君を呼ぶ世界 36


 何か忘れている気がするんだけど。
 ナンだっけ…?

 桔梗亭で働き始めて三日目。仕事はまだ慣れたとはいえないが、とりあえず、与えられるものは何とかこなしているので暇は出されずにすんでいる。そんなオレの役割は、雑用係だ。メインは掃除。っで、一人前になるべくウエイターを勉強中。そんな感じだ。
「おはよう」
「あ、エルさん。おはようございます」
 表の掃除を終えたところに、料理人が出勤してきた。食堂の入口を潜る男の背を追いかけようとして、オレはそのまま何となく足を後ろへ数歩引く。
 少し通りへ飛び出して見上げるは、オレの職場兼住処。
 食堂部分は一階建てだが、右手の宿屋部分は二階建てになっている。屋根は高いし、ここだと近すぎて見えないが、食堂の屋根は艶やかな青紫色だ。一昨日宿屋の二階窓から眺めた時は、薄茶色の建物が並ぶ中でのそれに度肝を抜かれた。それくらいに、なかなか面白い光景だった。
 それなのに。軒下にぶら下がる看板は、シンプルに徹している。四角い木に屋号が記されているのみ。
 つまり。目が覚めるような屋根は、二階の部屋に泊まる客にのみ与えられた特権のようなものなのだ。
 朝起きた頃は閑散としている通りも、この時刻になれば流石に人が行き交っている。けれど、ここをただ通るだけでは、屋根の色には気付かない。
 そんな可笑しな秘密を持った建物を眺め、オレはヨシ!と心で活を入れ足を踏み出す。今日も頑張るぞ!と。
 上手いんだと胸を張れるものではないが、両親が忙しかったので幼い頃から身の回りの事は自分でしてきたし、大学に入ってからは一人で暮らしていたので掃除も洗濯も困りはしない程度には出来る。客に出すような料理は出来ないが、全くわからないわけでもない。だから、そういった雑用は、要領がわかれば全く問題ない。
 逆に、気合を入れ頑張らなければならないのは、ウエイターの方。昼と夜の食堂は、ある意味オレにとっては戦いなのだ。
 この二日で、マニュアルも料理名も頭に叩き込んだ。気取った店でもないので、注文を聞き料理を出せれば事は足りる。だから、今のところ何とかこなせている。だが、いつかヘマをしてしまうような気がするのだ。
 と、言うのも。
 客達の多くが、オレに非協力的だからだ。
 初日の昼は、向こうも様子を覗っているようで。これからよろしくお願いしますと頭を下げれば、鷹揚に頷いていた。だが、その日の夜には、オレをからかってくれるようになった。顔を合わすごとに、振り回される度合いが大きくなっていっている気がする。
 もし、そこに悪意があるのならば、オレだってそれなりの対応をするし、何より女将やエルさんが対処してくれるだろう。だから、幸いというべきなのか、残念というべきなのか。客のそれは、からかいの域を出ないものなのだ。虐めなのでは決してない。先日まで働いていた娘とオレを比べるのも、女将さんに手を出すなと変な釘を刺すのも、オレを子供のようだと笑うのも、何もかもがお遊びだ。中には若干、軽口を超えたものも見受けられるが、総じて客であるオヤジどもは楽しんでやっている。
 オレも、それはわかる。だから、怒りはしない。
 だが、困っているのも事実。オレはアンタ達の、子供でも孫でもないというものだ。まして、玩具でもない。
 ただでさえ一杯いっぱいで余裕がないのだから、本気の本気で、邪魔をしないでくれというもので。
 昼食と夕食の合い間に、不慣れなウエイターをからかってストレスを発散させるオヤジどもをあしらわねばならないオレとしては、その時間は正直気が重いものとなっている。適当にしておけとのエルさんの助言通り、出来得る限り攻撃をかわしてはいるが、そうすればスムーズに食堂を捌けない。
 これが、生まれ育った場所であるのならば兎も角。異世界の慣れぬ環境の中で、肉体労働をこなしているのだろう体格の良い連中の合い間をすり抜け駆け回る根性は、今のオレにはないのだ。情けないけれど。
 慣れる前に、草臥れそうだ。
 だが、へこたれている場合ではない。
 可愛い女の子でもない。どこにでも居るただの男だ。客の興味も三日もすればなくなるはず。オレで遊んでも面白くともないだろうし、近い内に飽きるはずだ。彼らの目的は、美人な女将と、上手い料理なのだから。
 あと少し、ヘバらず乗り切ろう。戦いだけど、勝つ必要はないのだ。逃げ回っていればオッケイなのだ。
 ガンバレ、オレ!と、食堂に戻りテーブルや椅子に雑巾をかけながら、昼のラッシュに備えるべく気合を高める。
 そう、だから。
 最初の客がきた時は、かかって来やがれ!と頭の中ではファイティングポーズまで取るほどに奮起していたのだけど。
「大丈夫か?」
「…多分、……大丈夫」
 空になった皿を手に入った厨房で、エルさんが草臥れきったオレに労いの言葉をかけてくれた。あともう少しだからしっかりしろと、クシャリと頭まで撫でてくれる。オレを振り回すオヤジ達に負けず劣らずなゴツイ手だが、オレの身体から力を抜いてくれる優しさがあった。
 でも。だからといって、親父たちにその慈しみさがないのかといえば、答えはノーだ。彼らは彼らで、新参者であるオレを戸惑うくらいに受け入れてくれている。からかってくれるのは、優しさだとわかっている。
 ただ、度を超すと鬱陶しいというか…、申し訳ないのだけど、邪魔なのだ。
