君を呼ぶ世界 61


 この踏み出す一歩は、どこへ向かっているのだろう。

 開店準備の途中で思わず、逃げた少年を追いかける為に飛び出してしまったのだと。桔梗亭に戻ると同時にスミマセン!と理由を述べて頭を下げたのだが。オレの謝罪に返ったのは苦笑だった。
「言わなきゃわかんないのに、真面目だねぇ」
 女将さんもエルさんも、オレが職場から離れた事に気付いていなかったらしい。どこかで掃除をしているのだろうと、ふたりとも気にも掛けていなかったようだ。信用されているのか、何なのか。ちょっと微妙だ。
 子供を本気で追いかけるなんて大人気ないわねと、窘めるのではなくからかうように言ってくる女将さん。逃げられたのなら意味がないなと、呆れではないだろうけど肩を竦めるエルさん。
 ま、とりあえず。迷惑をかけたわけじゃないのなら良かったとしよう。
 脱線を許してくれるのは有り難いけれどヒトコト多いんですよ…と。小さな文句を飲み込んで、オレはサボった分気合を入れてテキパキと店の用意をする。
 暫くすると、本日一番の客がやって来て。店はいつもの賑わいに包まれる。
 そうして、昼の営業を終え一段落した頃に、リュフとチトが現れた。こちらも、いつものように愛らしさを撒き散らして、オレだけではなく女将さんやエルさんをも癒して、夕方前に帰って行った。
 どこまで少年を追いかけたのかエルさんに訊かれて説明した際、あの辺りが王都一の歓楽街であり、子供がうろつくのは似合わない場所なのだと教えられた。だから、そこで見失ったからといって、またあの辺りを探しても居ないだろうなと。そう言う意味でエルさんは言ってくれたのだろうが、オレとしてはちょっと他にも考える事があるというもので。
 レーイさんが俺に頼んだのは、身体を売っている事実をふたりに教えないでくれという事であって、オレとの出会いを秘密にしたいわけではないのだろうけど。怪しい少年を追いかけた事も、その先でお姉さんである彼女に会った事も、兄妹には言わずにおいた。
 オレは自分のそれだけで一杯いっぱいで、下手に秘密を抱えたまま話しなどしては、ついウッカリ零してしまうかもしれないのだ。危ない事は出来ない。
「おお、そうだ。メイ!」
 何よりも。垣間見た彼女の意地を、オレなんかが踏み躙ってしまわないように。嘘を吐く事になったとしても、あの幼い子供達には隠し通したいとオレ自身が思うから。
 だから言わない、誰にも言いはしない、と。記憶を掠めた彼らのそれぞれの表情に、決意のように意思を確認するオレを、遠慮なく大声で呼んでくる男が居た。カウンターから店内を覗けば、今さっき料理を出した客だ。
 呼び戻され手ぶらで戻ると、おもむろにグイッと腕を引かれた。テーブルに覆い被さるようになったオレの耳を引き寄せ、「秘密なんだがな」と声を潜めて囁きかけてくる。
「近々、この先の水路工事の現場に、お忍びで王が視察に来るらしい」
「……え?」
 王って、王様…?
 しかも、お忍びで?
「って。何で、王様が忍ぶの…?」
「そりゃ、公の視察は色々面倒な事もあるからな。時折、こう言う事はあるんだよ。ま、お忍びなだけあって、それが知れるのは大抵終わった後だけどな。先に知っているのは、迎える現場の管理者くらいなものだ。労働員にも知らされない」
 知らされたら礼をとらなきゃならないし、お忍びの方が俺らは楽なんだけどな、と。男の笑う声を聞きながら、オレは曲げていた腰を伸ばす。
「拝顔したかったんだろう、丁度いいじゃないか」
「うん、まあ、そうなんだけど…」
 突然何だと思ったが、そう言えばこの男とは一緒に飲んだ際そんな話をしたなと気付く。
 いや、それよりも。なんてタイミングなのだろう。
「えっと、キノサさんはそこで仕事しているの…?」
「いや、知り合いの情報だ。同じ労働員の、な」
「お忍びって事は、周りにわからないようにしているんでしょ? オレ、見に行っても判るかどうか…」
 そもそも。確かに、どんな奴なのかという意味で、顔を見てみたくはあるけれど。実際には、遠めで見るだけでは何の意味もないのだ。オレが王に求めるのは真実の開示と、情報提供である。
「そりゃ、まあ。他の役人と似たような格好をしているだろうが。見ていたらわかるもんさ。それに、王はなかなかの美形だからな。その中で一番、娘子に人気のありそうな男前を探せば間違いない」
「何それ、適当だなァ」
「それ以上に確実な手はないさ」
 自信満々に言い切る男に苦笑しながらも、オレは会いたいと思う反面しり込みするような気持ちを覚える。
