君を呼ぶ世界 66
確かにオレは、会いたいと。
触りたいと、撫でたいと、そう思っていたけれど。
ななな、なな、な、何だ、コレ。
何だよ、オイ。
何がどうなってんだよ…?
オレは、自分を押し倒した獣を唖然と見上げ、ただそんな事を思う。
これは何なんだと。兎に角、それ以外には考えられない。
オレの肩に前足を掛けて押し倒してくれているのは、こんな近くで触れ合うのは初めてな、ドでかい白い虎。そいつが、オレの顔を検分するかのように覗き込んでいるのだから、他に思考が働くわけがない。
頭の奥の、そまた奥。何だこれ!?の裏側では、触れ合い動物園かよ!とか、誰のペットだふざけんな!とか、こういうのはテレビで見るのが一番だとか、直に触れ合うのはやっぱり止めておくべきだとか。今はどうでもいいような事が走り回っているような感じだが、それを拾い上げる余裕はない。
ただただ、ホント。
意味がわからない状況で。
人生初の生ホワイトタイガーに圧し掛かられて、驚く事しか出来ない。じっと見てくる青い目を、理解出来ないまま見返して――
「――ヒッ!」
驚愕の中で浸かりかけていたオレは、けれども不意に見つめる先の目に意思が沸いたのを感じ取ってしまい、一瞬で恐怖の中へ掛け落ちた。急に威圧がました存在に、全身が震えだす。
息さえまともに出来ない。
空気は口の中を行き来するばかりで、肺にまで届かない。
「…ぁ、あ、あッ」
いきなり現れた虎に驚きすぎたからこそなのか、ただオレを押し倒しただけのような雰囲気で、獣自体を厭う感情は湧いていなかった。それなのに。唐突に示された敵意。それを感じられる程に、自分が状況を見極められる程に思考が働き始めたのだとしても、全くもって嬉しくない。
こんな恐怖を味わうのならば、ぼんやりしている間にヤられる方がマシだ。
喰われる。
殺される。
かもしれないなんていう可能性を根こそぎ奪うような目でオレを見下ろしている虎が、薄くその口を開き、口腔の中で光る牙を覗かせた時。
オレの中で、何かがキレた。
「うああああぁぁぁーーッ!!」
自分の口から発せられる絶叫は、けれどもとても遠くのように聞こえるもので。
そんなことよりも、ただ逃げたくて。死にたくはなくて。
「アッ、ヤッ、は…はな、せ…!」
逃げようと身体を捩る。腕と脚をばたつかせる。
だけど、がっしりと押さえつけられた肩は二の腕さえも上げられない程で。オレに出来るのは、辛うじて肘をまげて太い獣の脚に手を掛けることだけだ。頭を守る事も出来なければ、それを押しのける事も出来ない。
自由だった脚も暴れた瞬間に押さえられ、打つ手がない。
それでも、諦められず筈もなくもがいていたからか。
威嚇するように、獣が低い唸り声を上げた。喉ではなく、口の中で音を上げているような篭ったそれが、オレの耳だけではなく身体に響く。そして。
「――ッ!」
身体が不自然に固まったオレを、凍えるような青い目で見下ろした獣は。
次の瞬間には口を大きく開き、吼えた。
牙を剥き出し、真っ赤な口内を見せつけるように、オレに向かって怒気を叩きつけてきた。
グワーンなのか、ガオーンなのか、最早聞き分ける気力などオレにはなくて。ただ、その勢いに飲まれるよう、振動する空気に思考も視界も何もかもが揺さ振られて見えなくなる。
「……」
終わった、と。オレの人生はコレで終わりなのだと。
喰われて死ぬのだと、目の前が暗転する。
…身体が、重い。
もう、浮上は無理だ……。
極度の恐怖か、緊張か。骨も肉も内臓も、ギュッと無理やり縮められたような圧迫に激しい痛みを覚える中で、そうして終わりに片足を突っ込んだオレだけど。
「ウッ…!!」
肩と脚に掛かった激痛で意識を呼び戻された。
