君を呼ぶ世界 60
残念ながら、男です。
リュフとチトから話を聞き、オレを女性だと思い込んでいたお姉さんは。
自分の勘違いに笑いながらも、細めた目でオレをじっと見つめた後で、「でもおかしいわね」と首を傾げた。
「私がそう言うつもりで話しても、二人は何も言わなかったけど」
お前はホントにメイなのか?と、その視線にはそんな疑わしげな色が込められている。
オイオイ、リュフ、チト。何故に、お姉さんの誤解を解いていないんだ?
ヤレヤレ困ったなと、内心で溜息を吐くオレ。だけど、オレだって、一昨日までエルさんの相手の性別を誤解していたし。案外、こういう誤解は一度起こると後からは気付き難いものなのかなと、人間思い込んだらちょっとやそっとの矛盾は自己修正してしまうしなと、納得したところに詳しい指摘が飛んでくる。
「だって、そんな可愛いお手玉を作るのだし、料理が上手だし、男の人とは思えないわよ」
「……いえ、あの。お手玉は、桔梗亭の女将さんが作ったんです。料理もオレじゃなくて、本職の料理人が」
「えッ、そうなの? ふたりとも、アナタの話ばかりするから、てっきりそうだと思っていたんだけど」
「オレは、ただ一緒に遊んでいるくらいです」
参ったなと苦笑を浮かべながら、オレはお返ししますとお手玉を差し出す。
だが、手元を見ていたあの兄妹のお姉さんは、ガバリと音がしそうなほど勢い良く顔をあげると、「それホントかしら? あの子達と遊んでいるっていうのは嘘じゃないの?」と強い声で言ってきた。
「え?」
今度は、何だ?
「いや、あの、本当に、ふたりとは友達なんだけど…?」
「じゃ、訊くけど。弟達と遊ぶアナタがどうして、リュフと同じような歳の子供を追い詰めていたのよ。おかしいじゃない」
剥き出しの腕を組んで、オレよりも少し下の位置から睨みを効かせてくるお姉さんの言葉をゆっくりと噛み砕き、警戒されている理由に漸く思い当たる。リュフ達が話す人物像とオレが掛け離れていたのもさる事ながら、実際に目にした先程の光景を、未だにこの姉は誤解しているというわけだ。
本当に弟達と遊ぶ本物の相手であっても、今さっきの行いは許せないとの態度を崩さない女の気迫に、オレは急かされるように誤解を解くための言葉を紡ぐ。
リュフ達が追いかけられていたのを見かけた事から始まり、そもそもふたりとの出会いも意地悪をされているのを目撃したのだというのも付け加えて、先程の少年は件の虐めっ子のひとりなのかもしれないとオレは憶測を述べたのだけど。
その話を聞いたお姉さんの反応は早かった。
「あのガキ…!」
逃がさないわよ!と、聞こえた声に驚くオレの前からその姿が消える。
「え? あ、ちょっ…!!」
駆け出した彼女の後ろ姿に、オレは考えるよりも早く後を追いその身体を掴まえていた。
この人は、何を考えてンだッ!
「何よ、放してよ!」
「今更、もう追いかけても遅いから…」
「わかんないわよ、そんな事! アンタ、どっちに行ったのか見てないの!?」
「本気で追い掛ける気なの?」
「当たり前でしょ! 一発殴ってやんなきゃ気がすまないわよッ! 大体、アンタがさっさとそれを言っていたら、あのガキ逃がさなかったのに! …って! ちょっと引っ張らないで!」
「その格好はマズイから」
「別に構わないわよ!」
「いや、構うって…ホラ、足だって裸足だし怪我するよ」
「ヤだ、放して! 邪魔すんじゃないわよッ!」
行かせてと喚くお姉さんの腕を掴み引き戻すが、全身で抵抗される。これでは、オレが悪者だ。
っていうか。彼女のその格好でのこれは……日本なら間違いなくオレは警察に通報されるだろう。
しかし、だからと言って。先程は子供を助ける為とは言え、オレに対してお手玉を投げつけ水をぶっ掛けた女だ。今ここで手を離したら、本当にこの姉はあの子供を探し出して鉄槌をくだすのだろう。
たとえ、あの少年がリュフ達を虐めているのだとしても。それは流石に阻止した方がいいような気がする。オレにさえ怯えていた彼には、このお姉さんの相手は無理だろう。瞳を濡らす程度じゃすむまい。
「あのさ、お姉さん。その格好、アナタが気にしなくてもさ、周りは気にするの。年頃の男としてひとこと言わせて貰えるのならば。どうか自重して下さい、お願いします」
