君を呼ぶ世界 37


 だから、一体。
 アンタは何なんだよ?

 オレの両親は、とても忙しい人達だった。だからオレは保育園の頃から鍵っ子であったし、家で一人夜を過ごす事も珍しくなかったくらいだ。
 だが、寂しいと思ったことは一度もない。二人の休みが揃う事は少なく家族で出掛けるような事は殆どなかったが、友人達の旅行話を羨ましく思った事もない。それくらいに、オレは両親の仕事にを納得していたし、何より彼らの深い愛情を理解していた。大切な家族を一人失っていた分、オレ達家族はとても強い繋がりを持っていたのだ。
 そんな両親が口を揃えて言ったひとつに、アルバイトの話がある。
 彼らの考えは、学生にそれは必要なしというものだ。いずれは働かねばならない。働くようになれば、自分の時間を持つのは難しくなる。好き勝手に遊べるのは今だけだ。必要な金なら与えるから、苦労してまでバイトなどするな。社会勉強は、大学を卒業してからでいい。学生が金稼ぎなどするなと、仕事に追われる二人はそうオレを諭したのだ。はっきり言って、可笑しな夫婦である。
 だけど、オレはそれを有り難いと受け入れた。あれもこれもやりたい事が一杯あったオレは、その言葉に甘えて趣味を優先させる学生生活を送っていた。なので、オレが今まで金を稼いだといえば。裁判の傍聴席のくじ引きやデモ行進やその座り込みや新規オープン店の行列並びなどといった、身体ひとつあれば参加出来る簡単なバイトと。あとは、ゼミ生に振り分けられる講義の助手くらいだ。二十三歳の男にしては珍しいくらいの経験しかない。
 それでも。就職の内定も取り、四回生になり受講数も減ったので、空いている時間で少し社会勉強をするかと思っていたのだ。春から思っていただけで、六月になってもまだ実行に移していなかったけれど。
 けれど、まさか。
 こんなところでそれが叶うとはなァ。人生、何があるかわからないものだ――と。
 オレは耳を通り抜ける言葉を追いかけずに、意識を内へと向けているのだけど。相手にはすまいとしているのだけど。
 オレとは逆である相手に、それは伝わらない。
「あ…」
「ハッ!どんぐせぇなァ」
「……」
 手の中で木の皿が滑り、流しに落ちてガコンと音を上げた瞬間。まるで待っていたように、背後からそんな声が飛んでくる。昼の片付けをするオレと、夜の仕込をするエルさんに遠慮する気は皆無であるのだろう黒髪は、堂々と厨房で酒を飲んでいるのだ。昼間から。それも、オレの粗をねちねちと突付きながら。
 一体お前は何様だと、さすがのオレでも言ってやりたくなるものだ。
 けれど、言ったところでこの男なら「オレ様だ」と胸を張って言うのであろう事が簡単に思い浮かびもして。
 相手にするだけ損だと、オレは黙々と片付けに徹している。徹しているのだけど……うんざり感はなくなりはしない。エルさんの手前、耐えるけれど。耐えたくない相手だ。一発、ガツンと入れてやりたい。…帯剣している酔っ払いに、それは命取りになるのだろうからしないけど。
 昼の営業を終えても居続ける黒髪は、どうやらオレをチェックしにきたようだ。大好きな女将さんが出掛けるというのに居残って、エルさんの料理で腹を満たしながら、オレを虐めている。間違いなく、暇人だ。勤勉に仕事をしているオレが何故、こんな不謹慎男に苛められねばならないのか。理不尽、ここに極まるだ。
 黒髪が役に立ったのは、「新婚だろ、お前。こんな田舎者構っていたら、ハースさんに捨てられるぞ」とエルさんに向けた言葉で、彼が最近結婚したのを知ることが出来たくらいだ。だけど、それを耳にしたオレが親切な料理人に祝いの言葉を向けようと「あの、」と口を開けば、「黙れ、喋るな、手を動かせノロマ」と歯を剥き出し威嚇するので、どんなに役に立とうが到底感謝は出来ない。
 鬱陶しすぎると、オレは転がった皿を拾い上げ、次の皿に手を伸ばす。その後ろでは、飽きもせず、黒髪がオレの事をエルさんに訴えている。
「オイ。本当にこんな奴で役立っているのか?」
「メイは良くやってくれている、心配するな」
「アンタは気が長いが、その内じゃ意味がねぇんだぞ。いま役に立たないのなら意味がない」
「大丈夫だ」
「ハン。客に舐められまくっていて、何が大丈夫何だ」
「舐められているんじゃなく、可愛がられているんだ。メイはお前と違って可愛いからなァ」
「ガキなだけだろ」
 ヘマする前に辞めさえろよ、と。低い声が背中に響く。
 ……もう、何ていうか。怒り以上に、その…居た堪れない。
