君を呼ぶ世界 45
温泉最高。
湯屋、極上。
王都生活十日目にして、念願がひとつ叶った。エルさんに湯屋へ連れて行って貰ったのだ。
そこは日本の温泉と言うよりも、ヨーロッパだっただろうかテレビで見た記憶があるような、とても開放的な場所で。まるで人気のアミューズメントパークにきた気分になるところだった。ノリはプールだ。一言で言えば、温泉パーク。
異世界での湯屋もそうだが、温泉なんていつぶりだろうと、ワクワクしていたオレ。けれど、想像していたのとはちょっと違うその落ち着きのなさに、なんだか笑うしかないホンの少しの寂しさを覚えもしたのだけど。
しかし、それ以上に。そんな事も吹き飛んでしまうくらいに、美味しい思いをしました。はい。
なんとなんと。入口は別で、入って直ぐは確かに男オンリーの色気も何もない男湯であるのだけど。
大浴場は、男女共通。そう、混浴だったのだ。オレのテンションが上がったのは言うまでもない。
当たり前だが隠すべきところは隠すのが礼儀で、男の多くは腰巻程度、女はワンピースや水着のような形の布を纏っていたのだが。年頃の女性と一緒に湯に浸かっているその味わいは、男でなければわかるまい。温泉以上に極楽だ。
エルさんにとっては慣れ親しんだものであるのだろう、すこぶる反応は鈍かったが。湯屋から戻ったオレの上機嫌振りに、「メイも男の子だったのねぇ」と女将さんは訳知り顔でからかってきた。オレとしては、疚しさはなく純粋に、目の保養をさせて貰っただけの気持ちだったのだが。言われてみれば、まぁ、そうだ。鼻の下が伸びたのには間違いない。
流石、国が経営しているだけありなかなか豪華で、広々とした湯屋そのものよりも。ほんのり青味がかった温泉よりも。オレが一番堪能したのは、確かに混浴と言う点だ。湯に浸かりながら華やかなものを愛でられる贅沢さは、日本人だからこそ感じる趣だろうか。兎に角、湯屋は思った以上にいいところだった。
だからと言うわけではないのだが、ここ数日オレはとてもご機嫌で、のびのびとしている。いや、それを通り越して、まったりだ。宿屋の客が居なくなったので仕事量も減り、その分、時間的にも精神的にも余裕が生まれたからだろうか。
一日一日が、楽しい。
「あ、オレがしますよ」
「あら、そうかい? 悪いねぇ」
庭の畑に水遣りをする女将さんを手伝い、井戸から水を汲み上げ桶で運ぶ。畑で出来た野菜は店でも使うそうだが、基本的には趣味でやっているだけなので、自分達で消費する方が多いらしい。
「あとニ、三日で良さそうだね」
今回も、収穫したものはオレの前任者である新米ママへ届ける予定とのことで。どうやら、その彼女と一緒に家庭菜園を楽しんでいたようだ。
示された、既にもう赤く染まっている実を眺めていると、どこからか子供の声が聞こえた。
少し遠くを走り抜けていくようなそれに耳を済ませれば、喧嘩でもしているのかもしれないと思えるもので。ちょっと見てきますと女将さんに声を掛け、オレは裏の路地へと出る。人ひとり通るのがやっとといったくらいの細い道を小走りで駆ける。
数ブロック目で、三人の子供を見つけた。
「何してるんだ?」
決して怒ったわけではない。声は微塵も荒げていない。だが、咎められたとでも思ったのか、かたまっていた輪の中からひとりが抜け出し、空に向かって何かを放った。振りかぶるその姿に、「やめろッ!」ともうひとりの少年の声が重なる。
そのまま駆け去っていく少年の手から放たれたものは、弧を描き視界から消えた。下は、案外流れの速い用水路だ。
「おい、危ないぞ」
用水路までは三メートル程あり、子供では飛び降りられないだろう。泳ぐ覚悟があるのならば可能だが、余り綺麗とはいえない水の中から放られた落し物を探すのは不可能だ。
水路を覗き込む少年に声をかけつつ近付く。先程からずっと、残されたひとりの泣き声が響いているのだ。
「どうした? 怪我でもしたのか?」
蹲る小さな子供の頭に手を伸ばすと、子供は弾けるように顔を上げてオレを確認し、怯えながら声を上げた。
「お、お兄ちゃんッ!」
「ああ、ビックリさせたか」
それは悪かった、ゴメンなと謝罪を続ける前に、オレと幼子の間に少年割って入ってきた。キッとオレを睨みつける顔は一端のナイトだ。
