君を呼ぶ世界 38
悪いことの後は、良いことがある。
なら、良いことの後は…?
脱いだ服で顔と頭を拭いながら自室へと戻る。
黒髪の暴挙に気付いたエルさんは、「お前は何をやっているんだ!」と声を荒げたけれど。怒られた当の本人は「手が滑っただけだ」と詫びれもせずにのたまわったので、エルさんは男を諭すのを一瞬で諦めたらしい。長い溜息をひとつ落とすとオレの手から籠を取り上げ、「着替えて来い。そのまま休憩に入ればいい」と背中を押してきた。
「でも、まだ、」
仕事が残っていると言いかけると、先に、「残りはあいつにさせるから」と言い、エルさんは悪いなと謝った。謝るべきなのは、黒髪であるはずなのに、だ。
それは、黒髪は絶対オレには謝らないと知っているからであるのだろうし、絡まれまくるオレを哀れに思ってなのかもしれないけれど。だけど、オレにとっては頭に果実を押し付けらるよりも何だか悔しさが込み上げるものであって。
思わず顔を歪めてしまったオレは、エルさんの眉が寄った事でそれに気付き、慌てて誤魔化すように「じゃ、お言葉に甘えて…」とその場を後にしたのだ。まるで、逃げるように。
「……最低」
自室へと足を踏み入れ扉を閉めると同時に嘆きを零す。元凶は黒髪だけど、何もかもが遣る瀬無い。ただ苛められている自分が、情けない。庇ってくれる人に怒りかけてどうするよ。
ホント、馬鹿だ。
悪口も、こうした被害も、出来れば避けたいが耐えられないものではない。放っておくのが一番だとの考えは間違っていないと思うし、あの傲慢に対抗するのも面倒だからと流してきたけれど。エルさんに謝られるのは、どう考えても違うというもので。オレがそうさせてしまったのかと思うと、やはり居た堪れなさが浮かぶ。
黒髪よ、オレが嫌いでもなんでも構わないから。せめて、周りに迷惑が掛かるようなことはしないで欲しい。女将さんだって、そんなお前を見たら嘆くと思うぞ?
頼むから大人な対応をしてくれよと、もう一度溜息を吐き、オレは凭れていた扉から背中を起こした。
さっさと着替えて、仕事に戻ろう。エルさんはああ言ったけれど、多分、黒髪には手伝わせていないはずだ。それをするよりも、反省しろと言って追い出すだろう。そういう人だ。
着替えを手に部屋を出かけ、ふと、テーブルに置いた本に目をやる。
字を勉強したいから本を買いたいのだけど本屋はどこにあるのかと、オレが女将さんに聞いたのは今朝の朝食の席でだ。それから幾らもしない内に、女将さんはオレに数冊の本を渡してくれた。貸してあげるから勉強頑張りな、と。
夕方の開店前の休憩になったら開こうと思っていたのに。着替えて、エルさんに謝って、残りの仕事を片付けて、洗濯をして、と。この後のことを考えれば、全然その余裕はなさそうだ。夜までお預けかと、伸ばしかけた手を戻す。
女将さんも、エルさんもイイ人だ。
店の客も、煩いばかりが目立って、オレはへたり込みかけているけど。悪い人達じゃない。そのうち慣れるだろう。慣れたら、楽しいだろう。
だから、そう。問題は、黒髪だけで。
それが一番厄介なのだ。
女将さんの番犬か何かは知らないけれど。オレが本当に音を上げて逃げ出したら、困るのはその女将さんだろう。だから、黒髪もそれがわかっているので、こんな子供じみた嫌がらせに押さえているのだろうけど。本気で実力行使にでれば、あの男ならオレを片手ひとつで追い出せるに違いないのだろうけど。だからこそ余計に、黒髪は歯痒いのだろうけど。
だけろ、そんな男の心情を察しって協力してやる義理も義務もオレにはないし。余裕にいたっては皆無。
やはり、ここは当人に大人になってもらって、我慢してもらうしかない。
エルさんに、オレはどうすればいいのか。このまま流していて本当に良いのかどうか聞いてみるべきかと考えながら、オレはドアを開ける。
「…え?」
人の気配に顔を向けると、驚いた事にそこには思わぬ人物が立っていた。
リエムだ。
リエムが、居る。
「元気そうだなメイ」
「……そう見える?」
相変わらずの爽やかな笑顔に、何故かオレの顔が歪む。それなのに、そんな風に言った男が少し憎らしく低い声を落とすと、確信犯は喉で小さく笑った後、優しげに目を細めた。
ああ、ホント、リエムだ。
素直に、嬉しい。
「話を聞いてな。泣いているのかと思ったが」
「泣くわけないじゃん、こんな事で」
「そうだな」
「でも、また会えた喜びで泣いちゃうかもよ?」
「どちらにしても印象深い再会だな」
そう言って、リエムがオレの姿を笑う。確かに、泣くよりもインパクトが強い再会だ。まさか、こんな情けない姿で再会するとは、思ってもみなかった。もっと感動的なものが良かったとは言わないが、せめて、体裁の良い格好で会いたかった。
だって、今のオレと言えば。髪はグチャグチャ、上半身は裸、しかも甘ったるい匂いまでして。何といっても、大の大人が苛められてのそれで。みっともない事この上ない。
それでも。
この再会が、この世界に居ると言う神による采配でも。
オレは、リエムとまた会えた事を感謝する。自分の姿を嘆くのではなく、拍子抜けするくらいにあっさりと叶った再会だけど、それを喜びたい。
色々言葉は浮かぶけれど結局何も言えず、オレは沢山の思いを込めてリエムの腕を少し強めに叩いた。自分も同じだというように、リエムも笑顔のまま、オレの二の腕をペチペチと叩く。
「いつ帰ってきたんだよ?」
「昨夜、遅くに。お前は一昨日から働いているんだってな。案外早かったじゃないか」
「ああ、親切な旅の一座に世話になって、荷馬車に乗せてもらったんだ」
「足は?」
「治ったよ。薬、ありがとな」
「俺も礼を言う。あのお守り、効いたぞ」
リエムの言葉に、オレは少し驚き、そして笑う。
「ははっ、ホントだな」
旅の無事と再会を願ったのは本当だけど、ただの折り鶴にそれを叶える力はない。リエムとて、あんなお守りを信じていた訳ではないだろう。だけど、こうして言葉にするくらい、大事にしてくれていたのだ。
「じゃ、また出掛ける時は言ってくれよ。お守り、作るから」
オレが軽口を叩くと、「そうだな、その時は頼むよ」とリエムは微笑み、そのままオレをじっと見て髪をクシャリと掻き混ぜにきた。
「あ、おい、手! 汚れるぞ!」
「悪かった」
「は?」
「ここに若い男が入ればラナックが絡むだろう事はわかっていたんだが、予想以上だった」
「ラナック…?」
話が見えないと首を傾げるが、何て事はない。あの黒髪の事だ。ここに俺を紹介するくらいなのだから、当然リエムもあの男の事を良く知っていると言うもので。
「……別に、リエムが謝る事じゃない」
ドイツもコイツも、庇っている訳ではないのだろうが、皆がまるで親のように黒髪の変わりに謝るのが何だか釈然としない。あの男は、これをわかっているのか?