 一言喋るたび、ひとつ行動をとるたび、野次が飛ぶのはいかんともし難い。そんなにオレが可愛いかと聞いてやりたいくらいに、弄繰り回してくれる。遊ぶオヤジ達は楽しげで、収拾がつかない。
 けれど、オレにそれを笑える余裕はない。一ヵ月後、二ヵ月後ならばわからないけれど。オレはまだ働き始めて三日目なのだ。どこへでも転ぶ程に不安定な状態で、笑えるわけがない。
 そう、女将さんはそんな判断はしないだろうけど。
 オレは役立たずのレッテルを貼られるわけには行かないのだ。絶対に。ここを辞める訳にはいかない。
 だから、ホント。構ってくれる彼らには悪いんだけど。余裕のない自分と、陽気な彼らのギャップが、気鬱だ。オレの生活がかかっているんだ協力しろ!と叫んでやりたい。だが、イイ人たちだと判っているので、そんなこと言えやしない。心底、困った客達だ。
 はあァ、と深い溜息がオレの口から落ちる。
 疲れた。
 そう、だからだろうか。陰気な考えが頭を掠める。
 昔から確かに、人畜無害な性格をしているので、友人知人は多いけど。一方的に遊ばれるのは、この世界に来てからだ。多分、この国の成人男性の標準体型と比べれば劣っているとしか言えないオレの見た目に原因があるのだろうけど。それを差し引いても、構われている気がする。旅の間も、幾人にも声をかけられた。それは、フレンドリーな国民性とかもあるのかもしれないけれど。ここにきて、嫌な考えも浮かぶのだ。
 オレよりも細身である奴も、小さい奴も普通に居る事を考えれば、ガキ臭いだけでここまで遊ばれはしないだろう。だったら、理由はひとつなのかもしれないと。オレが異世界人だからなのかもしれないと思い当たれば、周囲の接近が時に重く感じもする。
 異物だからこそ、彼らはそうとは知らずに気なり、オレに接してくるのかもしれず。この世界で異端者がどのような扱いを受けているか知ってからは、心の中のどこかで怯えている自分が居る気がして……兎に角、堪らない。
 彼らが好意的であればあるほど、何だか怖いと思う気持ちがどこかにある。だから余計に、息苦しい。
 ありがたいと思う気持ちとは逆に、突き詰めればオレの中にはそんな思いがあって。
 根本的なところで、自分がここに居るのを自分が怯えているような気持ちがあるようで。そんな自分がとても嫌で。
 鬱陶しいとか、困るとか、煩いとか。そういうことではなく。
 オレは単純に、オレと戯れる彼らに怯えているような――
「メイ。皿、取ってきてくれ」
「あ、うん。……ゴメン」
 意識が完璧、暗い方へと飛んでいたようで。
 エルさんに呼びかけられて気付けば、最後まで残っていた客の姿が食堂から消えていた。まるで、オフィス街のレストランのように、昼食時だけ賑わいを見せ、潮が引くように時間がくれば客のオヤジ達はさっさと仕事へ向かう。その後は、パラパラと幾人かの客が来るか来ないかといった程度で、昼の営業終了時間を迎えるのが常だ。
 空の皿を重ねて何枚も厨房へ運び、食堂に戻りテーブルを綺麗にしているオレの後ろで入口のドアが空いた。
「いらっしゃ――」
 ――いませ。とは、続かなかった。
 振り返り、入ってきた人物を認めた瞬間、この三日で何十回も繰り返してきたそれが弾けとんだ。代わりに胸中で、出たよ、出た出た!と、幽霊に出会った者のように呟く。
 御出でなすったぜ、と。やさぐれ気分になりかけつつも、挨拶を途中で止めてしまった失態をおくびにも出さず、オレは営業スマイルで黒髪を迎えうつ。そう、入ってきたのはあの女将さんの遠い親戚男。それこそ負けてなるものか!な人物だ。
 だが、意気込むオレを一瞥しただけで、黒髪はさっさと厨房へと入っていった。構えた手前、拍子抜けして見送ってしまったが、従業員ではない男が堂々と調理場に足を踏み入れるのはいかがなものなのだろう。いいのか?と、胡乱げにも覗えば、エルさんは普通に対応しているので問題はないのだろう。ならば、新参者が何も言える事はない。
 若干、いや、かなり負けた感が否めないが。それでも、大人なオレは仕事に戻ったのだけど。
「…………」
 カウンター越しに厨房からオレにガンを飛ばしてきているのは、どなたでしょう?
 オイオイオイ。アンタ、オレを無視する事にしたんじゃなかったのか…?
 なんか、嫌な予感が……。
 体育館の裏に呼び出されるような気配に、先程は鬱々となる理由となっていたオヤジ達のからかいを懐かしく思う。このまま永遠にテーブルを拭いていたい心境だ。
 だが、そんなに拭いてはいられない。
 こういう時に限って、新たな客は来ない。
 嫌だなァ、と。こっそり溜息をついて、ふと思いだす。そういえば、何か忘れているなと、何か聞きたかったんだけどなとずっと思っていたのだけど。こいつだ、こいつ。この黒髪男だ。
 雇主の親戚だからというよりも。ブラックリストに書くために。
 名前を聞こうと思っていたのに、すっかり忘れていた。……って、あのまま忘れても、俺は一向に構わなかったのだけど。

 意を決して顔を上げると、バッチリと黒髪と目があった。
 オヤジ達の意地悪さには可愛いさもあるのだと、その目を見ながらオレは不覚にも悟る。
 それほどに、男の目は昏く、厳しく見えた。


2009/01/09
35 君を呼ぶ世界 37