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 ある海辺の国に、一人の王子がいました。
 母親を早くに亡くし、慕っていた実兄も城を出て行ってから、王子は常に寂しさを抱えていました。
 そして、その寂しさは、いつの頃からか身近に居る唯一の肉親へと向かっていきました。

 王子と、国王である父親との関係が上手くいっていないのは、周囲も知るところでした。
 特に、国王陛下が新たに妃を娶ってからは、修復は困難だと誰もが思うほどです。

 今日もまた、王宮には親子の言い争う声が響いております。


「五月蝿いッ! そんなに俺が嫌なら、もう放っておけよ!!」
「ヤマト、待ちなさいッ!」
「アンタにはウンザリなんだよッ!」

 父親であろうとも、腐っても国王です。呼ばれれば出向かない訳にはいかないと、渋々ながらも顔をあわせてみれば、幾らも経たないうちにこうして飛び出す始末。一体同じことを何度繰り返すのでしょうか。
 数を重ねる度に、王子の鬱屈は溜まっていっています。そのことに自分でも気付いている王子は、堪らないと奥歯を噛み締め不快を紛らわそうとしますが、上手くはいきません。

 足早に王子が通路を進んでいると、側近が追いついてきました。

「ヤマト王子。俺だってこんなことはホントは言いたくないんだけどな」
「なら、言うなよ」
「この立場ではそれが許されない、察しろ。汲んでくれ」
「知るかよ。付いて来るな」
「兎に角、陛下と子供みたいに遣り合うな。それでなくとも、向こうの息子の方が優秀で大人なんだぞ。その立場を追われたらお前だって困るだろう」
「……」

 遠慮ない従者はいつも、王子の痛いところを適確についてきます。
 確かに、父王の前に立つだけで、抑えられない苛立ちが沸き、それに押されるがまま声を荒げてしまう自分を、王子自身みっともないと思っています。継母妃の連れ子である義理の兄が、自分と比べるまでもなく全てにおいて秀でた人物であるということもまた、王子はわかっております。
 故に、言い返したい気持ちはあれど、言い返す術はありません。

「……もういい、五月蝿い。ひとりにしろ」
「王子!」
「ついてくるな。これは、お願いじゃなく命令だからな…!」

 王子は従者を払いのけ、ひとり海を目指しました。頭を冷やそうと考えたのもありますが、海は王子を癒してくれるからです。子供の頃から身近に聞いてきた波の音に、いつの頃からか自分を優しく包むような、慈しんでくれているような感覚を抱くようになっていました。
 今の王子にとって、海は唯一の安らぎとも言えるのです。


 二年前のことです。
 あの日も、王子は父王と言い争いをし、従者の制止を振り切り城を飛び出しました。そして、天候が良くないのに気付きつつ、船で海に出てしまいました。
 その船は、王子が幼い頃に城を出た実兄に貰ったもので、一人になりたい時はよくそうして沖へと漕ぎ出しておりました。
 しかし、その日はいつものように気持ちが落ち着くよりも早く海が荒れ始め、岸に戻ろうとする王子を弄ぶように激しく船が揺れ、あっと思う間もなく王子は海へと放り出されてしまったのです。

 王子が覚えているのは、暗い空と同じく暗い海に飲まれたところまでです。
 次に気が付いた時には、王子はもう自室のベッドで休んでいました。
 船に乗り出かけてから、三日経っていました。その間に自分の身に何があったのか、王子は一切覚えていません。
 ですが、そんなことよりも。
 目覚めた王子に知らされたのは、父王の再婚でした。

 あの日を機に、王子の父王に対する頑なさに拍車がかかり、二人の関係は悪化の一途を辿っているのです。


 城から離れるように浜辺を歩いていた王子は、小さな人だかりが出来ていることに気付き、物思いを振り払いました。
 それでも、意識は未だ父王への怒りに染まっているのか、何となく気にかけながらも、王子はゆっくりとした歩を変えずにいました。
 しかし、相手の方に余裕がなかったのか、警戒でもしたのでしょうか。王子が辿り着く前にそれは分散しました。まるで蜘蛛の子が散るように。
 砂浜が途切れ、岩が剥き出しはじめるちょうど磯場の入口に残った影は、ひとつ。
 散っていく面々に視線を向け、その姿から近くの村の子供達らしいと見送った王子は、浜辺へと顔を戻したところでそのおかしさに気付きました。

「…………」

 潮が引いた磯辺に残ったそれは。
 上半身は、自分と変わらない作りである、人間の男のものであるのに。
 下半身を覆うのは、きらりと光る鱗。

 そう、魚そのものだったのです。

「……半漁人…?」

 あと数十歩の距離を残して立ち止まった王子は、その不思議な生き物をよく眺めました。
 そんな王子と同じように、その生き物もまた、王子に気付き顔をあげ、じっと見つめ返してきます。
 その顔も、身体つきも、人間ならば自分よりも年嵩だと思えるものでしたが、王子の頭の中でそれは意味のあるものにはなりませんでした。

「…何してんだよ、半漁人」
「……」
「潮に乗り遅れたか、マヌケだな。それで、子供達に虐められていたか? …大した半漁人だな」
「……」
「…何だよ。半漁人は喋れないのか?」
「……いや、喋れる」
「だったら、喋れよ。反応しろ」
「…何を言えばいいのか、考えていた」

 今さっきまで子供とは言え人間にやっつけられようとしていたのに、自分を怯える事もせず、かといって敵意を剥き出すわけでもないく真っ直ぐと、ただ静かに見上げてくるそれを、王子はとても面白く思いました。
 尊大な物言いにさえ眉ひとつ動かさない態度は、逆に毒気を抜かれつもので。王子は構えかけていた力を体から抜きました。

「じゃ、考えろ。待ってやるから」

 腐っていた気持ちが吹き飛んだお礼ではないのでしょうが、王子はそう言って浜辺に残されたマヌケな生き物の横に腰を下ろします。

「っていうか、半漁人を否定したらどうだ?」

 人魚だろ?と、王子は太陽の光を受けて虹色に輝く尾鰭に目をやり、ニヤリと口元を歪めました。同じ人魚に会うのなら、美人な女の人魚が良かったから虐めてみちゃったと。詫びれもせずに告白しながら、王子は相手の反応を待ちました。
 改めて見ると、流石というべきか、人魚は整った顔立ちをしています。王城にある彫刻よりも端正だと、王子は飽きずにそれを眺め続けました。

「行かないか」

 たっぷりと時間を掛けてから紡がれた言葉に、整った顔を見つめたまま、王子はクイッ首を傾げました。

「…何処へ?」
「海へ」
「海…?」

 行くもなにも、ここは海だ。もう来ていると、寄せる波に視線を飛ばし、疑問を解消出来ないまま王子はまた横の人魚を眺めます。

 そんな、不思議を貼り付けた王子に。
 人魚は変わらず静かに、言葉を紡ぎました。


「お前を海の中へ招待する」


2009/07/01