日常

1

 今朝早く担当していた患者がこの世から消え去った。
 駆けつけた僕が見たモノは単なる抜け殻だった。それでも、生きている時には見せなかった穏やかな表情が僕の心をふるわせた。
 少女の容態が急変したと携帯電話に連絡が入った時、僕は顔も思い出せない人とベッドを共にしていた。なんとも僕らしい。喘ぐ女の口を片手で押さえ平然と電話を取り、看護婦の声を冷静に聞いていた。
 シャワーを浴びてさっさと出て行く僕に、ベッドから彼女が何かを言っていたが気にもせず部屋を後にした。もう会うこともないだろう。たとえこうした別れ方ではなかったとしても、元から二度目のない一夜限りの相手だ。だから、彼女の事は気にはしていない。気にしているのはこうして他人と夜を共にしている時によく連絡が入るなと言うことだ。しかも、適当に付き合った者達と過ごす時の率が高い。これは一体どういうことなのか。
 …いや、それが当たり前のことなのだ。そう、毎晩のように誰かと過ごしているのだから当然だ。僕にすれば、一人でいる時に連絡が入る確率なんて奇跡より低いのだろう。
 分析するにはあまりにも単純で、出た結果など何の役にもたたないもの。それでもそれは、鼻で笑える程度には面白い。
 早朝の静かなホテルのフロントを笑みを浮かべて通る自分を怪訝に見た従業員、だが直ぐに頬を染める。
 笑みを向けあいさつをする僕を、誰が急患で呼び出しを受けた医師だと思うだろうか。そう、自身ですらも信じられない。
 そして、あの少女も僕を医者としてはみていなかった…。


+++++++


 非番だったというのにその後も色々とあり、神崎が病院を後にしたのは夕方前だった。
 それでも、纏わりつく子供を宥めてやっと解放されたのであって、職場に出ていてこの時間に帰路につくというのは珍しい事。途中擦れ違った同僚達に、これから仕事かと勘違いされるくらいに。
 神崎はそんな問いに苦笑で答えつつ、また足止めをくらわないようにと足早に病院を出てきた。特に休日をどう過ごそうかと決めていたわけではなく、普段から仕事熱心だと評されるくらいなので、非番が潰れるのは苦ではない。だが、気分が乗らない時もある、人間なのだから。
 いつもは空に月が昇る前に仕事を終えるなど考えられない事で、陽の高いうちに職場を後にするというのはなんだか妙な気分であった。
 車を走らせながら神崎は携帯電話に手を伸ばした。数回のコールの後、機械特有の耳につく留守番電話の音声が流れ、そこでようやく時計を目にして軽く溜息を吐く。明るい街中にいながら、集中力が欠けている。時刻はまだ4時を回ったばかりだ。こんな時間にプライベート用の携帯に相手が出るはずがない。神崎は小さく舌打ちをし、電源を落とそうとしたが、
「…アスクに居る」
 そう一言留守録に吹き込み、携帯を助手席に放った。
 たったその一言。自分の居場所だけこうして伝えるのは神崎の癖と言えるのかもしれない。付き合いが長くなった男の事をふと思い出す。あの男、南部と神崎の連絡はいつもこんな感じだ。他にも二度目がある相手との連絡もそう。必要以上に互いの中には踏み込まない、縛らない。そんな暗黙のルールの中では約束などはなく、今のような曖昧な連絡を取り合うのみ。
 来るかどうかは本人の自由だ。第一、会話もしていないのに来てくれだなんてメッセージを残すのはおかしい。向こうにもこちらにも事情がある。一人で生きているわけでも、誰かのために生きているわけでもないのだ。言葉で縛れるわけがない。
 そんな神崎の考えに最も同調しているのが南部だろう。だから彼との関係が未だに続いているのかもしれない。
 なので、彼に対してなら、今の連絡は何も問題はない。だが――
 神崎は突如焦りにも似た感情に襲われ、思わず強引に車を脇に寄せ縦列駐車の中に割り込んだ。突然スピードを落とされた後続車だった車が、非難のクラクションを鳴らし横を通り過ぎる。だが、それすらも耳を抜けるだけで…。助手席に放っていた携帯を掴み、ぎゅっと握り締める。
