君を呼ぶ世界 9
王都までは、慣れた旅人でも十日はかかるらしい。
意気揚々――とまではいかないけれど。
力強く踏み出した一歩。
靴底に感じるのは、慣れ親しんだアスファルトでもセメントでもない、固い土。
気を抜けば、冷たさまで感じてしまうのではないかと思うそれを伝い、目指すはこの国の王都。
漸くオレサマの冒険の始まりだ!と、片手を天に突き出し吼えてみたい気もするけれど。流石に、そこまで楽天的にも陽気にもなれない。世界が広がることに対しては、まだ恐れの方が大きい。
沢山のことを知りたいと思うが、知れば知るほど、希望を絶たれてしまうのかもしれなくて。
出発早々から遅いペースなのであろう事を自覚しつつも、ゆっくり歩く。
景色を眺めて。
自分を宥めて。
今は、オレの現実はここにしかないのだと、自分の全てに教え込む。
川の中で目覚めた異世界一日目は興奮状態で気付かなかったが。
爺さんの看病をしつつも一度浅い眠りについてからの二日目以降、本当にこれは夢ではないのだと実感するにつれ、精神が追い詰められていく感覚を常に味わい続けている気がする。
焦っても仕方がないと思うし、嘆いてもどうにもならないと思う。それは、絶対だ。
だから、頭ではちゃんとわかっているのだ。これが現実だと受け入れ、一日ずつでも、きちんと生きていく事を考えねばならないのだとわかっている。今日の事をこなせるようになったら、明日を。明日以降も考える余裕が出来たら、明後日のことを、明々後日のことを。
そうやって、ここでの生活を営んでいかねばと、突然それまでの日常を奪われたオレだからこそ良くわかっている。運命の扉はもう開いて、閉じたのだ。どうして、何故、とばかり思っていても役には立たない。自分でどうにかするしかない。
オレがいま居るのは、ここなのだから。
だけど。
そういう思いとは別なところで。努力ではどうにもならない意識下で、パニックが継続し続けている感じがする。水面下の波が、オレの平行感覚を奪うようだ。張り詰める緊張に、酔い続けている。
狂いはしないが、それはとても身近であり無視も出来ない類に厄介で。
そんな状態で、ぐっすりと眠れるはずもなく。溜まる疲れは、更に心を重くする。
その叫びそうになる中でオレが選んだのは、自分の事を考え嘆くのではなく。ただ、ひたすらに両親を想うことだった。
彼らの事を思い続けているからこそ、保てる正気。
災難に見舞われたオレも不運だが、面倒見のよい爺さんに助けられ、こうして自由に旅にまで出れるのだから不幸ではないのだろう。だが、両親は、突然オレが消えた事により苦しむだろう。何ひとつ訳も知らずに子供を失う絶望を、彼らは再び味わうのだから、それを思えばオレは嘆いてなんていられない。
力なんてないけれど。だけど、こんな非現実的な事が起こるのだから、同じように俺の声だけでも彼らに届いたとしても不思議ではない。っていうか、むしろ想いの全てよ届け!って感じだ。
彼らに、オレは大丈夫だと。
それこそ、どこのどんな神サマだっていいから、伝えて欲しい。
心配は要らないからと何度も何度も繰り返し、平気だからとこの強がりを本物にする為に。オレは彼らの幸せを祈り続け、今なお願っている。この世界にいる限り、止める事はないだろう。
そんなオレを、爺さんは強いなと言った。
けれど。強いのではなく、彼らを思う事でオレは強さを得ているだけなのだ。
だから、オレは頑張れる。頑張る。頑張ろう。
ここでもやっていけるさと、どうにかなるさと笑って決めた旅。
全てが初めて見る景色ではあるが、新鮮なそれはどこか懐かしくも感じるもので、一歩進むごとに生まれ変わっていく気さえする。
大丈夫だけではなく。いつの日か、楽しくやっているからとオレは遠い彼らに念を送るのだろう。
草花の息吹を感じる空気を胸いっぱいに取り込み、大自然だぞ、羨ましがれと心で彼らをからかう。
都会の人間は、自然に弱いものだ。爺さんとの別れを寂しく思ってから半日も経たない間に、現金にもオレは心を弾ませている。
オレってやると思わないか?と、心で片割れに語りかける余裕まで発揮してみたり。
正直に言えば、半分は空元気。
だけど、それでもいいはずだ。
残り半分は、確かにこの先を見ているのだから。今はこれで充分だろう。
これがもしも、見慣れた風景だったのならば、帰りたいと懐かしさがこみ上げてくるのかもしれないが。ビルに囲まれた中で育ったオレにとっては、非日常。ある意味、落ちたのがここで良かったのかもしれない。余りにも違いすぎて逆に諦めがつくし、新鮮でワクワクもする。
何も考えず、緑の空気を吸って、太陽の日差しを浴びて、流れる水の音を聞いたならば。ここに居る事に満足さえ覚えそうだ。心細さも忘れるような、開放感。
それでも、ごみごみとした都会が懐かしいのに変わりはない。オレにはあの方があっている。自然なんて、たまの旅行で充分なのかもしれない。
未来の予定はなかったが、けれども来年には大学を卒業して、内定を貰った会社に就職して、仕事に追われながらも恋をして。いつか結婚をして、子供を作って、家族を作って。思春期になった子供に嫌われて、成長した子供の結婚式で泣いたりして。そんな風に幸せに暮らしていき、老後を迎えた時は趣味に没頭して奥さんに邪魔だと言われたり。なんて。
本心と言うよりも、喪失感からしがみ付くように、そんなことを頭で巡らせる。
いつか来ると信じきっていて、大事だとも思わなかった、オレの未来。
なくした実感は、まだ言うほどもないが。それでも少しは胸を痛めるもので。
考えてはきりがないから、考えない。後ろではなく前を見よう。そうでないと、転んでしまうかもしれないし。
空気が美味い、癒される。
今は、これだけでいい。いい事にしよう。
不満なんて、言い出したら尽きることはないだろうから。
強がだと知りつつも、それだけが今のオレが頼れるものだから。
ただひたすらに、前を向く。
「そう、東京への未練をおいて置けば。得るのはマイナスイオンなんだし、その方が健康的じゃん」
だから、とりあえず、自然を満喫しながら進もう。
声に出して頑張れオレと励まし振り上げた手が、低い木の枝を叩く。
引っ掛けた指の擦り傷を舐めながらオレは笑い、もう何度目になるのだろうか空を見る。
天高く昇った太陽が、変わらずオレを見下ろしていた。
2008/07/24