君を呼ぶ世界 42


 今日もまた、一日が終わる。
 オレの一日が、この異世界で。

 エルさんの言う通り、黒髪は現れなかったが。夕方にリエムが顔を出した。俺を気にして仕事の合間に寄ってくれたようで、二言三言言葉を交しただけで直ぐに帰っていった。
 慌しいわね、と。苦笑する女将さんと一緒にオレも笑ったけれど、有り難すぎて嬉し涙が出そうでもあった。
 本当にあの男は、気持ちがいいくらいにイイ奴だ。
「メイ、もう終わってくれていいわよ」
 エルさんを見送ってからも、厨房で働く女将さんを少し手伝っていたのだけど。自分ももう休むからと言って、女将さんはオレを先にあがらせてくれた。お先に失礼します、お休みなさいとお決まりの挨拶をして自室へと引き上げる。
 部屋に入り、ロウソクに明かりをつけかけやめる。ふたつの窓から入る星明りだけで充分明るく、本を読まないのならば明かりは必要ない。
 オレはベッドに腰掛け、そのまま直ぐに身体を倒す。
 疲れた。だが、これは心地良い疲労だ。悪くない。
 目を瞑り、暫くその感覚の中をたゆたう。耳を澄ませばサワサワと、裏庭に生える緑がたてる音が聞こえた。
 女将さんに借りた本は、詩集と、子供向けの童話のようなものと、恋愛小説だった。詩集が一番、文字を勉強するには適していたけれど。残りのふたつもオレの知識を補う点では役に立った。
 童話は、神子の話だった。困っていた国の王様の下に神子が降り立ち、その国を豊かにする話だ。子供向けだから当然、話の中の神子は完璧な人物で。天変地異を起こして飢饉から民を救い、国に永久の繁栄を齎し物語は終わる。一言で言えば何処にでもありそうな、ありきたりなものだ。だが、神子にそんな力はないらしいのに、これは一体どういう事なのか。嘘を教えてもいいのか?
 どうしても気になり、不信を招くのを承知で素直に聞いたオレに、女将さんは「神秘的な部分を過剰に描いているだけよ」と説明し、その後盛大にオレの事を「可愛いねぇ!」と弄繰り回した。子供のような事を聞いてくると思ったらしい。
 そんなのも知らないのかと、呆れられずにすんだのは良かったが。正直に言って、それもそれ、どっちもどっちだ。たまたま聞いていたらしい客のオヤジにまで笑われたのだから。
 だが、それでも。吉となるか凶となるかわからない神子が民に歓迎されているのは、こういうのが広がっているからなんだなと納得する。子供の頃から親しんでいるというわけだ。
 そして、それと同じように。
 異界からの訪問者もまた、民の間で浸透している。
 恋愛小説の方は、異界人の男と街娘の悲恋で。互いに惹かれあい愛を育んだ二人が、周囲に引き裂かれる話だ。
 だが、迫害を受ける男を愛した娘の視点で描かれるそれは、差別を憎む節はあまりなかった。二人とも、それを当然のこととしていて、ただ逃げるのみ。最終的には追いつかれ、男は谷へと突き落とされる。そうして娘もまた、恋人だった異界人を追い、周囲の静止を振り切り同じ谷に身を投げる。彼女がそれを選んだのは、腹に子供がいたからだ。恋をした自分は許されたとしても、異界人の血が混じる赤ん坊は許されないとわかっていたからだった。
 悲恋、なんて言葉では片付かない。遣る瀬無い話だ。
 これがただの物語であるのならば、どれ程にいい事だろう。だが、実際にはそれほどの差はない現実が、この世界にはある。
 だから。とてもじゃないが、こんな話では勉強なんて出来ないと。神子話も、オレ的には面白いものではないしと。オレが勉強に使うのは、必然的に詩集であって。
 復唱する事で覚えたそれを紙に書き、詩集を開いて見比べ始めて数日。ホンの少しだけれど、こちらの文字も書き慣れてきた。最初は必要に迫られ仕事でメモを書く度、これじゃ読めないな…と自分で呆れていたが少しはマシになった。
 もっとも、文字を習い始めたばかりの子供の字であり、キレイには程遠いのだけど。
 少し上達した字を見た女将さんは、やれば出来る子だとでも思ったのか。時間がある時は神殿に行けばいいと、オレに言ってきた。この国では、神殿で必要最低限程度のものだが、無料で勉強を教えてくれるらしい。だが、流石に二十三になる大の大人の男が、子供に混じって硬筆を習うというのもどうかというものだ。
