君を呼ぶ世界 46
王都に来て半月。
あっという間に、日々は過ぎていく。
家庭菜園の収穫物を届ける女将さんにお供して、オレはオレの前任者である新米ママさんを訪ねた。
笑顔で迎えてくれたのは女将さんよりもまだ小柄な若い女性で、年齢を聞くわけにはいかないが多分オレより下だろう。その彼女の腕の中には、まだ首も据わらない赤ん坊がいて、オレを妙にドギマギとさせた。
赤ん坊と言うのは不思議なもので。照れくさいというか、生々しいというか。なんと言えばいいのかわからないが、可愛いと思うのと同じくらいに、モゾモゾとした戸惑いを覚えさせる。それが、全くの初対面である女性の子供なのだから、オレはどうしたらいいのかわからずお手上げだ。
小さいですね、可愛いですね、なんて言葉しか掛けようもなく。同じ女として明け透けな会話に発展しつつある女将さんに断り、お供の癖に早々と暇を告げる自分をどこか情けないと思いつつも、オレは新婚家庭を退散しひとり帰路に着く。
まるで中学生の反応だと自分で突っ込みもするが。いや、でも、だって、なあ。オレはまだ結婚なんて意識もしていないただの学生だ。他人の家庭を覗くの早いだろう?
確かに、もう二十三歳だけど。ごく一般的な平成日本の男子学生ならば、赤ん坊にも新妻にも免疫がなくても普通だろう。結婚をした友人は何人か居るし。それこそ、こちらに飛ばされる前にも、中高と仲の良かった奴の結婚式に出席していたくらいだ。理屈としてはわかる。だけど、実感は伴わない。
高校を出て働いた奴らは、もう社会人五年目で。オレが結婚するより早く、彼らは子供を持つのだろうけど。所詮、今はまだ他人事でしかない。会えばその手の話は一緒になってするけれど、オレ自身はまだまだ蚊帳の外だと、そんな確信だけを強く持っていて。正直に言って、家庭を持つなんておぼろげな未来にさえない状態だ。
だけど。
母親の腕の中で眠る、未知の生物に近いようでいて、何よりも尊いものでもある赤ん坊を見ていたら。しみじみと、オレは父親なんてものになるのだろうか、なれるのだろうかなんて事を考えてしまう。
そう。オレは元の世界に帰って、自分の命を未来に繋ぐことは出来るのだろうか。
その答えはまだ決まっていないはずなのに。眠る赤ん坊を思い出せば、自分には一生アレを得るのは無理なような気になってくるのだから堪らない。その予感はまるで、オレに未来のない現実を教えるかのようだ。
慣れた毎日は他愛ないけれど、楽しいといえるほど充実している。ここがどこであるのか、自分の境遇を忘れそうになるくらい、オレはこの日々を満喫している。
それでも、ふとした瞬間にこうして顔を覗かせる不安や絶望。それを撥ね退ける気力はあるけれど、陰が差し込む事は止められはしないのだ現状で。それはオレを虚しくもさせる。
この日々を虚像だとは思わない。自分は過酷な現実から逃げているのだとも思わない。他者との関わりも、仕事で得る疲労さえも、オレにとっては大切だ。
だけど、ここが自分が居るべき世界でないのが根本にあって。
それは、どうしようもない事だけど。仕方がないなんて言葉では、流しきれない事でもある。
オレは、この理不尽を受け入れたわけではなく、前向きでいなければ狂ってしまいそうだからこそ、何となくでも折り合いをつけているのである。けれど、それは身体だけじゃなく心にも負担をかけるもので、無理をしている感覚は消えない。それでも、これ以外にオレがここで生きていける方法はなくて。
この世界が良いか悪いか、そんな事は関係なく。オレがここにいる事実が、オレの中でストレスとして蓄積されていて。
日々の中では、それを忘れる事も乗り越える事も出来るけれど。
多分、消化する事はないのだ。元の世界に戻るまで、オレの腹に溜まるこれは消えはしない。
その、自分でも苦味しか覚えないそれが、どうしても自身の中にある痛みが、ただただ遣る瀬無い。
見慣れた街中を歩きながらも、独りになれば嫌でも見せ付けられるそれに、オレは気力を奪われる。
それでも、足を進める自分を。
時々だけど、笑えば良いのか、褒めれば良いのか、わからなくなる。