「はァ!? それって、アタシなんて見たくはないって事!? 目が腐るってかッ!?」
こちらが「はァ!?」だよ、お姉さん…。その勢いでボケないで……。
「逆だよ、逆! だから困るの、察して下さい」
だからさ、探しに行きたいのなら着替えてきなよと。
勝手口と思しき扉に向かい、細いその身体を押しやった時。上から声が落ちてきた。
「レーイ、客を独りにして、何しているのかな?」
振り仰ぐと、先程お姉さんが顔を出していた窓に三十前後の男。裸の上半身は、どちらかといえば細身だけど、充分引き締まっているのが遠目にもわかる。
「流石の私も、これは少し面白くないねぇ」
そう言って腕を組む男は、けれども声音ほども怒ったような雰囲気はなく。むしろ、重なった目は楽しげなものだった。興味深げに見られ、オレは思わず顔を反らす。
太陽はまだ頂点に向かって昇っているところであるのだけれど。
チラリと視線を向けたお姉さんの顔は、ここに来て初めて見る困ったようなもので。
……つまりは、そういう事かと。だから、この格好かと。で、見下ろしてくるあの男の言葉が本当ならば、そうなのかと。
納得と驚きと、そして困惑と。複雑に混じった感情に表情が定まらないオレの横で、小さく息を吐いたお姉さんが客である男に直ぐに戻るからといま少しの猶予を求めている。
「私が寂しくなる前に戻っておいで」
そう言って、男はひらりと手まで振ってから窓辺を離れた。
「……」
「……」
男の登場によって、微妙な空気が生まれたようで。
何となく気まずさから視線を逃がしたオレの耳に、短い沈黙後ながらもはっきりと、「誰にも言わないで」との声が届く。
「アナタが何を思っても、別にいいけど。リュフとチトには絶対に言わないで」
「…わかった」
「戻るわ。じゃ」
「えっと、あの、レーイさん」
ドアノブに手を掛けたまま振り返った顔は、無表情の中に警戒を混ぜたようなものだったけれど。オレはあえて笑い掛ける。
「リュフとチトの事は、オレも気に掛けるよ。だけど、ふたりとも賢いし、いい子だしさ、きっと大丈夫。余計な事を教えたのかもしれないオレが言うのも何だけど、その、リュフが言い出すまでは待ってくれないかな」
この姉なら、弟に真相を確かめるくらいの事はするだろう。あの勢いで問い詰められては、リュフが参るんじゃないのかとふと思い、オレ自身はそれをしたというのに待てと頼む。矛盾している気は確かにするけど、オレが先にしてしまっているからこそ、この人は待ってやって欲しいと思う。
「……アタシが何をしているのか、わかったわよね?」
意外な事に、返ってきたのはオレのお願いに対する返事ではなく、濁したそれの確認だった。
「あ、まあ…、多分だけど……」
「その想像で間違いないわ。……アタシを、軽蔑…する?」
「は?」
オレが、か?
何で?
「する訳がない」
「どうして?」
「どうしてって言われても…」
理由が何であれ、身体を売るというのは、確かに褒められたものではない。だけど、それが生きる為でも、遊ぶ為でも、快楽の為でも、オレが声に出して責めるような部分はきっとないだろう。他人のオレが侵していいところにそれはないはずだ。
何より、病気の母親と大事にしている弟妹が居る事実を知っていれば、この女性が最良の道としてその職を選んだわけではないのだろう事は簡単に憶測出来るというもので。軽蔑など、覚えるはずもない。
むしろ、逆に近くさえあるだろう。
「オレは、アナタが短慮な人物だとは思えない。だから、オレが言う事は何もない」
そう、言える言葉などない。
だけど、思う事はある。考える事はあった。
オレの心の中を見透かすよう、真っ直ぐと視線を向けてくる女性を見返しながら、オレは思う。このお姉さんがどうこうではなく、オレ自身はどうだろうと。オレはこの人のように、自分の目の前に立ちはだかる事態にちゃんと向かっているのだろうか。
「ありがとう。――あの子達の事、お願いします」
「こちらこそ、宜しく」
目を伏せて静かに言って来た言葉にそう返すと、レーイさんは何故か瞠目したけれど。
次の瞬間には、柔らかい笑顔を向けてくれた。幾分幼く見えるその表情に、オレは昨日見たチトの顔を重ねる。
流石、姉妹。そっくりだ。
ああ。
オレもサツキに語りかける時は、こんな顔をしているのかな。
2009.04.20