は絶対に出来ない。それがわかっている自分は気付かない振りをするしかない。
 そう、自分たちは今の関係でしか繋がっていられないのだということを南部は痛いほどわかっている。この関係にはすぐ側に終わりがある。連絡さえ取り合わなければ、直ぐに途絶えるのだ。仕事先や自宅を知っていても、お互いそこには近付かない。そんな関係だからこそ、続けられているのだ。
 今の関係を崩す気は南部には全く無い。だが、神崎が去っていく時、彼が望むように平気な顔でじゃあなと笑って別れられるかどうか、自信が無いのも事実だった。
(結局、俺もこいつの信者ってだけなのかもな…)
 そんな自分に小さな苦笑が漏れる。
 だが、そんな事を考えているとは知らない神崎は、黙ってしまった男に小さく首を傾げて聞いた。
「嫌なの…?」
 神崎の甘く囁く声を耳元で訊き、南部は再び苦笑を漏らす。
「まさか」
「…ホントだ。元気だね、オジサン」
 南部の体の変化にクスクス笑いながら、神崎は彼の髪をかきあげ額同士をくっつけ視線を合わせる。
「お前が相手だからだろう。
 それより、…29になったんだよな。三十路前の男にオジサンなんて呼ばれたくないな」 「でも、まだ三十じゃないよ」
「悪かったな、どうせ俺は半年もしないうちに34だ」
 頬を撫でる神崎の指を捉え、軽く噛む。南部の言葉とは会わないその行為に笑いを漏らしながら、「見えないね」と神崎は口の端を上げる。
「お前もな。それより、何か欲しいものないのかよ。買ってやってもいいぞ」
「いいよ、そんなの。透自身で充分…」
「可愛いね。ま、欲しいもんは他の奴らがくれるってな」
「…さてね、どうだろう」
 それよりもと、強請るように口内に捕らわれた指を細かく動かす神崎の背に、南部は手を沿えゆっくりと体を倒していった。
 他人の重さを感じながら、神崎は自分の体の在処を確かめるように、男の背を片腕できつく抱いた。肩甲骨に指を沿わせると、耳元で男の喉がなった。



 車に乗り込み一息つく。自分では若いと思っていたが、そうではないのかもしれない。それなりの歳のせいか、それともこの生活によるものか、シートに凭れると自然に出てきた大きな溜息に、朝から気が滅入る。
 南部は一足早くに部屋を出て行った。自分には詳しくは言わなかったが、どうやらここ数日署に缶詰状態のようで、昨夜は上司のお小言を右から左に流して抜け出てきたようだ。何をやっているのかは知らないが、そんな時に自分と夜を過ごすとは。なんともタフな男だなと神崎は呆れてしまったが、そんな彼に南部は「じゃあな」と疲れを見せずに元気な背中を見せたのだった。ベッドにいる自分と、昨日と同じとはいえスーツをそれなりに着こなして出て行く男との差が正直可笑しくてならなかった。だが、5歳と言う年齢差を思うと、ある意味情けなく思わなくてはならないのかもしれない。しかし、現役の警察官と比べる方がどうかしているのだといつものように一笑する。
 これから自宅に帰り着替えをすれば、朝食を摂る時間もなく直ぐに出勤だろう。…一体最後にまともに食事をしたのはいつだろうか。神崎は考えかけたが、無駄に終わりそうなので直ぐに頭を切り替える。運がよければ仕事前にコーヒーの一杯は飲めるだろう。
 今日は昼前から大きな手術が一つ。後、夕方の外来も診なくてはならない。その間に担当患者を診て回り、他の細々した仕事も片付けなくてはならない。
(…そういえば、あの会議は今日だったか…?)
 新たな仕事を思い出し溜息をつく。いつもの事ながら、この仕事量はどうにかならないかと思う。医者は他人を救う意思よりも、自分を苦しめて生きれるマゾの方が適任だろう。過酷な仕事に精神的に耐ええられる者なんてそうそういない。そんなタフな精神力を持った者なら、医者になりはしないだろう。
「壊れたものじゃなければ、医者なんてやっていられない、か…」
 いつだったか友人が言っていた言葉を呟き、神崎は再び溜息をついた。
 ルームミラーを除くと仕事仲間から貰った贈り物が後部座席に散乱していた。体には南部がプレゼントだと言ってつけた紅いキスマークが幾つもある。いつもなら白衣の下にシャツを着れば見えないだろうが、今日は手術着を着なければならない。首や腕の鬱血を隠すことは絶対に出来ないだろう。プレゼントというよりは、南部の場合これは悪戯というか嫌がらせなのかもしれない。
 そして、助手席には吉井から貰ったプレゼントがあった。
 神崎は吉井からのプレゼントの封を開けようと手を伸ばした。だが、携帯電話の電子音が鳴り、それを断念する。
 電話は吉井からのものだった。
「おはようございます」
 吉井の声は場所のせいか、それとも疲れているのか、いつもより擦れて聞こえた。
「おはよう。でもそっちは夜だよね」
「えぇ、今やっと解放された所です」
 向こうの時間を思えば、そう遅くはない頃だろう。だが、長旅の後に休むことなく動き回ったのであろう事を考えれば、吉井の疲れは容易に量れる。
「お疲れ様、恭平」
「いえ。それより、あの…」
「うん、プレゼントありがとう。大事にするよ」
「はい。…やはり、お仕事中は外さなければ駄目ですよね。すみません、考え無しで…」
「そんなの気にすることじゃない。言っただろう、恭平に貰えると言うことが嬉しいんだから」
「はい」
 電話越しでも彼が微笑んでいるであろう事は神崎には簡単に想像が出来た。包みを解いていない箱に視線を送りながら、「でも、僕に似合うかどうかはわからないけどね」とおどける。
「似合いますよ、晶さんなら」
 吉井のその問には答えず、神崎は恋人の名を呟くように呼んだ。
「…恭平」
「はい」
「早く、会いたいよ」
 その言葉に「私もです」と吉井が囁くように言った。
 おやすみと言って電話を切った後も、神崎はしばらくの間シートに凭れていた。
 彼は気付いているのだろうか、自分が誰かと夜を過ごしたと言うことに。いや、例え確信はしていなくともそうかもしれないという予想は持っているだろう。…なのに、何も言わない。
(……恭平…)
 思い出したかのように神崎はゆっくりとした動きで吉井からのプレゼントを取り封を開けようとした。だが再びその手を止め、キーを回す。
 重いエンジン音が駐車場に響く。


