君を呼ぶ世界 3


 地球では絶対に見ることができない星々に見下ろされながら、オレが出来るのは。
 ただ、笑う事のみだ。

 突然笑い声を上げたオレに、爺さんは逃げる事もせず。
 怪訝な表情を作りつつも、そこに心配げな色を浮かべた。
 肩で息つくほどに上げていた声を押さえ、爺さんに悪いと謝るのだけど。直ぐにまた声は震え、なかなか笑いは収まらない。
 腹を抱え座り込みながら空に目をやりもう一度笑い、大きな息を何度もつき、意識して身体を大人しくさせる。
 笑い疲れた。
 全てに疲れた。
 半日間不安を覚えつつも、それ以上の緊張で何も出来ず、考えられずに居たオレに。与えられたのは、異世界なんていう、ありえない話。けれど、爺さんも、そして夜空も、それを証明するようなもので。
 笑う以外に何が出来るというのか。
 絶望すら、覚えない。
「オレが知っている夜の空は、点のように小さな星と、満ち欠けする月がひとつあるだけだ」
 薄っすらと色付く大きな星々を見ながら立ち上がり、「本当に、オレが知らない世界みたいだ」と爺さんに顔を向ける。
「でも、こんな事は、ありえない」
「……」
「ありえないけど、これがオレにとっての事実に変わりはない」
 そう、例え夢であっても、何であっても。今ここに居るオレにとっては、この驚くべき事が全てで。
「っで、ここは異世界のどこな訳?」
 数歩の距離をゆっくり縮めながら聞いたオレに、爺さんは暫く無言でオレを見つめ、「…大したものだな」とどこか自嘲するかのような小さな笑いを零した。
「爺さん?」
「そなたは、この世界を知らないのだな」
「ああ、ここが地球じゃないのなら、知らないよ」
 異世界だというその言葉が正しいのならばねと、今度は俺が自嘲気味に笑う。
 今さっき会ったばかりだけれど、俺の中には爺さんを疑う気持ちは全くない。逆に、半日心細かったからか、口にされるのは聞きたくないような言葉ばかりであっても、安心感を覚えている。
 だから。ここが生まれ育った場所でも惑星でもない事を信じるのに、抵抗はない。馴染むようなことはないけれど、爺さんの言葉をすんなり耳に入れられる。
「ここは、フィリーという世界だ。大小約三十の国があり、この地はハギ国ガジャリ村の近くだ」
「爺さんは、その村に住んでいるのか? オレを連れて行って、大丈夫?」
「村では住んでいない。少し離れた森の中での一人暮らしだ」
 冷えてきただろう、急ぐぞと。オレの背中を軽く押し、止まっていた足の動きを再開させる。
 爺さんに倣い並び歩きながら、つまり今のは「遠慮をするな」という事だろうかと考え、少し嬉しさがこみ上げる。だが、逆に。短剣を持っているようなくせして、無用心すぎるんじゃないのかとも思う。異世界に飛ばされた事で発狂したオレが、目の前の人物である爺さんに危害を加えるかもしれない――何て心配はしていないのだろうか?
 まさか、もの凄く腕に自信があるとか?
 だったら、用心しないとダメなのはオレか?
「気付いたら、川の中に居たと言ったな?」
 だけど、用心といってもなあ。出来る事はないぞと、妄想気味の思考に支配されつつあったオレの耳に、爺さんの質問が飛び込んでくる。慌てて現実に戻りその言葉に頷くと、「…何か、持っていなかったか?」と硬い表情で訊ねられた。
 ……まさか、異界グッズが狙いなのか? 
 だが、生憎所持品など何ひとつない。
「悪いけど、持っていない。この身ひとつだけだよ」
 ま、財布やケータイを持っていても、どうにもならないのだろうし。こちらでの興味を引くようなものも、狙われるのならば最初からない方がいいし。身軽で良かったと思うべきなのだろう。
 正直に言えば。昨日の二次会のビンゴゲームであてた日本酒くらい持参したかったのだが。今更どうにもならない。
 そう納得しつつ肩を竦めると、今度は怪我をしていなかったか?と訊かれる。どうやら、爺さんは心配してくれているようだ。それか、オレが本当にあの川縁に飛んできたのか、それとも流れついただけなのかを考えているのか。どちらにしろ、オレの事をオレ以上に気にしてくれているらしい。
 物取り目的ではないようだ。
 普通に、イイ爺さんだ。
「大丈夫。打ったり切ったりはしていない」
「異変は?」
「全くない。空間移動したのだろう割には、頭ひとつ痛くないんだよな、これが」
 これから頭痛になるだろう種は沢山あるけど、ダルさひとつない。昨日の酒すら、一滴も残っていないようだ。
 そう思い、いや、だからこそオレは川の中で寝ていたのだろうかとも考え付く。酒のせいで、異世界に飛ばされ水に沈められてもなお爆睡していたのかもしれない。情けない。
 どんだけ鈍感なんだかと、自分に呆れる俺がふと気付けば、隣にいるはずの爺さんが居なくて。またかよと見回せば、道を曲がったわけではなく、足を止めただけのようで。数歩後ろで佇む爺さんをオレは呼んだのだけど。
「そなたは、ミコではないのだな」
 顔を上げ、真っ直ぐオレを見た爺さんの目が、星明りを受けテラリと鈍く光る。
「……ミコ? ミコって、ミコちゃん? 女の子?」
 いやいや、オレは男の子。ミコじゃないくメイだよ。なんて。
 姓はカシオ、名はメイだと。ボケ気味にも告げたオレに「この世界では民には姓はない」と真面目に返してきた爺さんが、きちんとミコちゃんの話に軌道を修正する。
「神の子だ」
「神って、…神様?」
 異世界といえば、お約束である「巫女」ではなかったけれど。
 そうだと頷く爺さんを見ながら、それもどうかなと思う。この世界の神様なんて、オレは誰一人として知るはずがないのに、そんな事をいわれても。それとも、ここは日本にいるという八百万の神のうちの誰かの国か?
 例えそうだとしても、オレには関係ないはずなんだけど?
「…いや、オレは普通の人間。父さん母さんの子供。親戚にも神様は居ないよ…多分」
「神子は異界で生まれ育つ」
「……へえ、そうなの」
 いきなり何の話しかと。この世界のことも全く知らないのに、宗教か?と。若干逃げ腰体勢になりつつも応えていたオレだけど。爺さんの言葉に、ドン引きすればいいのか、食いつけばいいのか決めかねる。
「この世界は、神子を異界から呼ぶ」
「……」
「もしやと思った。だが、そなたは何も知らない」
 だから、神子ではないのだなと、ひとり納得する爺さんに。けれどもオレは何だかとても嫌な事を聞いた気分になって。
 ここが異世界だといわれた時にも起きなかった動悸に、片手で胸を抑える。

 別の世界で生まれ育った、神子を呼ぶ…?
 呼ぶって、なんだ?


2008/07/09
2 君を呼ぶ世界 4