四、五歳くらいの妹と、七、八歳くらいの兄。警戒されているのをわかりつつも、何だか微笑ましくてつい構いたくなってしまう。
「ケンカでもしたのか?」
「……」
オレの問いに、予想通り少年は無言を通した。その後ろで、ギュッと兄の服を掴む少女の手に何かが握られているのに気付き目を凝らす。
「お手玉…?」
兄は相変わらず無言だが、オレの呟きに妹が涙を溜めた目を瞬かせた。
良く見れば屈んだオレの足元に、破れて中身が殆ど零れたお手玉の残骸がある。多分、去った少年が用水路に投げたのもこれなのだろう。
「……ひとつだけになっちゃった…」
辛うじて聞き取れるくらいの声でそう言った幼子が、兄の背中に顔を埋めた。
う〜ん。これは、ケンカと言うよりも。虐められた妹を兄が守ろうとしていたのだろう。だが、オレが偉いなと言ったところで、この兄の警戒は取れないだろうし。元気出せよと妹に言ったところで、何の慰めにもならないだろうし。
さっさと立ち去るのがこの兄妹には親切なのかなぁと思いつつも、関わったオレとしては何となく立ち去りがたくて。
とりあえず、ゴミにするしかないのだろうが、破れたお手玉を拾いあげてみる。中身はとても小さな何かの実で、転がったそれを全部集めるのは無理だ。近くのものを適当に寄せ集め、裂け目から入れて布を丸め込み、「縫い合わせれば直るのかな?」と少年に差し出す。
オレの一連の行動をじっと睨みつけていた兄は、それでも妹の大切なものだからか、オレからそれを受け取った。
「いいお兄ちゃんだな」
いつの間にかまた顔を上げていた幼子に、オレは微笑みかける。そして。
「ね、オレにちょっとこれ見せてくれない?」
小さな手で握り締められているお手玉を指差すと、数秒固まったが、幼子はオズオズとそれを差し出してきた。そんな妹を咎めるように、「チコ、ダメだッ!」と兄は怒るが、もう遅い。お手玉はオレの手の中だ。
「大丈夫、ちゃんと返すよ」
苦笑しながら、オレの手では片手ですっぽり握り隠してしまえるくらい小さなそれを観察する。これなら、ちょっと縫うだけで作れそうだ。子供の玩具なら、その辺に売ってもいるのだろう。
ありがとうと、見終わったので返そうとして。
オレは、ふと思いつき、「ちょっと遊ばせてね」と、借りたお手玉を空へ放る。
まずは手の平と甲で交互に弾き上げて見せ、二人の目をひきつけた所で立ち上がる。高く飛んだお手玉をリフティングするように膝で弾いき、再び落ちてきたそれを靴で受け止める。
小学だったか中学だったかにフットバッグが流行して、オレも例に漏れずに遊んだものだ。懐かしい。
暫く落とさないよう足や手で弾き続け、失敗する前に終わりにする。
「オレが小さい頃は、こうして遊んだんだよ」
ありがとうね、と。赤い目で見上げてくる幼子に大事なお手玉を返すと、子供は手の中に戻ったそれとオレの顔を順番に眺めた。
「……あ、あの…」
「ン?」
どうした?と。屈んで同じ目線に戻ったオレに、「あのね…」と小さな口が開いたのだけど。
「行くぞ、チト」
「あ…! お兄ちゃん!」
警戒心剥き出しな兄が妹を引っ張り、止める間もなくまるで逃げるように駆け出した。
ガクンガクンと上下に激しく揺れているチト嬢に大丈夫か?と苦笑しながらも、オレはバイバイと手を振る。左手は兄に掴まれ、右手は大事なお手玉を持っているので、振り返してはこなかったが。小さな女の子はそれでも、不安定な中で何度もオレを振り返ってくれた。
幼い兄妹を見送り、戻って女将さんに事情を話す。
訊いたところ、お手玉は安いものなら子供のおやつ程度の値段で買えるそうだ。だが作るのは簡単なので、大抵は母親の手作りである玩具だとか。日本と同じだ。
「何だい、買ってあげるのかい?」
「警戒されまくっていたし、そんな話はしていないんだけど。もしまた会ったら、それもイイかな…?」
「まぁ、貰って恐縮するようなものでもないしねぇ。いいンじゃないかい」
女将さんの返事に、「そうですね」とオレは頷きながら、出会った兄妹の姿を頭に浮かべた。
みすぼらしいわけでも、臭ったわけでもないが。
裕福な家庭の子ではないのだろうと予測できる程度に、二人の服は、肌は、雰囲気は、どこか草臥れていて。
それが何だかとても気に掛かった。
是非また会いたいものだ。
2009/02/26