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陸で暮らす人間は知らないことですが。
海には、海の国が存在します。
そして、そこには海の王がおり、現在は次期後継者も既に決まっていることもあり、平和な状態にあります。
けれど、その後継者は既に王と変わりない能力を発揮しながらも、海ではないところへと心が向いていました。
人間の、海辺の国の王子へと。
「まだ、夢みたいだ」
「気晴らしになったか?」
「ああ、勿論」
人魚が海の中へと誘った時は怪訝な顔をしていた王子も、実際に人魚に手を取られ海中へと導かれると、驚きばかりをそこへ乗せました。そして、それは、人魚がもう一度見たいと思っていた笑顔へと繋がりました。
人間だけでは見付けることは出来ない海の国のあちこちを見せて回り、人魚は最後に、いつも己がよく来る場所へと王子を連れてきました。
そこは、なんて事はない岩の上です。周囲のそれよりも大きく、今は海面よりも高いですが、満潮になれば沈んでしまう岩。ですが、それがこの人魚のお気に入りでした。
理由は、少し離れた場所ながらも、そこから海辺の崖に聳える城がよく見えるからです。
そう、王子がよく姿を見せるバルコニーも。
けれど、王子はその事に気付きませんでした。海面に顔を出すと、夕日が海に沈むところで、陸の方ではなくそちらに気を取られてしまったからです。
ですが、人魚はそれでよいと思いました。
この王子に、余計なことを知らせる必要はないのだと。
「不思議だな。時々城からこうして日が落ちるのを見ているけど、いつもと違って見える」
「そうか」
「おかしいんだ…なんだか、懐かしいって言うか――前にもこうして海から夕日を見たような気がする」
「…場所は違えど、お前がいつも見ているものと同じだからだろう」
「うん、そうなんだろうけど…」
それでも、懐かしい。そう呟くように言う王子の横顔から視線を外し、人魚もまた空も海も紅く染める存在を見つめます。
けれど、その頭の中にあるのは、王子が示した言葉の真実でした。
そう、王子がこうしてここで夕日を見るのが二度目である事を、人魚は知っているのです。
「戻ろう」
「もう少し」
「城の者が心配する」
「……ああ、そうだな…」
完全に日が沈んでも名残惜しげにする王子に、それでも人魚が言葉を重ねると、王子は諦めに慣れた様子で人魚が差し出した手を取りました。
重ねた手を意識するのは、人魚ばかり。
「……」
「どうし……ぁ!」
再び海へ導かれるのかと思っていたのでしょう王子は、手を取っても動かない人魚に首を傾げました。しかし、どうしたのかと聞き終える前に、人魚は王子を腕の中へと捕らえます。
何事だと驚きに固まる王子の身体を、人魚は一度強く抱き締めました。
そして、拘束を解き身体を離し、今度は顎を捕らえて王子の顔を上げさせます。
「え…? ァ、ぅ……、…ンッ」
人魚が王子の唇に唇を重ねると、王子は小さく唸るようにうめきましたが、直ぐに掠れた甘い声を上げました。
王子の頭は混乱するよりも早く、さっと霧が広がるように霞み、何を考え、何を感じればいいのかわからなくなっていきました。最後まで残ったのは、身体に触れる温もりです。
そうして、そのまま人魚に体を預けるようにして、王子は意識を手放しました。
「ヤマト…」
腕の中で気を失った王子へと呼びかける人魚の声は、誰も聞いた事がないような優しく甘いものです。
人魚は王子の身体を抱えて海へと潜り、浜辺を目指しました。
二年前にもそうしたように、城の側の細かな砂が敷かれた場所に、人魚は丁寧に王子の身体を横たえます。
明日には目を覚ますでしょうが、その前に城の者に発見されるでしょう。だからこそ、この場を選んだのですから、早く去らねばならないのは人魚にもわかっていました。
ですが、再び王子の記憶が消えるのであれ、こうして今目の前にその存在が居る現実を手放すことはとても惜しく、去りがたくて胸が痛みます。
海の国に人間を連れてきた時には、必ずせねばならぬ掟があります。
それは、その人間の海での記憶を消すか、一生海に留めるか、人間の国で死を与えるか。そのいずれかをしなければならないと、海の国を守る為にそう決まっているのです。
後継者として、人魚がその掟を破る事は絶対にありえません。
ですから、今回も、王子の記憶から自分を含めた全ての事を消し去る方法を人魚は選びました。
あの口づけがそうです。
一度は出来たからこそ今度も大丈夫だと、胸の痛みに気付きながらもそれを選んだ人魚ですが。二度目のそれは、一度目のそれよりも辛いものでした。
以前から、海の近くにある人間の国の王子の事は知っていました。同じ様にいずれ国を背負う後継者であるにもかかわらず、まるで自分と違うその王子に多少の興味はありましたが、それでもまだほんの小さな感情でした。
ある時、ある者に言われて出向いた先で、人魚は沈みかけた船に遭遇しました。そこに乗っていたのが、王子でした。
人魚は王子を助けました。
助けた王子と、短い時をともに過ごしました。
そして、人魚は王子の記憶を奪い、王子を王子が居るべき場所に帰しました。
あれから二年。人魚は毎日のように城を見に行き、王子の姿を探していました。時には、声が聞こえる場所まで近付いたことがあります。
城から聞こえてくる王子の声は大抵、父王との諍いでした。それでも、人魚にとっては貴重なものでした。
そう、人魚は王子に恋をしていたのです。
ゆっくりと、それでも確実に、この二年の間で育ったその感情が、今夜の人魚にとっては辛さを与えるものとなっていました。
どれほどまでに自分が王子を必要としているのか、自分が思っていた以上の思いであることに人魚は気付きました。
「……ヤマト」
呟かれた声は、眠っている王子の上に落ち、受け取られずに風へと融けていきます。
寄せては返る波の音よりも小さなそれが、再び零れることはなく。
人魚はいま一度王子の唇に軽く触れ、聳え立つ城を仰ぎ見ました。
その胸に宿る人魚の決意を、瞬く星が見つめます。
月明かりが照らす浜辺で、従者により王子が発見された時には。
人魚の姿はもうどこにもありませんでした。
2009/07/08