 今電話をかけた相手は、自分の留守番電話を聞けばどんなことをしてでも来ようとするだろう、そう努力するだろう。その事は神崎には容易に想像が出来るもの。これでは無理やり約束をこじつけたと言えるのだろう。いや、その事実よりも、彼に対してそうしてしまった事が申し訳なく、そして自分のあまりにも馬鹿な行動に情けなくなる。
 思わず出た言葉がたった一言だったのはどうしてだろうか…。決して相手をいい加減に扱っている気はない。他の誰よりも気をまわしている。なのに、何故…。
 それだけ自分が疲れているということか、苛立っているという事か…。神崎はふと携帯を握っていた手を緩め、息を吐いた。髪をかきあげると額には薄っすらと汗が滲んでおり、小さく苦笑をもらす。
(疲れているのは仕事…? それとも、今のこの関係にだろうか…)
 何処かで終わりたいと願っている自分がいるのかもしれない。そんな事を考え、そして軽く首を振る。いや、それは絶対に嫌だと。
 今の電話のことは些細な事だ。恋人だと、相手に愛していると囁きながら、他の者との関係を持つ。…自分の行動も感情も矛盾しているのだと神崎は気付いている。危険を犯すような行為をし、別れたくないと願っているなど、自分自身理解出来ないものだが、止められない…。
(何をしているんだろうか、僕は…)
 大きな溜息を吐き、深みにはまっていきそうな感情を現実に戻すために、神崎は軽く頬を叩たいた。
 リダイヤルでもう一度電話を鳴らし、先に吹き込んだ言葉足らずの留守録を笑いながら詫びて訂正し、今度はいつも接するように穏やかに言葉を紡ぐ。
 会いたい、と。仕事が終わり都合がついたのなら、店にいるから来てくれると嬉しい。
 わざと甘えたようにそう口にし、通話を切って溜息を吐く。その重い雰囲気をさすように電子音が上がる。手元の携帯を見ると、充電して下さいとの警告が出されていた。神崎は電源を落とし再び助手席へ放る。
 勢いがつきすぎたのか、ガタゴトと音を上げながら、ドアと椅子の間にそれは落ち込んだ。


 しばらく適当に車を走らせ時間を潰したが、それでもアスクについたのは6時前だった。
 7時半開店の店なので、ドアノブにはCLOSEの札がかかっている。だが、躊躇いもせずに神崎は扉を押した。案の定鍵はかかっておらず、チリンと微かに音を鳴らして扉が開いていく。
 初めの頃はバーにベルの音はないだろうと思っていたが、聞き慣れると妙にマッチしていた。耳に心地よいその音色は、客の出入りを知るためというよりは、雰囲気でつけた装飾品でしかないようだ。扉の内側の隅にアンティークな少し黒ずんだ銀色のベルがついている。それには何語かわからない文字と、動物が描かれていた。扉を閉めると、一際大きく音を奏でる。
 薄暗い誰も居ない店。開店前なのでまだテーブルに椅子が逆向きに乗った状態で滑稽な風景に思えてしまうが、シックなデザインで飾られた店内は心を落ち着かせる。床に敷かれた少し古びた木が、それでも自然の香りを覚えさせる。
 神崎がカウンターに座ると、奥の扉から見知った顔が出てきた。席についていた侵入者に驚きもせずに、
「久し振りだな」
 と、口の端を軽く上げる。
 年齢よりかなり若く見え、大学生でも通じる神崎が29だと歳を口にすれば誰もが驚くのだが、この男には負けるというものだろう。この店のマスターである芳養千尋はどう見ても30ほどにしか見えないが、実はもう42なのだというのは周知の事実だ。自分が学生の頃から芳養の事を知っている神崎ではあるが、本当にこの男はこの10年全く変わっておらず、これでも年齢には追いつかないが歳はとっていっている自分とは比べ物にならないもの。
 だからだろうか、芳養の前では自分が幼い子供のように感じてしまう。彼の前ではいつでも昔のように思えてならない。年をとらない目の前の男は奇妙な感覚を神崎に与える。いや、それは神崎にだけではなく他のものにもなのだろうが…。
 尤も、変化がそう大きくない30代だった芳養と10代の自分を比べるのは無理があることで、自分が40代になった時今と変わっている保障はどこにもないのだから、彼が特殊かどうかはわからないのだが。
「忘れられていなくて、何よりですよ」
 同じように神崎は笑いながら、軽く肩を竦めた。
「忘れたくともその方法を知らないからな。相変わらず変わりがないな」