 これが自分の生き方なのだと、神崎は自覚していた。こうでなければ生きられないのだと。
 それは甘えからきているものかもしれないと時々思うが、今の自分を変えられる強さを持っていないことも事実だ。
 世間から見ればなんともおかしな人間なのだろう。それなりの地位にいながら、狂ったような生活をしている。医者としてはもちろんのこと、人間としても到底受け入れてなどもらえない、最低な生き物だ。なのに…。
 大抵の者はこんな自分を受け入れる。憎まれる事もあるが、それも強い想いである事には変わりない。
 人を求める自分は、人に不要なものとされるのが怖いのかもしれない。単にそれが嫌で、他人との関係を多く持とうとするのだろう。自分がここにいるのをわかって欲しい。
 求められるように、自分も人を求める。そのためなら、何でもする。時には優しく、時には残酷に。抱きしめもすれば、突き放す事も。
 子供のように無垢に愛情を貰うのではない。計算し、相手を操る。自分はまさに人を騙しているに過ぎない。なのに、人はそんな自分を受け入れる…。
 こうでしか生きられないのだと納得している。だが、その中で神崎は時にそれが辛くなる。他人に対する自分の態度がどうしても許せなくなる。なのに、改善も何も出来ない。その力のなさが嫌になる。
 そんな事を言っていては生きていられない。それがわかるからこそ、目を瞑り、自分のために人を惑わし生きている。
 しかし、それでも時に、狂ったようにこの世に生きている自分が許せなくなる。
 どうして誰も何も言わないのだろうか。葉山も、南部も、そして恋人である吉井でさえも…。なぜ、こんな自分を受け入れる。最低だと詰ってくれたのなら…、自分を許せるのに…。仕方がないだろうと、居直り笑えるのに…。
(…それこそ、最低だ。人にそんな事を求めるなど…)
 何もかもがわからない。結局自分は何を求めているのだろうか。
 一つだけいえるのは、多分、現状の維持だろう。
 これ以上、前にも後ろにも進みたくない。
 だが、それは無理だろうと神崎は気付いていた。
 自分の中で、彼の存在が日に日に大きくなっている。それに戸惑い始めたのはいつからだろうか…。怖くて、怖くて仕方がない。…なのに、切る事もなく、必要としている。
 この心に気付いているのは、誰だろうか。
 友人は、こんな自分をどう思うのだろう。
 お前には似合わない。
 そう責められたがっている自分が神崎の中にいた。だが、友人は絶対に口を出さない。
 …なら、どうやってこの心を留めればいいのだろうか。
 その術を見つけられないでいる。
 西の空にある月が、自分を冷たく笑っているように神崎には感じられてならなかった。

恋人 END

2002/04/30
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