君を呼ぶ世界 20
昔から、落ち込んだりする事がなかったから、免疫がなくて。
沈む時は、とことんオレは沈んでしまうらしい。
再び言葉少なになったオレを気遣うように覗き込んできた男に、何でもないと首を振るが。
「やっぱり、辛いんじゃないのか? もう休め」
そんな言葉で食事は終了。未だに賑わう食堂を抜けながら、旅では無理が命取りになるぞと説教される。
脅しだ。
ある意味、経験も知識も不足しまくっているオレに対する、苛めだ。畜生。
「だから、平気だって。満腹で眠くなっただけだ」
「赤子だな」
オレの言葉に笑ったリエムだが、それを信じたわけではないようで。部屋に戻れと背中を押された。
過保護だ。
まるで、初めて旅をする幼子を気遣う親のようだ。う〜ん。
「この宿は湯浴みが出来るが、この様子ならそこも一杯だろう。今日はもう休んで、お前は明日の朝にしろ」
「ああ、うん。そうだな。リエムはどうするの?」
「俺は汚れを落してくる」
「じゃあ、オレは先に戻って休むから。オヤスミ」
こちらに来てから身体を清めるのは、濡れタオルで拭くか、川で水浴びをするかであったので、お風呂はとても魅力的なのだけど。確かにリエムの言うように、食堂のように混雑しているのだろうそこへ行くほども元気ではなく。
助言に従ってオレは男の背中を見送り、ひとり部屋へと戻る。
出入り口は、薄い木で出来た簡素な扉であったけれど。
それでも、それを閉ざすと、食堂の喧騒も廊下に漂う他人の気配も消える。
雨音はするが、窓の外は真っ暗で何も見えない。入口の蝋燭一本では、部屋の隅まで明かりは届かず鏡にすらならない。
暗闇から、穴のような黒一色の窓を見つめたまま、オレはコテンとベッドに身体を倒す。高揚の余韻はあるけれど、身体はとても疲れていて、頭の芯は冷めている。妙な感覚だ。
リエムとの遣り取りは、単純に楽しい。笑っている間は、ここがどこなのか忘れてしまうくらいに。
だけど、それが、それこそが怖くもある。
テンポよく馬鹿な言葉を交わして思い出すのは、オレが失った世界の友人達だ。彼から滲むさり気ない優しさは、家族までをも思い出させる。
一気に駆けてきて、足を止めて初めて、遠ざかった大切な場所に気付き振り返るが。もう、それは見えなくて。戻ろうと思っても、後ろへは行けない。そんな、感じか。困惑が絶望を呼び、焦燥感と喪失感がぐちゃぐちゃと混ざり合って、オレの中で暴れる。
「……」
頑張ると決めたけれど、それは頑張るしかないからであって。
帰る道があるのならば、オレは今すぐそこへと飛び込みたい。どんなに身体が重くても、這いずってでもそこへと向かうから。諦めることなく、進むから。
だけど。
どんなにその気持ちがあっても、オレにはそんな道はないのだ。
どこにもない。
「…………サツキ」
額の上で手首を交差させ、オレは目を閉じながら片割れの名を呟く。
ひと時前まで楽しかったからこそ、沈み具合が半端ではなくて。そんな自分に活を入れようと彼女を思うが、今夜ばかりは上手くいかない。
悪い世界じゃないと思う。まだたった十日程で何がわかるのか、自分でもそう思うけれど。出会った人達はみんなイイ人で、オレはこの世界を好きだと思う。けれど、それとこれとは別で、今ここに居る事が単純に辛い。悲しい。苦しい。
助けてくれ、サツキ…!
今すぐオレをここから連れ出してくれ!
今までの比ではなく、心の底からそう叫ぶ自分に、オレは驚きながらも悟る。
これは現実だとわかっていても、オレはどこかでまだ冗談だとか一時のものだとかも思っていたのだ。だから、頑張ろうと思えたのだ。不安でも、旅へと踏み出せたのだ。
自分は助かると、大丈夫だと、オレはやはり楽観視していたのだろう。今になって、怖気づいている。リエムとごく普通に、まるで大学の友人達と同じように接して、言葉を交わして、オレは漸く現状を理解したのかもしれない。生身のこの世界を彼を通して感じて、逃げられるものではないとわかったのかもしれない。
簡単には帰れないのだと。帰る方法があるのかどうかもわからないのだと。
オレは、このままずっとここで生きていかねばならないかもしれない。そんな可能性もあるのだと。
爺さんにも言われていたけれど、オレは今になってやっと、それがどういう事なのか現実として見えてきた。
オレの未来は――。
「――この知らない世界で、どうやって……」
どこかで持っていたそれが、不意に口から零れ、オレは自嘲する。
ここで生きていくと、暮らしていくと、そう思ったのは。一生ではなく、帰るその時までという、期間が限定されていたからだ。本気で本当にこの世界で…と思えば、正直何の未来も浮かばない。
そもそも、オレは本当に命を持ってここに居るのか。怪しいものだ。もしかしたら、オレはあの狭い自室で死んでいて。これはトリップでも何でもなく、死後の世界なんじゃないか? 夢を見ているだけじゃないのか?
馬鹿げた可能性が頭に浮かぶ。生きていようが死んでいようが今は変わらないのに。
ただの現実逃避だ。
だけど。ここが天国だなんて、本気で思っているわけではないけれど。
オレにはこの世界に希望を見つけられないから。
これがどこであれ、やはり、死んでいるのと変わりないのかもしれない。ならば、足掻く意味はあるのだろうか。
頑張りに、結果は付くのか…?
「……キツイな」
はっきりと声に乗せた弱音が、部屋の中へと解ける。
不安と絶望が、オレの横で大きな口をあけて、オレが飛び込むのを待っているようだ。
目を瞑る前に見た、木枠の中の闇が瞼の裏に浮かぶ。
喉が震える。涙が浮かぶ。片手で目を覆い、片手で服の上からペンダントを握る。
お願いだ、サツキ。オレを、助けてくれ。
父さん、母さん。
オレは、ここだ。ここに居る。
助け出してくれ。
喉は震えるばかりで、それ以上は何ひとつ音にはならなくて。
オレはベッドに熱い息を押し当て、ただひたすらに心で救いを求めた。
2008/09/10