「千尋さんも。尤も、十年前から変わらないけど」
「お前はあの頃と比べれば変わったな」
「当たり前です。変わらないほうがおかしいんですよ」
 くっと喉を鳴らし笑うと、「俺も変わっているんだがな」と芳養も肩を竦めた。  芳養とは神崎が学生バイトでホストクラブのボーイをしていた店で知り合った。彼はホストとしても人間としても一流の男で、客以外の周りの同僚からですら一目置かれていた。店がたたんだのを気に足を洗い、その後小さなバーを開店したのだが、今も周りの心を掴む魅力は衰えておらず、神崎もその魅力に取り付かれた一人なのだろう。尤も、それは一方的なものではなということにどちらも気付いており、口にはしないが互いのそんな関係に満足している。歳の離れた友人とはいかないが、それに近いものなのだろう。
「餓鬼だった奴がいい男になったよな、ホント」
「千尋さんには負けますけどね」
「当たり前だ」
 くくっと笑い声を上げながら、芳養は神崎の前にグラスを置いた。琥珀色の液体の中で、大きな氷がくるりと回る。
「すみません、開店前に」
 神崎はそれに手を伸ばしながら、そう口にした。しかし芳養は、「そう思っているのなら来ていないだろう」とニヤリと笑い、謝罪を受け取りはしない。
「厳しいな。餓鬼じゃないから口先だけでも謝らないと、と思ったんですけど」
「その方が余計に餓鬼っぽい」
「そうかな」
 クスリと笑いながら、神崎は新たなグラスに注がれる液体を眺める。アルコールに溶ける氷がモヤモヤとした模様を描く。それを手に取った芳養に、神崎はグラスを合わせた。カチンと少し鈍い音が上がる。
 柔らかい香りと、芳養との軽口が神崎の中に心地よく染みわたる。

 そんな穏やかな空間が元気な声で遮られた。
「おはようございます!」
 声と共に従業員用の扉から勢いよく店内に入ってきた青年は、芳養と神崎の視線に気付きドアノブに手を掛けたままの格好で固まった。  人がいたことに驚いたのもあるのだろうが、そこに雇い主と見知らぬ綺麗な男が並んでいたからと言うのが最大の理由だろう。芳養自身端整な顔立ちで、同性でも目を止めずに入られない色香を持っているというのに、そんな彼と並んでも衰えない彼以上の美貌を持った神崎とのツーショットは青年には刺激が強すぎたようだ。
 うろたえながらも視線は真っ直ぐ自分へと向けてくる青年を神崎はじっと見返す。
「……え…? あ、あ。え、ま、マスター?」
 見つめ返されて逸らす事が出来ず、青年は頬を染めながらも助けを求めるように口を開いた。声が微かに震えているのに、神崎は笑いをもらす。自然に上がる口角に自分の表情を思い浮かべながら、嫌な笑いだろうなと更に苦笑する。
「お、お、お客様、ですか…?」
 そんな神崎の内面に気付くはずもなく、青年は胸を高鳴らせる。それは傍目からもわかるほどのもので、
「いや、気にするな。準備にかかってくれ」
 そう言ってもまだボーと神崎を見ている青年に、芳養は大きな溜息を落とした。そして、見つめ返したままの神崎の頭を軽く叩く。
「晶、そのくらいにしておけ。
 お前も、見惚れているなよ。全く…」
 青年ははっと気付いた後真っ赤になったかと思うと、バタンと開いた時以上に勢いよく扉を閉じて姿を消した。その行動に、神崎はクスクスと笑いを漏らす。
「からかうなよ」
 芳養の言葉は無視し、「可愛いね」と返す。
「いつから趣味を変えたんですか」
 神崎の言葉に「何のことだ」と芳養は片眉を上げた。
「子供は苦手だったでしょう」
「子供はな。だが、餓鬼は嫌いじゃない。あいつが子供に見えるか?」
「子供でしょう。姿は大きくとも可愛いじゃないですか。餓鬼じゃないですよ、いい子でしょう。大学生ですか?」
「ああ、体育大の教師の卵だ。ま、そういわれれば餓鬼というよりも子供か」
「でしょう。で、どうして?」
 その問いにはやは少し首を捻り「特に理由はないな」と答える。 「強いて言えば、裕樹とウマが合ったから」
「ナルホド」
 もう一人の従業員である青年の名に、神崎は納得したという風に頷いた。彼は誰とでも上手くやれる性格ではあるが、相手が気に入るかどうかには色々と問題があるものだ。天然と言うよりも、変わっている。その言葉の方が似合う青年だ。そんな彼とウマがあう先程の青年は貴重と言うものなのだろう。
