君を呼ぶ世界 67
聖獣と思しき動物に襲われかけたと思ったら。
今度は、人間。
そう、白い虎と言えば、聖獣だ。…オレの想像とは全然違うので、あまり認めたくはないけど。一応、まあ、そうのつもりにしておこう。
で。
聖獣だとしても、所詮は獣。動物に、その行動の是非を説くのは難しい。だから、その巨体で人間に飛びついたというのも、まあ仕方がないなァと思える。思ってもいい。
だけど。
同じ人間が、いきなり襲い掛かってくるというのはどうよ? オレは丸腰どころか、明らかにデカイ獣に襲われピンチな状態だったというのに。続けて刃を向けるというのはどうなんだ!?
一体どうなっているのか、何が言いたいのかわからないけれど。
この男は、非道だ。血も涙もない男だ。これがリエムだったら、理由はどうあれまずは助けてくれるのだろう。
しかし、今は、そのリエムはいない。
そして、この男は。訳がわからないからと、突っぱねられる相手でもなさそうで。オレは、本気のホントで、命が危ないようだ。
でも、オレだって。気迫で負けようが、実力行使に出られようが、こんなところで命をやる気は更々ない。
いや。どんな状況だってやる気はないけど。
…ていうか。
はっきり言って、言葉がわかるとはいえ混乱度合いが逆に増す相手なのだから、最早救いなどどこにもないと。獣よりも厄介じゃないかと。そもそも、聖獣かもしれないとはいえ、あの虎の放し飼いに危機を感じないのだから、何であれ男に助けを期待しても無駄だろうと。非常識人間なはずだからそこは諦めねばと。
兎に角、混乱を落ち着けようとしてか、ひたすらオレは目の前の男の欠点を頭の隅で上げてみる。考えなくとも突っ込むとこだらけなので困りはしないが、逆にありすぎて止まらない。
こんなに高圧的に、意味不明なことを言って、命を取るかのごとく剣を突きつけられるなんて。許せられるわけがない。そもそも、何でオレが糾弾されているんだよ。なんだよ、この男と獣は。オレは、お前らの親の仇かよ!?
虎が相手の時は頭の奥の奥で縮こまっていた怒りが、ひとつ浮上させた途端ポンポンと上がってきて、ぐるぐると頭の中で回りはじめる。
けれど、それでも、それ以上に。
男が口にしたその言葉が何故か身体を震わせて、肌が粟立ち、考えもせずに勝手に口からそれが零れる。落ちた後で、グチャグチャな思考の向こうで、その言葉を認識する。
「……神子?」
言葉にして、漸くはっきりと飲み込めたそれは。腹立たしく喚いている頭の熱とは逆で、身体の中に無理やり冷たい氷を落とされたような、そんな不快さを俺に与える。
神子って、何だ…?
何故、そんなものが出てくる? 神子が何だっていうんだ?
神子じゃない者なんて、ゴマンと居るだろうに。どうして、オレだけがこんな仕打ちを受けている…?
「なんで…」
「質問しているのはこちらだ、間違えるな」
それ以外は許可していない、と。一瞬、淡々とした口調に思えるそれは。けれども向き合っていれば、確かな憤りが見える声音で。
「…………」
虎のように、はっきりと噛み付くように吼えられるよりも恐ろしく感じられるのは、同じ人間だからこそなのか。
それでも、腹の底から湧きあがる恐怖から目を逸らし、オレは肩で息を吐く。落ち着くなんて無理だけど、落ち着かねばならないようだ。現状を理解する為には、それが不可欠のようだから。無駄に突っ込んでいる場合ではない。
獣に押し倒されたのは、ただの事故。だが、この男はどうやらそうではないらしい。部外者だから見咎められたとかでもなく、こいつは、オレを何かで認識して責めてきているようだ。そして、何と見ているか全くわからないけれど、この男にとってそれは気に食わないことなのだろう。
ならば、それがもしも誤解であったのならば、オレは助かるんだよな…?
まさか本気で、神子じゃないという理由で責めているわけでもないだろうと。ホンの少しだけど見えた希望に、驚愕と恐怖を捨てて、意思をもってオレは男を見上げる。
こんなところで、馬鹿げた理由でやられるわけにはいかない。
何より。リエムが戻ってくれば、少しは状況も改善するだろう。それまでは、時間を稼がねば。
「答えろ。王宮の者ではないのはわかっている」
オレの決意を察したわけではないだろうが、パニックが少し引いたのを感じたのか、男は言葉を足してオレに正体を問う。だが、そこに譲歩した感じはない。あくまでも、オレから話を聞きだすために妥協したといった感じだ。その雰囲気のキツさは一ミリも変わっていない。
オレと幾つも変わらない歳だろうに、何てつまらない顔をしているのだろうか。これでは、人生何も面白い事などひとつもないのではないだろうか。だから、こんな風に人に当然のように凶器を突きつけられるのだ。
最低な男だとそう蔑む事でどうにか息を整え、オレはゆっくり口を開く。
それでも、どれだけ奮い立たせようとも、オレの声は震えて擦れていた。だけど、この状況で出せるだけでもマシだろう。
当たり前だが、剣なんて突きつけられるのは生まれて初めてなのだから。
「……王都で、暮らしている…ただの、田舎者だ」
「ここで何をしている」
「知り合いに、連れてきてもらった。…見学していただけだよ」
「神子ではないな」
「あ、当たり前だ…!」
だから何を言っているんだと、思わず気色ばんで言い返したが。ふざけた質問をした割には冷めた表情ひとつ変えない男の威圧感に飲まれ、オレの勢いは直ぐに萎む。
こいつ、本気でそこに拘っているのか? オレをその理由で責める気か? 何かの言質でも取るつもりかよ…?
