君を呼ぶ世界 64


 神子が生んだ蝶は、長い時を経てもなお、この地で舞っている。
 それはまるで、神子の加護を受けているかのよう。

 何代も前の王の下に神子・ディゴが降りたのは、この国の王都がまだ別の場所にあった時のこと。その頃は今よりも神子は人々の身近に存在し、また今以上に尊ばれていた時代であり、ディゴも王をはじめとする全ての者に大事にされていたのだとか。
 けれど、降臨してたった数年で、ディゴはこの世を去った。
 例年の嵐が王都を直撃し水害に襲われ、その影響で疫病が流行った。神子・ディゴは周囲が止めるのも聞かず、国民の看病に奔走し、病に倒れた。
 彼女が死を前に示したこの場所に王都が移されたのは、今から数百年も昔のことだそうだ。
「決まって親から子供へ語られる昔話のひとつで、時代や地域によって色々脚色されているが、この国の誰もが知っている話だ。俺が子供の頃は、神子・ディゴは癒しの力を持っていて、それを使いすぎて命を失ったというのを一番良く聞いたな。今は神子にそんな神通力はなかったとわかっているが、子供の頃は当然信じ込んで、神子様に憧れたものさ」
 ディゴは、頬に濃紺一色の墨を持っていた。彼女の死後、その墨は蝶へと姿を変え、この地まで飛んできたらしい。
 だから、神子の化身と今も呼ばれるディゴの蝶は、この王都の、この国の象徴なのだろう。
 オレにはその話を聞いてもただの蝶としか思えないが、この国の民にとっては神聖なものであるのだろう。
 リエムの言葉を聞きながら舞う蝶を追いかけ、その羽の片面が青色で、片面が赤色である事に気付く。光の反射によってそれらは、ネイビーブルーからライトブルーへ、ワインレッドからローズレッドへと色を変化させる。
 この国で語り継がれる神子・ディゴの話。この国の出身としているオレにそれを説明してくるリエムは、何を考えているのか。オレを物知らずとしたのか、オレの申告を偽りと判断したのか、それとも深い意味はないのか。
 少なくとも、オレが単純にこの蝶に喜ぶと思っての事ではないんだろう。
 オレから尋ねて確かめる事は出来ないそれに、腹の底で緊張が渦巻くようなじれったさと、頭の隅でリエムになら全てを明かしてもいいんじゃないかという選択が走るけれど。
 だけどオレはまだ、そのどちらも選べない。何も気付かぬよう、何もないかのように、ただリエムの言葉に耳を傾ける。
 卑怯なのか、臆病なのか。そんなオレの前で舞う蝶は、優雅だけれど、どこか冷淡だ。
 オレを異界人と見破り、拒絶しているかのよう。
 そう感じるのは、オレ自身が後ろめたさを抱えているからだろうか。受け入れられる神子とは違い、排除される存在なのだと、オレはどこかで卑屈になっているのだろか。
「この前、メイが言っていた事だがな」
「ああ…?」
 兎に角、舞う蝶は確かに綺麗だけれど。リエムのような思いで見ることは出来ないと。それに気付いた途端、なんだか心だけではなく身体も重くなってしまい、喉に違和感を覚えた。風邪の症状なのだろうけど、言葉に出来ない何かが喉の粘膜に張り付いたかのように感じた。
 だから。
 それに気を取られていて、リエムが何を言わんとしているのか、直ぐには思い至らなかった。
「俺はそれでも、神子が欲しい」
「……え?」
「神子のそれまでの世界を奪うのだとしても、そうして神子や神に恨まれるのだとしても、今この国に神子が居てくれたらと思う」
「……えっと、さ。それって、おかしくないか?」
 池の縁に立ち王城を見上げたまま、何かに宣言するかのようにはっきりと言い切ったリエムに、けれどもオレは首を傾げる。
 だって、さ。神子を望むのは、普通は今以上に恵まれたいからだろう。それなのに恨まれてもいいだなんて、矛盾している。
「じゃあ、リエムは何を望んでいるんだよ?」
 国の滅亡か。それとも、ただ希少価値の高いそれを弄ぶとでもいうのか。
 リエムらしからぬ話に、オレは意味がわからないぞと肩を竦め重ねて問う。
「それをしてどうなるんだ?」
 オレの疑問に改めて自ら問い質すような沈黙を作った後、リエムは遠くへ飛ばしていた視線を戻し、小さな笑いを浮かべて言った。
「さあな」
「……いや、さあなって…何だよソレ」
「理由も理屈もなく、神子を欲する時もあるって事だ」
「意味わかんねぇーよ…」
 欲するのだから、何らかの事はあるはずだろう。
 そう言いかけ、言わずにオレは口を閉じる。リエムにだってオレのように、秘密にしておきたい事のひとつやふたつあるだろう。必要以上に踏み込まれたくない事もあるだろう。
 現実として存在する神子に対しての意識は、この世界の人々と同様に量ることは出来ないけれど。それでもオレだって、大した信仰心もないのに、有事の場合は神サマを呼んだりする。何もなくても、ここに今シェンロンがいたらなだとか、四次元ポケットが欲しいなだとか、そういう欲は乾く事無く抱くものだ。それが日々を生きている人間だろう。
 だから、リエムだって。神子の存在を渇望したとしてもおかしくはない。
 それでも、まあ、何て言うか。
 似合わないと思うんだけど。
