君を呼ぶ世界 57


 本日の収穫は。
 全てがオレの糧となるのだろうか。

 真夜中近くになって漸く店を出た。王宮に近いこの界隈に馴染みはなかったけれど、流石に迷子にはならないからとそこでリエムと別れようとしたのだけれど。
「今夜は実家に戻る事になっている」
 その言葉に押し切られて、結局オレは見慣れた場所まで送って貰った。何度も行き来した事のある通りまで来て、そこであっさりと「じゃあ、またな」と言って去っていくリエムの後ろ姿を見送って。遅ればせながら、実家へ戻るというのはオレに気を使わせない為の嘘じゃないのかと気付いたけれど。
 追い掛けて確かめる訳にもいかずに、ただ参ったなと苦笑するにとどめる。
 実際に、実家は王都とのどこかにあるのだろうし、それがこの近くであっても不思議ではないけれど。何となく、今夜そこに帰るわけではないような気がした。リエムはまた、いま来た道を辿って王宮へ戻るのじゃないだろうか。本当に、王都に不慣れなオレを送り届けてくれただけじゃないのだろうか。
 そう思えば、もうそうとしか思えなくて。何て気が回る奴なのかと感謝と関心が浮かび、同時に呆れと照れも浮かぶ。女の子じゃないんだから、そこまでしなくともいいのに。
 まるでデートだなと、自分で思ってしまったそれに即座に自分で呆れて、オレは静かな道を進みながら小さく笑いを落とした。
 リエムの優しさは心地が良い。けれど、これは余り慣れてはいけないものなんだろうなと、満天の星空を見ながらそう思う。
 オレに必要なのは、甘えられる場所ではなくて。
 自分でしっかりと立てるだけの力なのだ。
 それこそ、リエムのような強さが欲しい。
 女将さんはもう休んでいるだろうと、桔梗亭に帰り着き、足音を殺して静かに部屋へと戻る。買った本を手にしたままベッドへと身体を投げ、オレはゆっくりと深い息を繰り返す。
 酒のせいで身体が熱いというのに、頭の芯はどこか冷えている感じだ。
 身体は疲れているし、眼もショボショボと言った感じだけれど。思考は休む選択を放棄して、冴え渡るかのよう。
 睡魔を捉えるタイミングを逃したのかもしれないと、眠る事は早々に諦め、オレは体の向きを変え星明かりが差し込む窓を眺めながらボンヤリと色んな事へ思考を飛ばす。
 今日見た市場の様子だとか、国を追われた兄妹のことだとか、同性婚のことだとか、この世界に来てからの日々だとか、リエムが亡くしたという友のことだとか。
 この世界の人間でもないオレが、こうしてちゃんと仕事をして飯を喰って、友達を作って遊んだりまでしているというのに。ここで生まれ育った、まだ人生はこれからであたのだろ若い者が亡くなったというそれは。オレとは何ら関係なく、それこそ自然の理でもあろうに。何だか不可思議さを覚える。
 流石にもう、夢だとは思えず。夢だとしても、これがオレの今だと言い切れるくらいに、この世界に浸かっているのだけれど。
 改めて、オレはここで生きているんだなァと、それが心に染み入る。
 ならば。
 オレは向こうでは一体、どうなっているのだろうか。
 服の下からペンダントを引き出し、指先で弄びながら目を瞑る。瞼の裏は闇ではなく仄かに白さが残る世界。それは、この世界の星の輝きの名残ではあるけれど、まるでオレと元の世界を隔てる霧のようだ。
 考えれば考えるだけ、想像しか出来ないそれに苦しく辛くなるので。出来るだけ、オレが居なくなって皆がどうしているのかという事からは目を逸らし、兎に角平穏に暮らしていてくれと祈る方に意識を向けているけれど。それでも、どうしてもそこへ向かう思いは止められない。両親は、友人達は、大学の皆は、突然消えたオレをどう消化しているのだろう。
 失踪者として忘れられていくのかと思うと、叫びたいような恐怖と、笑いたいような絶望と、泣きたいような呆れが入り混じった複雑怪奇な思いが胸を占める。だけど、オレはここでそんな想像をし、勝手に苦しさを覚えるけれど。彼らにしてみれば逆で、当然オレはどうしているのだろうと、なぜ失踪したのかと考えるわけで。オレと同じように、辛さを噛み締めたり、無事を祈ったりしてくれている事なのだろう。
 オレは今、支えはあってもそれでも孤独だ。けれど、きっと、あの場所で今も変わらず生きている彼らもまた、虚しさを味わっていたりするのだ。こんな状況は、互いに厳しくて辛くて、不健康すぎる。
 もしも声が届くのならば、オレは失踪したわけではないのだと伝えたい。何かに不満があったわけでも、誰にも相談できない思いを抱えていたわけでもないんだと言いたい。そう言う意味で消えたわけじゃないんだと、誰もが何ひとつとして悔やむ事はないんだと教えたい。
 結婚と言う人生の大イベントの翌日に、結婚式にまで出席した友人が消えたと知ったら。花婿のあいつはどう思うのだろう。同じように、オレが一番最後まで一緒に居たことになる、三次会まではしゃいだ面々はどう考えるのだろう。週明けにノートのコピーを頼んでいた後輩は。共同発表の準備を進めていた同期は。デートじゃないけれど、遊ぶ約束をしていた女友達は。