「裕樹くんが気に入っているのなら、やはりいい子なんですね」
「いい子すぎて、自分が苛められているのも気付かないくらいだな」
 自身の言葉に芳養は心地よい笑を漏らす。
 そう話している二人の横で、今度はゆっくりと静に扉を開け青年が再び店に入ってきた。先程と違い、わざと目を合わせずに仕事にかかり、モップで床を黙々と拭いている姿に神崎は声には出さずに笑う。
「ね、君」
 テーブルに載っていた椅子を降ろす青年に声をかけるとビクッと肩が震えた。体育大と言うだけあり健康そうに日に焼けているが、そう筋肉が目立つ体ではない。着やせするタイプなのか、肉がつきにくい体質なのか。だが、背は自分より少し低いぐらいだろうが体重は上だろうと神崎は考える。
 医者だからそういう見方をするのか、性的欲求は感じないまでも意識せず勝手に裸体を思い浮かべようという頭が腐っているの現われなのか…。別に他人の体型などに興味はないが、相手を見るとまずはそんな事を考えてしまう。
(…いや、自分より強いか弱いかの材料だ、これは…)
 そう、無意識に女のように、この男なら自分の身は安全だ危険だというように選別している。特にそれが意味のあることではないが、いつの間にか自然にそれを意識するようになった。それは神崎にとっては身を守るためではなく、単なる相手の情報にしか過ぎないのだが。
「名前は何?」
 幼さの残る、少年と言えなくもない青年に神崎は問う。
「え、あ、はい。水島です」
「水島何くん?」
「海です」
「カイってどんな字?」
「ウミです」
「そうか。僕は神崎晶。日が三つの晶」
 視線を逸らし開店準備をしながら答える水島だったが、神崎が名前を名乗ったのに顔を上げ軽く頷く。軽く頬を染めながらも先程と違い学習したのか、少し目を泳がせ視線が合うのを避ける。その姿が余計におかしく、神崎の口角が上がる。
 先程芳養に言った言葉ではないが、本当に子供のような素直な反応で微笑ましい。こういった者が神崎は嫌いではない。自分の醜さを教えられもするが、それ以上に癒される気がする。苛立ちか何かはわからない心の隅にあったモヤモヤとした気分が、一瞬だが忘れられる気がする。
「海くんはいつからここに?」
「えっと、一ヶ月ほど前からです」
「なるほど、僕が知らないはずだな。
 別に千尋さんが隠していたわけじゃないんですね」
「当たり前だ。来なかったのはお前だろう。それより、ナンパなら他所でやれ」
「いやだな、名前聞いただけじゃないですか。千尋さんのところの者に手は出しませんよ」
「是非ともそうして欲しいものだ」
「わかっていますよ」
 そんな芳養と神崎の会話に水島は首を傾げた。会話も見えないが二人の関係も見えない。
「えっと、あの…。やっぱり、お客さま…?」
「まあ、そうだな。こいつは一応常連だ。来ない時はとことん来ない薄情な奴だが、顔は覚えておけ」
「あ、はい」
「って、一度見たら忘れない顔だろうがな」
「どっちらがです。千尋さんには負けますって。
 そうだよね、海くん」
 ニコリと微笑む神崎に、一拍遅れて水島の顔が赤くなる。
「だからいい加減にしろ。懐かせてどうするつもりだよ」
「どうしようか」
 クスクスと笑う神崎に呆れたような溜息を落とし、「水島、手が止まっているぞ」と芳養は注意をする。慌てて準備を始めた水島を見ながら、「ああ、そうだ」と神崎は芳養に視線を向けた。
「千尋さん。車置いていってもいいですか?」
「あぁ。裏へならいいぞ」
「了解。
 っと言うわけで、海くんお願いできるかな?」
「え? …えぇっ!?」
「表においているんだ、裏にまわしておいてくれない?」
 神崎は返事も聞かずに鍵を水島に向けて放った。すると、彼は落とさずに受け取りはしたが慌てて戻しにやって来た。
「ダメです。俺は無理です、絶対に駄目!」
 叫ぶように言いながらカウンターに鍵を置き、勢いよく頭を振る。
「ん? 免許持っていないの?」
「持ってますけど…。マスター…」
 間近で神崎を見る勇気はないのか視線を泳がし、水島は芳養に助けを求めた。その彼と同じように神崎も芳養に視線を向け首を傾げる。