 ヘバっているのは確かで、黒髪と同じようにオレも多少なりとも危惧を持ってはいても、陰険なその言葉に同意などする気は更々ない。だから、黒髪の評価は、痛くも痒くもない。言いたいのなら、勝手に言っておけだ。
 だから、オレが思うのは。ただただ、エルさんに申し訳ないということで。庇ってくれる料理人に、もう止めて下さいと叫びたくなる。オレは別に気にしないから、こんな男放っておいて下さいと。オレ同様に絡まれている感の彼の姿は、心苦しい。
 エルさんにとってすれば。付き合いが長いのはオレではなく黒髪の方であるわけで。
 オレを庇うというよりも、黒髪をただ窘めているだけであって、エルさんにはそんな気は余りないのだろうけど。
 全てを聞かされ、けれど発言権のないオレは、もどかしく歯痒く、それ以上に恥ずかしく。本当に、居心地が悪い。
 黒髪よ。言いたい事があるのなら、オレに直接言ってくれ。その気がないのなら、オレのいないところでやってくれ。酒を片手にねちねちと、お前はホント、何様だ。
 根性が捻じ曲がったジャイアンか?
 いや、それは最早あの素直ないじめっ子ではないかと、自分のツッコミに胸中で呆れかけたところに、店先から声が掛かる。天の救いだ。婆さん、よく来た!と、その声が行商人のものだと気付き、オレはホッと息を吐く。
「メイも来てくれ」
「あ、うん」
 籠を持つエルさんに続いて厨房を出る。食堂の仕入れは、基本、エルさんが全て行なう。朝の出勤前に市場に寄ったり、毎昼やって来る行商などで賄うのだ。
「こんにちは」
「ああ、坊主。どうだい、少しは慣れたかい?」
「まァ、なんとか」
 苦笑交じりに答えると、小柄な婆さんが「しっかり頑張りな」と笑った。一昨日、オレが物珍しさから、売り物である野菜や果物をアレコレ聞いたせいで、この婆さんの中では物知らずの子供と認定されているらしい。慈愛に満ちた表情が、オレの心を癒してくれる。
 まあ、でも。六十はまわっていそうな婆さんにとってみれば、オレなどたとえ博識であっても坊主といわれただろうなので、全く気にならない。ホント、気にならないのだけど。
 黒髪に聞かれるのはちょっとなァ…と、そう思えば。
「坊主、邪魔だ」
 しっかりちゃっかり聞いた男が、馬鹿にするように真似る。…お前が言うどの言葉よりマシだぞ、勝ち誇った顔をするな。ってか、呼んでないんだ出て来るな。
 帰るのならば喜んでお見送りしてやるんだけどと、当然胸中でそう言いながら場所を空けると、荷車を覗いた黒髪は「貰うぞ」と一言声をかけ赤い実を手に取った。
「あと十個ほど貰おう」
 エルさんが籠を黒髪に渡す。少し顔を顰めながらも受け取った男は、婆さんがその実を入れるのを待ち、そうして赤い実で一杯になった籠を当然のようにオレへと突き出した。
 お前が持っていけよと思いつつ、無言で受け取る。
 働けクソ餓鬼との表情を作りつつも、黒髪もまた何も言わない。
 睨めっこをする気もないので早々に視線を逸らし、オレは腕に抱く籠にそれを落とす。一見トマトのようだが、これでも甘い果物だ。果肉はとても柔らかく、熟したマンゴーのようでなかなか美味しい。
 ふと、気配に気付き顔を上げると、距離を縮めてきた黒髪が目の前に立ちふさがっていた。
 右手で赤い果実を放り投げては受け止めているが、目はそちらに向かわず、オレを見下ろしている。身長差は意外にない。だが、体格は雲泥。
「生意気な面しやがって。可愛くねえな」
「…………」
 いや、そんな事を言われても。
 それとも、貴方はオレに可愛さを求めてでもいるのかよと、呆れながらも何となく見ていた顔の前を、赤い実が横切った。
 つられて見上げたそれは、オレの真上へと落ちて来るようで。
 反射的に足を引こうとしたが、籠を持つ腕を掴まれその場に拘束される。
 え?と思う間もなく、俺の視線の先で赤が弾けた。
「悪い。力加減を間違えた」
「……」
 オレの顔を、水が伝い落ちる。甘ったるい匂いの、赤い水だ。
 男は、握り潰して飛沫をオレにかけるだけでは気がすまなかったらしく、オレの頭にその潰した物体を置いた。そのまま力を加え押し潰す。強い力ではない。だが、流れ落ちてくる果肉の感触に、首まで伝い落ちる果汁に、オレの足は動かない。
 これは一体、なんだ…?
 目尻から入り込んだ汁に刺激され、右目が潤む。
 左眼だけで見た男は、満足げな表情をしているかと思いきや。面白くないものを目にしたような、不満そうな固い顔をしていた。

 やっておいて、何て顔をするのか。
 意味がわからない。


2009/01/13
36 君を呼ぶ世界 38