 色んなやつの事を思い浮かべ、少なくとも皆が皆、「居なくなって清々した」なんて言うような者ではないと思えば。自分のせいでこうなったわけじゃないのだけれど、とても申し訳なくて、心苦しい。
 その点で言えば、両親に対しての方が、そういう罪悪感は小さい。確実に、彼らもまた、当たり前だけどそれこそ友人知人達以上に、オレの失踪に胸を痛めるだろう。だけど、それでも彼らなら大丈夫だと信じられる。泣き喚く日々が続いても、立ち直る日が直ぐに来るだろうと思える。そういう意味では、あの二人は本当にタフだ。それは、常に彼らの傍にサツキが居るからだろう。その彼女に対する彼らの姿を、誰よりも近くで見ていたからオレだからわかること。
 そして。それはオレも同じ。
 オレの傍らにもまた、半身である彼女は在り続けているのだから。
 だから、オレはこんなところでヘバりはしない。
 絶対に帰る。帰ってみせる。
 そう、だからそれまでは。何がなんでも彼らのことを頼むぞと。両親の平穏をサツキに託しているうちに、オレはいつの間にか眠りに落ちたらしく。
 それに気が付いたのは、部屋のドアを叩く音で覚醒に導かれてであった。
 瞼をあげずとも眩しい光に顔を顰め、上掛けに潜り込もうとしたところで。
「メイ、大丈夫か?」
 開けるぞ、と。聞こえた知った声と、再び続くノックの音に、オレは驚き飛び起きる。
 エルさんが居るという事は…ッ!!
「ゴメン! 寝過ごしたッ!!」
 勢いよくドアを開けると、エルさんが顔に苦笑を浮かべながら腕を下げるところで。
「気分は?」
「え? あ、大丈夫、元気…です」
 リエムと呑んだことは知っているのか、二日酔いを心配され、本当に平気だと返せば、「それは良かった」と安堵される。けれど、半休とは言え休みを貰った翌日にただの寝坊をしてしまったオレとしては、その気遣いはとても居た堪れないもので。
 直ぐに仕事を始めようとドアを閉め駆け出そうとしたところで、「別に慌てる必要はないぞ」と声が落ちてくる。ゆっくりしろと続く言葉に首を傾げれば、まだ朝の時間帯であるのを教えられた。いつもは昼の開店前に出勤するエルさんだが、今日は朝市に行った足でそのまま来たらしい。
 食えそうなら朝飯作ってやろうかと、食堂へ向かう男の姿を追いながら、思ったほども寝過ごしていたわけではない事実にオレはホッとして。
 そして、前を行く男に伝える事があったのを思い出す。
「あの、エルさん。昨日、街で、その、ハースさんに会ったんだけど…」
 どう言おうか、結局決められてはいなくて。けれども、今を逃せばズルズルと言い逃しそうで。言わなきゃとの思いだけで口を開き、足を止め振り返ってくれた相手を見返すことも出来ずに、オレはしどろもどろと事実をそのままエルさんに伝えた。
 擦れ違っただけで顔も覚えていないのだけど、後から彼がハースさんだとリエムに教えられて。それで漸く、自分が勘違いしていた事をオレは知ったのだと。今までエルさんの結婚相手は女性だと思い込んでいて、それに似合った発言をしていました、ごめんなさいと。これからは気を付けるから、許して欲しい。
 そんな事を、リュフのスア語以上に拙い言葉で紡いで頭を下げたオレの後頭部に、落ちてきたのは溜息と、厚い手で。
「上げろ」
 命令調の固いそれに、緊張を覚えながらも曲げた腰を伸ばすが、顔までは上げられない。
「それで、メイ。お前はどうなんだ?」
 数秒の沈黙を取って、エルさんは声音をいつものものに変えて言う。
「仕事は仕方がないとしても、それ以外では男と結婚するような俺とは付き合いたくなくなったか? それとも、仕事をするのも嫌か?」
「なッ、何を! そんなわけない! 全然思ってないよ!」
「なら、今まで通りでいいのか?」
「エルさんがオレを許してくれるのなら…」
「許すも何もないだろ。お前が、同性と結婚した俺を許容出来るのならば、今まで通りだ。俺はお前を気に入っているからな。俺もその方が有り難い。嫌だというのなら、そうだな。仕事を辞めるわけにはいかないから、必要以上には話し掛けないようにするって事くらいしか約束出来ないんだが…どうする?」
「…何それ。オレの方が新参者で立場も低いのに、なんでエルさんの方が下手に出るの……」
 思わず溜息を吐いたオレの髪をガシャガシャと掻きまわし、エルさんは笑いながら食堂へと足を運ぶ。
 ……えっと…これで、お仕舞い? こんなので、いいの?
 エルさんの様子は、確かにいいのだと言っているけれど。余りにもオレに都合の良い展開に、追いかけながら今一度確かめる。
 必至なオレに、本気でオレが悩んでいた事に気付いたのか。気にするなと慰めてくれながら、エルさんが同性婚の実状を少し教えてくれたのだが。それは確かに許されているが、実のところ、リエムが言うほども広まっているわけではないようだとオレは知り、大袈裟にオレを脅した友人を少し恨む。
 だけど、リエムが言った事は、正しくもあった。

 自分の愛する者がそんな扱いを受けていたというのに。
 エルさんは、オレの無知ゆえの無礼を、笑いひとつで許してくれた。


2009.04.09
56 君を呼ぶ世界 58