 文字を知らないわけじゃないのだから自力で頑張りますよと遠慮すると、「教会で話を聞くだけでも勉強になるから、今度一度行ってみなさいよ」と再度勧められた。当たり前だが、文字ばかりではなく常識さえも心配されている自分に、オレは最早笑うしかなかったのだが。
 確かに教会で話を聞くのはいいかもしれないなと、暗闇の中で天井を見上げながら思い直す。
 今まで、宗教的なものに進んで関わりを持ったような事はなく、馴染みがなくて敬遠していたが。この世界やこの国の事を良く知るには、そういうところで一度話を聞いてみるべきか。宗教色が強ければ、広い見解は期待出来ないだろうけど。その偏りもまたこの国に浸透しているものなら、一聞の価値はあるはずだ。
 今のままでも、オレは充分色々と学べているが。女将さんやエルさんやお客さんは身近すぎて、訊くのを躊躇う事もある。オレとしては、一番の教師はリエムであるけれど、残念ながら彼は忙しい。
 ここでの生活も慣れ始めたし。少し、動き出してみるか。
 どこからどう行けば、王様に辿り着けるのか、糸口さえ見付けられていないのだから。今はどんな事でも沢山知って、この国で考え行動出来るだけの知識や力を持たなくてはどうにもならない。
 頑張れ、オレ。
 服の上からペンダントを握り締めそう自分を嗾けたところで、部屋の扉がノックされた。
「はい…?」
 出てみると、廊下には二階に部屋を取っている客の二人が立っていた。サルのような顔をした小柄な絵描きの爺さんと、中肉中背で特徴がないのが特徴な薬売りのオジサンだ。ちなみに、オレがこの宿に来た時はもう一人客が居たようだが、その翌日には出て行き、オレは顔を合わせる間もなかった。女将さん曰く、訪ねてきた二人同様常連なので、そのうち嫌でも会うだろうとの事だ。
 だが、出来るなら。会って嫌になるような人物には会いたくない。だけど、ここで働く限りそれは無理な話だろう。会うのに覚悟が居る人物なのかどうなのか、今度機会を窺って聞き出しておかねば。
「メイ、最後に一杯付き合わないか?」
「最後?」
 訪ねてきた絵描きの言葉に、オレは反射的に復唱し首を傾げてしまう。だが、直ぐに何を差しているのかに気付き、薬売りへと視線を当てる。
「ああ、そっか。トルーキさんの送別会だ」
「こいつだけじゃない、ワシもだ」
「え?」
「この薬売りがベイズに向かうというのでな、ワシもついて行く事にした。明日出発だ」
「ええっ、ムガ爺も!? 随分急じゃん!」
 薬売りが近い内に王都を出て隣国へ向かうのは聞いていたが、これは初耳だ。だから、素直にオレは驚いたのだが、拳ふたつ分は低い位置から見上げ笑う絵描きの顔はしてやったりな表情で。
「寂しがると思ってな、メイには教えなかったんだ」
「何だよそれ、酷いな」
「ま、決めたのはついさっきなんだがな」
 今日の夕方だよと、薬売りがささっ絵描きの話を補充してくれる。それを聞いて当然オレが思ったのは、なんて適当な爺さんだ!って事で、笑うしかない。
「じゃ、二人の旅の無事を祈って。オレが一杯奢るよ」
「おっ、いいねぇ。太っ腹じゃねーか」
「一杯だけだから。後は知らないよ」
「大丈夫だ。飲み過ぎて起き上がれなくなったら、薬売りに置いて行かれるからな。ワシだって気を付ける時は付ける」
「心配せずとも、二日酔いになったら私の苦い薬を分けてあげますよ。勿論、特別価格でね」
 軽口を叩きながら向かったのは、桔梗亭から左程も離れていない飲み屋で。
 店の中には、見知った顔もチラホラあった。桔梗亭に食事を摂りに来るオヤジ達だ。
 彼らと軽い挨拶を交わしつつ、空いた席を見付けて腰を降ろす。
 酒を飲むのは、この世界に来て初めてだ。

 ああ、そうだ。
 もしも。もしも、友人の結婚式とは言え、意識が保てないほども呑んでいなければ。
 オレは今、ここにはいなかったのだろうか…?


2009/02/10
41 君を呼ぶ世界 43