そんなわからない中でも、足は進めるのだ。
止めるのが、怖いから。
「メイ!」
明るい日差しに照らされて延びる自分の影を見ながら歩いていたオレは、桔梗亭の近くに来たところで名前を呼ばれた。顔を上げれば、食堂の前にリエムが立っていた。
一気に気持ちが跳ね上がる。
一週間ぶりのリエムだ。仕事の間でオレの様子を覗きに来てくれたらしい。だが、肝心なオレがいないので、エルさんと少し話して帰ろうとしていたところだとか。
グッドタイミングだ。あと一歩遅ければ、擦れ違っていただろう。
「相変わらず忙しいんだな」
「ああ、まあな。だが、大分落ち着いたから、これからはもう少し顔を出すようにするよ」
「ははっ、悪いな。ありがとう」
恋人でもないんだから、流石にそれはとリエムの台詞に苦笑しつつも、オレは素直に礼を述べる。気にかけさせるのは申し訳なく思うけれど、心細さが抜けきらないオレには、リエムのこの優しさはありがたい。
「でも、まあ、オレも頑張ってるから。大丈夫だよ」
「そうみたいだな。紹介した俺も鼻が高いくらいだ」
「それは言いすぎだ」
「いや、メイはしっかりやっている。やりすぎている感もあるンじゃないのか? 折角念願の王都に来たのに、少しは遊べよ。つまらないだろ?」
なんなら今度、俺が王都を案内してやろうか?と続けられた言葉に、オレは「ホント!? やったー!」と両手を上げて飛び付き歓迎したのだけど。
オレ、休暇ってあるのかな?
食堂に定休日はないのだけど、どうなンだろう?
浮かべた疑問のままにそれを口に乗せてみれば、「前もって言っておけば平気だ」とリエムが言い切った。女将さんもエルさんも、用があれば休みを取るとの事。その際、食堂自体も閉める事があるのだとか。流石、昔からの常連なだけある奴だ。従業員であるオレよりも知っている。
「じゃ、休暇日確認しとくから。約束だぞ」
「うん。オレも女将さんに話しておくよ」
宜しくなと笑ったところで、リエムの後ろにオレは思わぬものを見付けた。
桔梗亭と隣の建物の間の細い路地から、先日の兄妹が顔を覗かせていたのだ。
「おう、どうした?」
目が合ったので片手をあげて挨拶したのだが、リエムが振り返ったからだろうか、スッと二人揃って顔を引っ込める。相変わらず警戒心が強い。
だけど、顔を見せてきたということは、少しは歩み寄ってくれようとしているわけで。
「知り合いか?」
「知り合いって言うか……う〜ん、ま、知っている子供なんだけど」
まだ懐いてはくれていないんだよなとリエムに説明している側から、また顔が覗いて。これ…と言うように、兄の方が手に持っていたお手玉をオレに見せた。
オレに会いにきてくれたのかと確信を持つと同時に、得も言えぬ喜びが胸に浮かぶ。単純に、嬉しい。
リエムにまたなと挨拶をして足早に二人のところへ向かうと、案の定、オレが近付いても兄妹は逃げなかった。
「どうかしたのか?」
「……」
座って目線を合わせると、兄は少し気まずげに視線を逸らせたが。
「あのね、お兄ちゃんダメなの」
「ン?」
「だからね、また、ポンポン、やって、ね?」
「ンン?」
妹の方は一生懸命に言葉を繋いでくれる。だが、ポンポンってなんだ?
「…この前やったの、教えて」
笑顔のままであるが、疑問符をいっぱい浮かべたオレを救ってくれたのは。まだ若干警戒心が残っているように思える、兄のぶっきらぼうながらも素直なその言葉だった。
「ああ、お手玉でオレがやったヤツか?」
「…ボクもやりたい」
「あたしもー」
硬い表情のままの兄とニコニコ顔の妹の言葉に、勿論オレが返したのは了解だ。二人を促し、裏から桔梗亭の庭へと入る。
敷地を囲むように縁に植えられた花に喜ぶ幼子の姿に目を細めたオレに、下から固い声が向かってきた。
「…ギュヒ人じゃないよね?」
「えっ?」
「なのに、どうしてギュヒ語を使うの?」
「……」
問い掛けてくると言うよりも、睨みつけてくるかのような少年の強い視線にたじろぐけれど。
残念ながら、意味がわからない。
と、言うか。答えられるものがない。
ギュヒ人、ギュヒ語、何なのよ…?
2009/03/02