どこまで子供なんだと、内心で悪態をついたオレのそれを聞いたかのように、リエムが「あいつは餓鬼なんだ」と言って肩を竦めた。
「思ったことをそのまま口にする子供だ。物分りも良くない。戸惑う事も腹が立つこともあるだろうが、そう思って諦めるのがコツだ。害がある時は遠慮せず、エルや女将に言え。本人に言っても無駄だからな、適当にあしらっておけ」
それは、オレが感じ、思った事と同じもので。やっぱりあの男は子供なのだと納得するが。
それにしても、知人を第三者に教えるにしては酷い言いようだ。もしかして、二人は仲が悪いのか?
「……友達、じゃないのか?」
「裏表のない性格で、頭も悪くはない。信頼出来る男だ。だが、女将が絡むと途端に餓鬼になる。多くの奴は昔からのそれにもう慣れきっているから、子供の癇癪だと苦笑で済ませられる。それだけなら目を潰れる。けれど、初めて接する奴は難しいだろう? だから、せめてはと、アイツの人となりを告げるんだ。悪口じゃないぞ?」
「なるほど。ま、確かに強烈だからなァ」
「馴染めば、イイ奴だ」
「うん、そうかもな」
だけど、問題が馴染めるかどうか。あの男が果たしてオレを認める時が来るのかどうかだ。
悪い奴じゃないんだろうけど。今のままでは難しい気がする。
ラナック、か。
……ブラックリストに載せるのは、少し待ってみるか。
「悪い。話すより、着替えが先だったな」
「ああ、うん」
リエムに促され先導される形で、厨房のドアから裏庭へと出る。エルさんの姿はない。まだ表に居るのだろう。
「休憩なら、湯屋へ連れて行ってやろうか?」
「いいよ、まだ暖かいし」
やる事もあるからなと誘いを断り、長椅子に着替えを置き井戸へと足を向ける。
昨日知った事なのだが。この地に温泉が出るからという事で、この国の王都は何代か前にここへ遷されたらしい。建国当初は、王都は国のド真ん中にあったそうだ。そして、それから数百年経った今、その温泉で国は湯屋を営んでいるというのだから、ちゃっかりしたものである。
源泉は王城にあり、王宮内や城下に湯を運んで得る利益がどうなっているのか知らないが。湯屋の料金は、庶民が毎日行けるようなものではないらしい。良くて、数日に一回。貧乏人には、関わりのないところ。つまり、オレの中の銭湯や温泉の感覚と変わらない感じであり、今のオレには贅沢品と言うものだ。
気温は高くとも、井戸水は冷たい。だが、これで充分だ。
確かに一度は湯屋に行ってみたいけれどな、などと。思いながら水を汲み上げたところで、リエムが手を伸ばしてきた。
「掛けてやる」
「悪いな」
腰を折り頭を突き出し、後頭部からゆっくり水を掛けてもらう。リエムに水滴が飛ばないよう、梳くようにして髪を流し洗っていると、ガシガシと力強い指に掻き回された。
「ありがと」
洗った髪を絞り頭を振っている間に、リエムがもう一杯水を汲んでくれる。それで、顔や首を洗い、余った水に汚れた服を放り込む。
布で髪と身体を拭き、それと一緒に服を洗い、物干しに引っ掛ける。まだ陽は高い。夕方まで乾くだろう。
そのまま日向ぼっこを少し楽しんでいると、長椅子に置いた服をリエムが取ってくれた。礼を言いつつ受け取り、袖を通し、頭も通そうとしたところでオレは伸びてきた腕に動きを止める。
「ミコのミタマか…?」
「は?」
何だそれ?
ミタマって……魂?
可笑しな格好のまま怪訝な表情をするオレを真っ直ぐ見つめながら、リエムはペンダントから手を離した。トンと、俺に戻したそれを指で軽く打つ。
肌に響いたそれは、何故かオレの頭にまで響いた。
真剣なリエムの目は、オレではなく。
オレを通り越したどこかを見ているようだった。
2009/01/16