君を呼ぶ世界 16


 王都へ向けて出発した五日目。オレは若い男と出会った。

 お腹が空くよりも、宿の心配よりも。旅の中で一番気に掛かるのは、案外トイレだったりする。
 腹も宿もいざとなればどうにか出来るが、こればかりはそうもいかない。かなりの死活問題だ。外での排泄に慣れてはきたが、場所選びはまだまだだ。どこがいいのか決めかねて右往左往する自分は、かなり滑稽だと思う。
「日本の若者にはあるまじき行為だから、仕方がないんだけども……絶対知り合いには見せたくないよなぁ」
 トイレ整備が整っていないような国へ、一度は観光に行くべきだったかと思いながら、道から外れ森の中へとオレは進む。昨日同様、擦れ違う人が多い今日。奥まで進まねば、通行人に立ちションを目撃されてしまうだろう。
 見られたところで、この国では軽犯罪にもならないんだろうけど。だからって見せる趣味はないからなと、オレは恥らいを持つ若者なんだと、草を踏み倒し適当に奥へ入り込む。
 木々が覆い茂ってはいるが、森の中は結構明るい。細長い葉を千切り、笹舟もどきを作ってみる。不恰好だ、これなら沈む。もう一度トライ…じゃない。
 それよりも、出すが先。
「ごめんな。ちょっと、失礼させて」
 目に付いた太い木に片手を当てて謝罪し、根元に用を足す。栄養になるのかもしれないが正直いい気はしないので、後ろめたさ故に声を掛けるのがいつの間にか習慣になっているのだが。
 終わって服を整え、ありがとうと言ったところで、上から笑い声が降ってきた。ビックリだ。
「ハイィ?」
 何で、笑い声。まさか怪奇現象か?と見上げたオレの視界の中で、三メートル程の高さの枝に腰掛けた男が、今まさに飛び降りようとしていた。
 身体が宙に浮く光景に、唖然としながらも反射的に足を一歩引く。
 そのまま逃げればよかったのかもしれないが、すぐに言う事を聞くような身体でもなくて。
 次の瞬間には、男はオレの斜め後ろに立っていた。落下する姿を追って首だけで振り返った姿勢のまま凝視するオレに、こちらを向いた男が笑って肩を竦める。
「そう驚くな。むしろ、驚いたのはこっちだ」
 笑って飛び降りてくるような奴が、何を言う。笑顔は爽やかだが、残念な事におかしいらしいぞ、この男。
「…何してたんだ?」
「休憩」
 木の上で休憩? 猿か? いや、猿じゃなく――
「――のぞき魔?」
「オレの意志じゃない」
「…見た事を否定しろ」
「それは出来ないな」
 木に向かって喋っているから、何をするのかと思って見てしまったと。平然とぬかす男にオレもまた肩を竦める。
 変わった男だ。顔は男前なのに、勿体無い。男の立ちションなど無視しろ阿呆。
 だけど、この男は何なんだかなと溜息を漏らしかけた時、オレの目に飛び込んできたのは長い剣で。爺さんが持っていたような、日常生活に必要なんですといったものじゃなく、戦う為だと思える細身だが立派な剣で。
 口腔まで上がってきていた息を思わず飲み込んでしまう。
「……えっと、まあ、何だ、その…。兎に角、邪魔して悪かったよ」
 不可抗力であっても、女の子ならそれでも「スケベ変態サイテー!」と言えるのだろうけど。オレが注意不足だったのは確かであり、この男とて見たくて覗いていたわけでもないのだろうと、とりあえず謝っておく事にする。決して剣にビビったわけではないが、冷静になる材料だったのは事実だ。
 この不躾さは少し納得できないが、見られた事は拘るようなものでもない。ただの立ちションだ。
「もう行くから、どうぞ休憩を続けてくれ」
 変な奴に会った場合は、穏便に済ませて逃げるに限る。
 そう判断し、じゃあなと立ち去る道を選んだのだけど。
 数歩も行かないうちに、男はオレの横に並んできた。
「ナニ?」
 さっさと不思議の国の猫のように、木の上に戻ってくれよお兄さん。
「ついてくる気かよ?」
