君を呼ぶ世界 21


 落ち込んだ次にするのは、浮上。

 泣いた記憶はある。だが、泣き止んだ記憶はない。
 ベッドに寝転がった記憶はある。だが、ベッドに入り込んだ記憶はない。
 それでも、朝起きると、オレは普通に寝ていた。布団に収まり、枕もちゃんと宛がって。
 当然、靴も脱いでいた。
「オレ、迷惑かけた?」
 もしかして寝かせてくれたのかと訊ねると、リエムは「風邪をひいたら困るだろうからな」と肩を竦めて言った。
「気にするな。子供の面倒は、大人が看ないとならないものだ」
「靴を脱がしたくらいで偉そうだな」
「だったら、これからは靴ぐらい脱いでちゃんとベッドに入って寝ろ。中途半端な格好で寝ていたら、旅の疲れは取れないぞ」
「はいはいそうですね、オレが悪かったんです、すみません。どうもお世話様でございました――って冗談はさておき。ホント、ごめん。っで、ありがとう」
 泣いていたのを見られていたら、恥ずかしい。そんな思いで、リエムの軽口に飛びついたけれど。例え見ていたとしても言わないだろう相手の雰囲気に気付き、オレは言葉を正し、軽く頭を下げる。
 だけど。
「だから、別に気にするなと言っている。靴を脱がせて掛け布をのせただけだ。礼を言われるほどのことでもない」
 逆の立場なら、お前だってそう思うだろう。
 そんな言葉でさっさと一件を片付けた男は、手早く荷物を纏め「行くぞ」と部屋を出ようとする。
「あ!ちょ、待てよ!」
 慌てて荷物を手に部屋を飛び出すと、リエムはしっかり廊下でオレを待っていた。
「俺は食堂にいる。お前は湯を浴びて来い」
 リエムとは今日も一緒に先を目指すことになっている。別れるのは、明日の予定だ。
 旅に慣れないオレに付き合えば、リエムの旅程が狂うのは目に見えている。実際、リエムは途中まで馬を利用していたようで。急ぐ旅ではないという言葉は、多分、オレに気を使わせない為のものだろう。
 ただでさえそうなのに、オレがのんびり風呂に浸かる訳にはいかない。
 だけど。
「いいから、行って来い」
 食事を摂って出発しよう。そう言い、一緒に食堂に入ったオレを、リエムは苦笑しながら追い払った。
「はいはいママ、綺麗にしてきます」
 甘えではなく、あと一日であっても一緒に旅する仲間の気持ちとしてそれを受け取り、オレは軽口を叩きながらも有り難く湯浴み場へと足を向ける。
 久し振りの風呂だと楽しみに向かったそこは、残念ながら思ったものとは違い、言葉どおりの湯浴み場だった。湯船ではなく大きな盥に湯が張っているだけで、それを使って身体を清めるシステムだ。
 もしかしたら、この世界には湯に浸かる習慣は無いのかも?
 だったら残念だと思いながら、先客に混じって身体を洗う。湯はかなり温いが、それでもやっぱり気持ちよくて自然に身体から力が抜ける。
 疲れが溜まっているのは変わらないが、どこか落ち着く。安心する。
 リエムが戻ってきたのも、ベッドに入れられたのも知らないくらいだから、充分に眠ったはずなのだが、その実感は正直ない。事件や災害に見舞われた人が、興奮状態を維持し続け眠れない。浅い眠りを繰り返す。そんな話は良く聞いたものだけど。まさか自分がそうなるとは。これは所謂、PTSD、その類なのだろう。
 この国に病院があったとしても、そこに精神科があるとは思えない。あったとしても、今すぐどうこう出来るものでもない。
 知識はないが、多分、一番悪いのは焦ることのはず。その内、疲れが取れるくらいにぐっすりと眠れるだろう。そう思うしかない。
 とりあえず、昨夜はいつも以上に、身体は休めたはずだ。
 お風呂は偉大だ。この程度の温もりでも、それでも少し浮上成功。湯船に浸かれたら、もっともっとリラックス出来たのだろうにと無いもの強請りしながら目を向けた先で、オレは意外なものを見つける。
「…んン?」
 いつ打ち付けたか、気付けば膝の下に痣が出来ていた。大きさは、鶏のタマゴほどだ。なかなか大きい。