余裕がなかったからだろうが、押さえつけられていたにもかかわらず、先程までその重みすら感じていなかったというのに。獣が不意に飛び上がったらしく、オレの体を躊躇いなく踏み付けて、その身体をオレの上から退かした。何キロあるのかわからないが、その反動で食らう圧力は相当なものだろう。
だけど、痺れるような痛みになど、今は構っていられない。
今がチャンスだ。
「は、はァ…」
息が上がりきっていて、身体は筋張ったように固まっていて、スムーズになんて動けはしないけれど。それでも、腕と脚があるのならば、無理にでも動かして、この状況から逃げねばならない。
離れた獣が気になったが、確かめる余裕はなく、それ以上に知りたくもなく、オレは兎に角逃げなければと身体を捩る。反転し腹ばいになり、必至で腕と足を使って体重を支える。
逃げなければ、喰われてしまう。
だが、そんなオレを笑うように。腕と脚は震えていて、力が入らない。
生まれたての小鹿か、子ヤギか、子羊か。何であれ、それらの方がマトモに動けるだろう。
それでも、必至で腕を伸ばし、顔を上げる。獣に襲われるのならば、ここが二階であっても手摺を乗り越える方がマシだ。
もう消えたのか、角度が違うからか。壁も窓もないお陰で、床に這いつくばっても見える広い空に虹はない。けれど、今のオレにある唯一の希望はそこだ。そこにしかない。
喉が焼け付くように痛い。口内も切り刻まれたようにひりつく。身体はとにかく重い。脚も腕も伸ばすたびに千切れていっている感じだ。それでも、オレが助かるのは、そこでだけだ。
そう、それこそ死ぬ気で。この床が行き着く先の、その向こうを望んだのだけど。
「ぅ…ああッ!!」
たった数歩の距離を進み終える前に、背中に衝撃が来た。身体を支えきれずに崩れ落ちたところで、今度は右肩に圧力が掛かる。
「クッ、アッ!」
先程押さえ込まれた非ではない激痛が右肩を襲った。目の奥で火花が飛ぶ。痛覚を引き毟ろうかというようなそれに、オレは肩を床に押さえつけられたままのた打ち回る。
左手をそこへ伸ばして触れたのは、固い感触。
あの獣じゃないと気付く前にその手を除け払われ、右肩への圧迫が消えた。
だが、息を吐く間もないまま、今度は左肩に力が掛かり。
「…ッ!」
オレは、床から剥がされるように、体を反転させられ。
背中が床につく前から、煌く白銀の刃を突きつけられる。
日本刀のように細身なそれの切先は、オレの眉間に固定されていた。
虎の牙よりもわかり易い、絶体絶命第二段だ。
「何者だ、答えろ」
「……ッ、ァ」
何者だと、言われても。喉が機能を放棄したようで、上手く声が出ない。揺るぎない刃が、思考を奪おうとする。
だが、それでも。相手が人間に変わった安堵が浮かぶのも事実で。
落ち着けと。獣と違って意思の疎通が可能なんだからと。何故か同じように敵意を向けらているのをわかりつつも、オレは心の奥底から広がる安心感に肩で息を吐く。
けれど。
「答えろ」
「…………」
落とされる声に救いになるようなものは、微塵もなかった。
確かな怒りを静かな声音で包んだその冷淡さに、先程の恐怖とはまた違う感覚で身体が固まっていくのがわかる。
それでも、オレは目の玉だけを動かして、突きつけられた凶器を伝ってそれを持つ相手を確認する。
オレを捕らえているのは、若い男だった。
男の向こうには、あの獣が居る。白い虎が、得物であるかのように変わらずオレを見据えている。
……って、アレ? 白い虎って…確か――。
「神子ではないお前に、猶予を与えるつもりはない」
オレが想像している聖獣と同じじゃないかと、漸くその可能性に気付きかけたところに。答えねば殺すとでも言うように、男はゆっくりと刃先をオレの喉へと動かし、そう宣言する。
まるで、神であるかのように、絶対的なそれは。
オレの命を握っていた。
2009.05.14