「でも、ま、田舎暮らしの狭い世界の中で、神子だの神だのあまり意識してこなかったオレだってさ。こんな風に神子の化身なんて蝶を見たら、流石に思いは馳せるよ。居るのだったら会いたいと思う。リエムと同じように、居て欲しいとも思うな」
「この間はお前、王に神子召喚なんてやって欲しくないと言っていたじゃないか」
「それはそれ、これはこれだ。実際問題としては確かに、王様に召喚なんてして欲しくないさ。だけど、ただ単に神子という存在だけを考えるとだな。力なんてなくても、厄介な存在に成り得る危険性があっても。それでも、居たらいいなぁと思うもんだろ。オレの場合、憧れの有名人に会いたい気持ちや、珍しいものを見たい好奇心とあんまり変わらないのかもしれないけどさ」
 神格化して奉る程のものはオレにはないけど。おお〜、この人が神子か〜、と。一目二目置くくらいの敬う気持ちは持っていると言うものだ。オレだって別に、神子自身を、この世界の信仰のあり方を全否定しているわけではない。
 神子が居ればいいと、オレだって本当に思っているのだ。その存在を尊ぶものが居る限り、神子が居る意味はあるのだから。
 ただ、突然それまでの世界を消されるその理不尽さが、納得出来ないだけだ。リエムだって自分がその立場になるのだとしたら、なったとしたら。嘘でも、召喚に賛同は出来ないはずだ。
 もしも、今、この瞬間に自分が異世界に飛ばされたら。それを仕方がないと思えるのか。割り切れるのか。元の世界で持っていた全てを諦め忘れる事が出来るのか。
 そうリエムに訊いてみたい気がしたけれど、それをする意味が見えなくて。
 オレは、オレの言葉に苦笑するリエムを促し王宮見学を再開する。
 王宮はやはり、丘と言うよりも小さな山だ。
 大自然なこの世界では、この程度の高さでは山とは言わないのか。丘という愛称なだけなのか。それとも、実際、これは丘でしかないのか。オレにここを教えてくれた旅一座の座長の言葉を思い出しながら、それでもやっぱり山だろうと胸中でツッコミを入れる。
 台風一過というように、日差しが強く晴れ渡ってきた空を見上げながら進んでいると、ポツポツと建物が脇を流れるようになってきた。何の誰の屋敷だとかの簡単な説明をリエムはしてくれるが、オレが知る固有名詞は当然ないので、半数以上が右から左に流れていく。だが、貴族サマの名前なんて、覚えておく必要もないだろう。
 街中から見る限りわからなかったが。頂上部分は思った以上に広い場所のようで、上りきった先には王城以外にも沢山の建物が建っていた。勿論、王城が一番大きくて、高いのだけれど。
 幾つ目かの広場になる場所で、雨があがって遊びに出てきたのだろう子供の姿を見つける。建物が目に付き始めた辺りから人の姿を見てきたけれど、子供というのは初めてだ。王宮で暮らしているのならば貴族の子かと思ったが、見た限りそんな雰囲気でもない。
 リエムに訊ねてみると、王宮で働く誰かの子か、オレと同じ訪問者の子だろうとの事だった。訪問者は兎も角、職場に子連れOKとは、懐の広い王宮だなと若干呆れてしまう。危機管理は最早皆無なのではないだろうか。開放的過ぎる。
 それでも、国の中枢が和やかなのも悪くはないさと。他人事だから思えるのかもしれない事を思ったりしている間に、リエムが誰かに呼ばれて「ちょっと待っていてくれ」と駆けていった。見れば、直ぐ側の建物の窓から顔を出しているオッサンと何やらやっている。
 木陰に移動し、木の幹に凭れ待っている間に、早くも遊んでいた子供達が広場から出て行った。
「……元気だなぁ」
 羨んで、オレは元気がないよとしゃがみ込む。…少し、ダルイ。そして、若干脚に身が入っているようだ…。
 二週間の旅で、都会で暮らすのに不必要だったところにも筋力が付いたと思ったけれど。王都に着いて一ヶ月。行動の範囲が大学の敷地内よりも狭い場所では、せっかくのそれも維持出来ていないのだろう。
 明日は筋肉痛かもと思ったところで、リエムが用を終え戻ってくるのに気付く。
 立ち上がろうとしたが立てず、逆にそのまま尻をついて座ってやる。
「悪かった、待たせたな」
「いや、全然いいよ。むしろ、もういいのか?」
「ああ。どうした、疲れたか?」
「別にそうでもないけど、あんまり運動し慣れていないから休憩」
 リエムほども体力はないからさと片腕を出せば、「それはそうだろうな」と簡単に認めながら、引き上げ立たせてくれる。
「じゃ、行こうか」
「あそこに見えるのが兵舎だ。手前に鍛錬場がある、覗いてみるか?」
 リエムの誘いに、邪魔にならないのならと答えた先から、またもやリエムに声が掛かる。今度は用があるわけではなく、ただの挨拶のようで。
「人気者…?」
「そんな訳があるか」
 敬礼するまだ十代だろう若い兵士に片手を上げる隣の姿にそう零すと、呆れるような笑いを落とされた。
 いや、オレはマジで言ったんですけどね。

 リエムの側に居るからというのもあるのだろうが。
 王宮は、想像していたのとは比べ物にならないくらい、柔らかい場所だ。


2009.05.07
63 君を呼ぶ世界 65