「ヘタクソだってことだ。こいつの運転は度を越している。
 お前今日は何で来たんだ?」
「あぁ、青。
 でも、それだと上手くならないだろう? 練習代わりにやってきてよ。お酒入っちゃったから僕は駄目だし、千尋さんにやらせるわけにはいかないだろう? お願い」
「で、でも」
「大丈夫。そう難しくはないから」
「…マスター…」
 水島は再び芳養に助けを求めるが、彼は肩を竦めただけであった。
 どうしたものかと考える水島に対し、もう一押しかな、と彼で遊び楽しむ神崎。それをいつものことだというように眺める芳養。そんな三人の中に、新たに一人加わる。
「おはようございます。あぁ、晶さん、お久し振りです」
 もう一人の従業員の田澤裕樹が丁度そんな場面に顔を出した。水島と違いこちらは勤め出して3年ほどになるので顔見知りで、にこにこと優しそうな笑顔で挨拶をしてくる田澤に神崎も笑みを返す。
「久し振り、裕樹くん」
「下にアウディがあったんで、晶さんだと思って慌ててのぼってきましたよ」
「あはは、それはそれは」
「ご無沙汰だったじゃないですか、もっと来てくださいよ。
 ん? 海、どうした?」
 神崎ばかりに目がいっていた田澤は、数拍遅れて固まっている水島に気付き声を掛けた。
「…えっと、アウディって・・・?」
「ん? あぁ、晶さんの車だよ。お前も見てくれば。あの滑らかな車体はなんとも言えないよ。凄く綺麗だよ、ホント」
「実は今彼に車を裏にまわして欲しいって頼んでいたんだ」
 神崎の言葉に田澤が「えっ! 本気ですか!?」と驚きの声を上げた。
「そんな、僕がやりますよ、晶さん。こいつの運転じゃ、裏までまわせませんよ」
「…そんなに酷いのかい?」 「えぇ、どうして免許が取れたのか不思議です」
 それを言うならば田澤もだが、と神崎は心の中で笑う。彼は見た目は大人しそうで実際にも人のいいお兄さんと言った感じで少々変わったところも愛嬌なのだが、ハンドルを握らせるとガラリと性格が変わる。いや、性格が変わるというよりも、やはり運転に対しての考え方が変わっているというのだろうか。普段の柔らかい素のままの笑顔で、一般道でF1さながらの運転を披露するのだ。何度か神崎も助手席に乗せてもらった事はあるのだが、それはそれは楽しいものだった。口調が変わったりするのなら止める事も出来るのだが、「大丈夫ですよ」とニコリと微笑まれては怒る気がなくなるというもの。
 安全とは言えないがそれに見合うだけの技術があるので、事故を起こした事は一度もなく、奇跡的に点数を引かれたこともないらしいが、それは時間の問題なのかもしれない。免許を剥奪されたとしても田澤なら当たり前と納得出来るものだ。
 そんな自分を棚に置き、水島だけははやめておいた方がいいと田澤は神崎に力んだ。
「そうなのか。でも、それならますます練習しないと。裕樹くんが見ててあげればいいじゃないか」
「でも、そんな…。アウディって外車なんでしょう!?」
「おっ。さすがの運動馬鹿でもそれくらいは知っていたか」
「う〜ん、換えていないから確かに左ハンドルだけど、別に右とそうかわらないよ」
 神崎の言葉に、水島が「そんなことは言わないで下さいよ」とばかりに涙目で訴える。
 何だかんだと言っても免許を取れているのだからそれなりに乗れるのだろうが、本人は運転する気がなければどうにもならないもの。だが、神崎は「ホント、変わらないって、大丈夫」とニコリと微笑みもう一度鍵を差し出した。
「でも、もしぶつけたら…」
「いいよ、車なんだから壊れるのは仕方がない。それに、なくなっても別にいいから。まだ他にもあるし」
「他って…?」
「黒と黄色、後は…何だった?」
 芳養がグラスを磨きながら問う。
「白」
「へ…? …黒と黄色と、白?」
 意味を掴み損ねて、水島が首を傾げる。その横で、田澤も芳養に倣い用意をはじめる。
「こいつは4台車を持っていて、通称、アウディが青、ベンツが黄色、BMWが黒、と車体の色で呼んでいるんだよ。っで、白は?」
「白もベンツだよ」
「それって何ですか?」
「えっと、Sクラスだったかな、確か」