 流石に見た途端に理性を切ってしまって、「お前が神子召喚をしたのか!?」と掴みかかるような事は絶対にしないだろうけど。声を掛けたくなるくらいはあるだろうし、それを押さえられるかどうかの自信はないし。けれど、きっと王様相手にそんな事したら、無礼だとかなんだとかで問題になったりするんだろうな、と。予測がつかない事が多くて、いざとなるとズルズル後退るように色々考えてしまう。
 この国での生活の為なのだろう、自分と変わらない歳の女性が身体を売っていて。それでも、凛と真っ直ぐ前を見ていて。人生に立ち向かっていて。
 そんな彼女に触れて、オレは自分自身はどうなのだろうと考え、もっと踏み出すべきだと思ったのだけど。オレがこの世界に飛ばされた手掛かり候補第一位のこの国の王様に会わなければと、改めて考えたのはまだ半日前の事なのだけど。
 平穏の生活を得る事で、この異常事態を飲み込もうとしていたのも間違っていたわけではないはずだ。むしろ、そうであったからこその今がある。だが、それでも。このまま安寧とこの世界で暮らせていけるわけもなく、いけたとしてもオレは心底でそれを望んでいるわけでもないので。きっと、いつかは、崩れ去るのだろう。
 それを感じているのに、元の世界を求めているのに、どうしてもっとオレは進んでいかないのだろうか。オレは本当に、一生懸命やっているのだろうか。
 強い意志を持っているのだろうレーイさんを見て、己の小ささや弱さに気付かされて。
 召喚は何故行われたのか。その結果はどうなったのか。それを知る為に、まずはこの国の王様に会おう。この世界を知ろう。何故オレがここにいるのか、納得したい。そう思っていた、じいさんの下を出発したあの頃の気概を取り戻そうと、心の中で独り静かに今一度意気込んだその日に齎された、王様への足掛かり。
 まるで、オレを試すかのようなそれに。
 情けなくも、やってやろうじゃんか!ではなく、どうしよう…と若干びびっているのだから。オレってばもう、ダメダメだ。
 これは、チャンスなのか。それとも、落とし穴なのか。
 そんな風に考えてしまう自分は、慎重なわけではなくて、ただ臆病なだけなのかもしれない。
 元の世界に戻れないとの言葉を信じたくなくて、それに背中を押されるように爺さんのところを出たけれど。結局、居心地の良い場所で止まっているのだから、これでは王都まで来た意味がない。まだ、王都に着いてひと月も経たないのだから、何も出来ていなくて当然だけど。だけどそれ以上に、奮闘する気持ちをオレは無くしてしまっている。
 王様、か……。
 リエムの馴染みと知って、人となりを少し訊いて。親近感が少し沸いたからこそ、余り会いたくないような気がするというのが正直な気持ちだ。もし、本当に。若い王がオレをこの状況に追いやった原因だったら、どうしよう。
 オレはその時、何を思うのだろう。
 知りたいと思うのに、知るのが怖くなっている。それくらいに、オレは今の生活に浸かっている。
「四、五日のうちの話だ。その時は声を掛けてやるから、抜けられるようなら行ってみればいいさ」
「そうだね、ありがとう」
「ああ。だが、それより前に、漸く嵐が来るようだしな。被害が出れば、予定が変わってしまうかもしれん」
「嵐?」
 リエムの友人の顔を拝むような軽い気持ちで行けたらいいのだけどな、と。王様よりも何よりもその前に、もっと身近なところから召喚についての知識や情報を得ていかないとな、と。気持ちを整理しようとそんな事を思っていたオレの耳に、思わぬ言葉が入ってきた。
 嵐とは、また唐突な。
 青空が続きまくっているこの世界にそんなものがあるのかと、目を瞬いたオレに男が説明をしてくれる。この時期は毎年、何度か嵐がやってくるそうだ。若き王が即位してからは、祝賀が終わった頃に最初のひとつが王都を通過するとのこと。雨風の強いそれは、国を縦断するような形で進むのだとか。
 男はオレがこの国の出身だと知らないのか、それを知らない事を訝る様子もなく教えてくれたが。きっと、これがリエムだったらこうはいかないのだろう。有り得ないと、また不信を招いたに違いない。それがどういう気象現象であるのかわからないが、日本で住んでいて梅雨や台風を知らずに二十三年も生きている者など居ないだろうと同じで。田舎とは言え、あの村もきっと嵐の影響は受けるのだろうから、「嵐? 何それ?」は普通は通用しない事なのだ。
 ああ、情報提供がこの男で良かったと。王様の話よりも確実にオレを助けてくれたオヤジに心の中で感謝をしながら、オレは帰る客に気付き見送りに向かう。
 お気を付けてと送り出し、ふと見上げた空は。
 嵐など来そうにない、満天の星空で。
 相変わらず大きい星々を眺めながら、オレは片割れに語りかける。

 サツキ。
 オレは、何をどうすればいいのだろうな。


2009.04.23
60 君を呼ぶ世界 62