「方向が同じなだけだろう、警戒するな」
 されているとわかっているのなら、寄ってくるな。オレはまだ、木に話しかけたのを目撃され笑われた恥ずかしさは消えていないんだ。ナイーブなオレを一人にして欲しい。
 けれど、そんなオレの心情など知らない男は、先程の遣り取りはなかったかのように、気さくに話し掛けてくる。
「休憩は終わりだ。雨が降り出す前に、宿まで行かねばならないからな」
「雨? こんなに晴れているのに、降るのか?」
「ああ。あと数刻で降り出すだろう。今は人が多いからな、野宿をしたくなければ今日は早々に寝床を確保した方がいい」
「アンタ、旅人?」
「まあ、そんなようなものだ。お前は?」
「オレは王都へ行く途中」
 ガサガサと草木を踏み分けながら進み、道へと戻る。左右を見回し首を振ったオレに、「王都ならこっちだな」と男が指差しオレの前を横切った。同じ方向らしい。
「アンタはどこへ行くの?」
 数歩跳ねるように駆けて開きかけた距離を縮め、オレは男に訊ねたが。当然、教えられた街がどこにあるのかはわからなかった。「途中までは同じ方向だ」と足された言葉に、生返事をしておく。それはどこだと聞いてもいいが、それよりも気になる事が他にある。
 擦れ違った家族連れのような一団を見送り、オレは首を傾げる。
「なあ、人が多いってどういう意味?」
「どういうって…祭りだったからだろう」
「祭り?」
「即位祭と聖誕祭」
「聖誕祭って、誰の?」
 即位ならばきっと、王とか神官とか、偉い人のものだろう。だが、わざわざ誕生日を祝うっていうのはどうなんだ? もしかして、居るという神様のものとか?と。キリスト教で言えばクリスマスかと頭に思い描いたオレは、ふと隣の存在が消えているのに気付き振り返る。いつの間にか、怪訝な顔でオレを見る男とは、五メートル程の距離があいていた。
 オレ、瞬間移動でもしたか? 何だ、この間は。
「は?ナニ? どうしたの?」
「……お前、どこの田舎モンだ?」
「はあ? 喧嘩売ってる?」
「出身は? どこから来たんだ」
「ガジャリ村だけど」
「カル地方の村だな」
「ナニ? 文句でもあるのかよ?」
「違う。自国の王の事も知らないのかと、少し呆れただけだ。怒るな」
「あのな、オレ、箱入り息子なんだ」
 世間には疎いんだよと軽口を叩いて笑い、肩を竦めて足を動かし始めた男にオレは背中を向ける。
 落ちそうになる溜息を、雨が降るとは思えない青い空を見上げる事で身体に戻す。
 即位祭に誕生祭。それは毎年やっているのだろうか。
 だったらなんてお気楽な国なのだろう。
 そりゃオレだって、天皇陛下の誕生日は知っている。だけど、それは学校が休みになるからであって、それ以外の意味はない。祝いの祭りがあるのだとしても、普通はそんなもの王の近くに居る者だけのものだろう。それなのに。
 こうも呆れられるほどに王の誕生日が浸透しているとは、おかしなものだ。メディアが発達した日本なら兎も角、読み書き出来ない人が多くいる中でのこの浸透具合は凄いとしかいえない。どんな伝達手段をとっているのか不思議だ。
 それに、なにより。
 何をどう言おうと、たかが誕生日。そんなことで田舎者扱いをされるのは、ちょっと理不尽じゃないか?
 …じゃなくて。
 そんなことで平和にお祭りをしている国の中枢が神子召喚を行ったのか。疑わしく思ってしまう事態だ。
「ちなみに、王様は王様になって何年? っで、何歳?」
 今回はミレニアム記念日とか言うのだろうかと、再び並んできた男に訊ねると、何故だか優しげな目で頭をポンポンと叩かれた。

 …………。
 ……別にいいけれど。
 もしかして、オレ、かなりのガキと思われてる…?


2008/08/18
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