「…オレは、そんな者じゃない」
「……」
「…ア、アンタだって、神子じゃないだろ。オレが違うからって、何だって言うんだよ……大抵の奴らは、そうじゃないだろ」
当たり前な事なのに、何故こんな話をしているのか。
馬鹿らしい。だがそれ以上に、必至で男が納得する言葉を、退いてくれる言葉を捜している自分が情けなくて。
もう何がなんだかわからなくなり、全てが一瞬遠のいた。
喉元にある刃を忘れたわけではないが、身体を支える力も抜けて。オレは床に後頭部を落として高い天井を仰ぎ見る。
「…神子じゃないからって、何だよ……」
それとも、ここは神子以外は立ち入り禁止区域だとでもいうのか? オレが神子であるべきだとでもいうのか?
そんなわけないだろうに、ホント、何だって言うんだ。
「アンタは、神子を――探しているのか…?」
眼球を動かして見やった男の顔は、相変わらず怒りと固さばかりが目立つものだったが。
「……」
そこに、何故か自嘲気味の笑みを見た気がして、オレは目を瞬かせる。だが、一瞬で消えたそれは、次に向けられた言葉でオレの頭から飛び去った。
「聖獣は、お前から神子の力を感じた」
「…………えっ?」
「だが、お前は神子ではない」
「……あぁ」
「何故、お前から神子を感じる?」
「…………」
直ぐに紡げる言葉はなかった。
なるほど、だからかと。そんな理由があったから、この男はオレに問うているのかと。その訊き方は間違いだらけではあるが、向けられるのは納得出来て、漸く全てではないが腑に落ちる。
つまり、この男はやはり神子を探しているのだ。神子召喚の実行者か、ただ不可思議な現象が起こっているから気になっているのか、どちらなのかはわからないけれど。オレにその気配を感じるのは錯覚ではないと、確信しての強引な行動なのだろう。
だけど。
確かに、オレは来訪者でありながらも喋れるのだから何らかの神子の影響を受けていて、その気配が今なお残っていてもなんら不思議ではないのかもしれない。そう、男の読みは正解だ。でも、それをこの男に言えるわけもない。
オレが正直に話しても、今はもう一人もいない神子への手掛かりになるのだと納得して大事に扱うなんて事は更々なさそうだ。それこそこの勢いでは、ただの異界人だとバレたら打ち捨てられるかもしれない。
解くべき誤解は、誤解ではないようだけど。
それでも、誤解だと誤魔化さねば。俺の命は更なる危険に晒されそうだ。
「……そ、そんな事は、知らない」
大体、聖獣が神子を感じられるのならば、残り香であるオレに構っていずに本体である方を探せというものだ。もしくは、オレがその手掛かりならば、もっと下手にでて丁寧に聞け。例えばリエムのように好意的に接してくれたのならば、オレだって正直に全てを話したかもしれないのに。
ここまで敵意を見せられては、とてもじゃないが無理だ。
何より、もしもこいつが本当に召喚を行なった者で、それでオレがこの世界に来たのだとしたら。一発殴る程度では全然気が済まない。オレだって神子を探し出したいとは思うけど、こんな奴には協力出来る筈がない。
何もかもこの男がおかしいんだと、負けないように自分を正当化しながら、オレは嘘を口にし強気な振りをして言い放つ。
「その聖獣ってやつが間違っただけだろうに、…冗談にも程がある」
「……何だと?」
「神子神子煩いんだよ、アンタ! 何だよコレは! そんなふざけた理由でこんな事をしているなんて、馬鹿じゃないのか!いい加減退けろッ!!」
「…………」
オレの暴言なんて、この暴行に比べれば可愛いものであるのに。
スッと目を細めた男が、無言で剣を持ち上げた。遠ざかった刃先にホッとする間もなく、それは真っ直ぐとオレに向かってくる。
マ、マジっすかッ!?
「ヤッ……!」
ヤメロ!と叫びたかったが、再び驚愕で詰まった喉が、その勢いを身体に戻したのか息まで止まる。声なんて出ない。
恐怖と苦しさに目を閉じたオレの側で、カキンッと高い音が上がった。
スルリと首を何かが伝う感覚に、ゾワッと肌が粟立つ中でオレが瞼の裏に見たのは。
男の、苦しげな青い瞳だった。
2009.05.17