 ゆっくりと指で押してみる。痛くは無い。もう何日か前のものなのだろう。うっすらと残るそれは紫ではなく茶色に近いと言った色だ。しかし、こんな場所、ぶつけた記憶は無いのだが。
 脚を酷使した結果、内出血でも起こったのだろうか。
 軟弱で情けないが、足はなかなか酷い状態だからそれも有り得るよなと、オレは鈍く痛む足裏を押しながら深い息を吐く。
 歩き慣れていない結果として、距離を稼げないのは当然だが。こうも痛みが発症するとは、予定外だ。
 腫れた親指の付け根は、皮が厚くなっている。靴ズレで、足の横や踵の上も、薄く皮が剥けている。血は滲む程度だし、我慢できないほどの痛みではないし、何より痛いならば痛いなりのペースで行けばいいので危機勘は抱いていなかったけれど。
 昨日、雨が降るからと慌てたのが悪かったのか。一晩休めても、いつも以上に痛い気がする。果たして、これで今日一日を乗り切れるのだろうか。
 う〜ん。
「……ま、何とかなるか」
 走り続けるわけではないし、大丈夫だろうと。少しふやけた皮を傷めないように拭い、身体も拭き、着衣を纏う。
 折角、旅の友が居るのだ。のんびり行きたいから、ここでお別れサヨウナラ――というのも寂しい。足の痛みくらい、大した事はない。
 今日だけでも、ガンバレ。根性見せろ、オレの足。
 心も身体もスッキリとなって食堂に向かい、リエムと共に簡単な朝食を摂りながら予定を確認する。
 今日はこのまま王都への主要となる道を進み、夕方には着くだろう宿で泊まり、明日の朝、宿から少し進んだ別れ道でリエムとはバイバイだ。オレはそのまま同じ道を進んで、王都へ。リエムは、リゼという街へ。
 因みに、王都へは歩きでならまだ六〜七日はかかるらしい。やはり、オレはまだ半分も進んでいないようだ。そして、リゼは更に遠く、十日は掛かるとか。
 だが、リエムはオレと違い馬に乗れる。
 この国には、出発地で借りて目的地で返すレンタカーのようなシステムを持つ、馬の貸し出し業があるらしい。
「途中で馬を借りるつもりだから、お前が王都へ着くよりも早くリゼへと行けるだろう。リゼから王都へは、馬なら二日。もしかしたら、俺の方が先に王都入りするかもな」
「リゼでの用は直ぐに済むのか?」
「一応、その予定だ」
「そっか」
 頷きながらコップの水を飲み干し、オレは席を立つ。
「行こうか」
「ああ、そうだな」
 並んで宿を出ながら、少し考える。
 オレの旅は、二日や三日遅れようとも、さほど関係ない。余計に金を使うのは避けたいが、王都へと急がねばならない理由はない。だから、もしも。もしも、自分が馬に乗れたならば。
 オレはリエムに、一緒に行っても良いかと聞いたかもしれない。
 道は違っても同じような方向ならば、ちょっとぐらいの寄り道は大丈夫だと。邪魔にならないのであれば、リエムにお願いしただろう。
 人恋しいのもあるのだろうけれど。
 それを差し引いても、この男はいい奴で、もっと一緒に居たいと思う。この歳でこう言うのもなんだが、友達になりたい男だ。
 明日で別れるのは惜しい。
 だけど、これが旅というものか。
 寂しいが、今は、この今を大事にしよう。
「リエム」
「なんだ?」
「今日一日、よろしくな」
 おもむろにそんな発言をしたオレを、リエムは器用に眉を上げてみせたが。
「俺こそ頼むよ、相棒殿」
 ニカッと白い歯を剥き出し笑って、明日までが限定の旅仲間にもかかわらず、オレの思いにあっさりと懐深く応える。
 やっぱりこの男、なかなかの男前だ。
 木の上で休憩なんてして、男の立ちションを黙って観察する。そんな可笑しな男のはずなのに、なんでこんなにもいい奴なのかと、嬉しくて。楽しくて。
 アハハと声を上げて笑ったオレの肩を小突き、リエムは「ほら、行くぞ」とオレを促した。

 もしかしなくとも。
 オレはもう、友達を一人ゲットしているのかも。


2008/09/17
20 君を呼ぶ世界 22