「うわおっ。今度乗らせてくださいよ」
「うん、いいよ。何ならあげようか」
「いや、それは遠慮します」
 田澤の言葉に神崎が笑うと「程々にしろよ」と芳養が呆れたように笑った。
 今ある4台とも、神崎が自分で買ったものではない。いや、そもそも今までに手元にあった車は両手では足りないぐらいだったが、自ら買い求めたものは一台もなかった。それは車だけに限らず生活の殆どのものがそうだろう。マンションですら与えられたもので、それは一つではない。
 異常だと思う。それを受ける自分もそうだが、こんな自分に惜しげもなく物を与える者達を。物の代わりに体を差し出すフィフティフィフティの関係ならば、多少の貢物は受け取ってもおかしくないとは思う。だが、ここまで来ると感覚的に神崎も理解できずについていけないといった思いがある。その中には、体はおろか年に数回食事に行くだけの間柄でホテルの一室を常に借りきり鍵を神崎に渡している者までいる。正直、その思考を考えると理解を越え純粋に恐怖を感じずにはいられなくなるくらい異様な事だ。だが、神崎はそれを切りはせず受け取る。おかしいと思いつつ切れない。切る事が出来ない。
 大抵の者はその内去っていくので切る必要がないというのもあるが、自分から動く気になれないのだ、…怖くて。そんな常識外れの異常な思いでも、それに触れていたいのだ…。
 弱いというのではなく、卑怯なのだと自覚している。だが、止められない。
 この歳で何台もの高価な車を持っている事を知り驚く水島にそれだけではないのだと話せば、驚愕以上に嫌悪を感じるだろう。あえて口にするつもりはないが、微かな罪悪感が胸を刺激する。それは自分が彼を子供だと感じているからだろうか…。
「次は赤か緑か、って感じですね」
 物腰の柔らかそうな青年ではあるが、少々天然と喰えない面を持った田澤が、何の気なしに純粋にそう言い笑う。貢がれる神崎をおかしいとも思わない者も確かにこうしていることはいるのだがそれは極少数だ。
 それが悲しいわけではなく、逆にこんな自分が人に受け入れられている事の方が嫌になる。田澤はともかく、自身や子供の担当医である、医者として自分と付き合う者の中にも異様な関係を結んでいる者もいる。原因は自分だが、時々それが嫌になる。こんな自分を認めるなど合ってはならない事なのに…。
 そんな考えを持ち出すと切りがなく、結局は事の発端は自分自身で、この生活を止める気がないのであれば終わる事がないのだから、答えなど出ないというもの。一番異常なのは、自分自身。
「う〜ん、もう必要ないからね。ホント、千尋さんの言うように程々にしないと。」  神崎は軽く笑い肩を竦めながら、変わっていない、そう思った。昔から自分は何一つ変わっていないと。
 ただ、外見を取り繕う術が長けただけだ。
「それに、赤は乗る事はないね、多分。嫌いなんだ、赤い車は」
 そう答えながら、先日、どうしても真っ赤なポルシェを贈りたいのだという社長令嬢を説得した事を思い出す。まだその彼女の場合は買ってあげるねと先に言ってきたので断ることが出来た。だがそんな者ばかりではない。黄色のベンツは現物を持ってきて「はい、どうぞ」だった。この先もそういう事があるかもしれず、赤い車が手元に来る可能性はゼロではない。だが、来たとしても自分は乗らないだろう。
「どうしてですか?」
 水島の質問に、「いや、何となくね」と笑いを浮かべる。
 別に車内にいる限りその車の色などそう影響があるわけではないので、乗る事はおろか運転も出来るだろう。だが、自分が使用しているものという点では、何となく認めたくないのだ。赤い車は。赤い色自体は嫌いではない、ただ、赤い車が嫌いなのだ。
 神崎自身何故嫌うのかわからないが、色の好き嫌いなどさほど理由などないというものだろう。
「ま、確かに。美形の男が原色の赤の外車なんて乗ったら、妖しいを通り越して怖いよな」  芳養の言葉に神崎は「酷いなぁ」と笑いながら、呆けたようにしている水島の手に鍵を握らせた。
「そんなことより、車、よろしくね」

2002/08/02
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