君を呼ぶ世界 68
この男にもそれがあるように。
オレにも、譲れないものがある。
「これをどこで手に入れた」
不可解な瞳に意識を向ける間もなく、声を掛けられ瞼を上げたオレの前に晒されたのは、今となっては元の世界との唯一の繋がりでもある片割れのペンダントだった。
「……なっ!」
この騒ぎで服の下から飛び出ていたのだろうそれを切られ奪われたのだと理解した途端、頭が熱に襲われる。
首の横からは、こちらに刃が向いた細い剣が伸びていた。だが、それよりも対峙する男に大切なものを奪われたショックが襲ってきて、怖れなどは微塵も沸かない。
「か、返せッ!」
どんなに切れ味抜群であろうとも、剣などどうでもよかった。
危ないなどと考える余裕も余地もなく、邪魔だと左手で払い除け、右手で身体を支えてオレは上半身を上げる。剣を退かした手を、そのままペンダントへと伸ばす。
だが、その動きは男の素早い動きで止められた。覗き込むようにしてオレの前に突き出していた手で、オレの左手を払い床へ打ち捨てると、一瞬の間もなく片足で肘を踏みつけてきた。そして、剣を再び手に取り、オレの顎と首の境目に押し当てる。
冷たいそれに、肘に掛かる重みと痛みに、足の先から震えが駆け上がってくる。
けれど、それでも。
それだけは譲れない。なくせはしない。
命よりも大事だなんて、軽口でも言えないし。生きているというのは、何よりも価値があることだわかっているけど。オレにとってはそれでも、サツキの石がなければ生きていく意味がない。意義がない。それ程のものなのだ。
腕の一本捨てようが、なんでもない。
血が流れようとも、構わない。
「動くな」
「煩い! 返せッ!」
剣が首に食い込む感触に喉を詰まらせながらも、オレは右手を伸ばす。
「…これは、お前のものじゃないだろう」
「オレのものだ!」
「神子の玉だ」
「違うッ! そんなものじゃない!」
遠ざけられた男の右手で揺れるペンダント。あと数十センチなのに届かない伸ばした手で、オレは男の肩を打つ。
「何が神子だ! ふざけん――アァッ!」
そのまま腕一本で男の身体を押しやろうとした瞬間、肘を踏む足に体重をかけられた。先程、獣に乗られた時よりも掛かっている圧力に、オレの口から当然悲鳴が上がるが。男は表情変えずに、更に踏み付けてくる。
「ァッ、ク…」
折れるッ! 折れるッ!
このままじゃ、絶対、折られるッ!!
激痛の中、無意識でオレは自分の肘を踏む男の足を掴み、声にならない声で叫んでいて。いつの間にか剣を遠ざけられていた事も、獣が動いていた事も、足音が響いていた事も気付いていなかった。
「…ク、…クソッタレがぁッ!!」
火事場の馬鹿力の如くに掴んだ男の足を薙ぎ払ったのだが、ほんの少しの差でそれは自ら先に動いたようで。抵抗もないそれに、え?と驚いた時には、その足はオレが浮かしていた右肩に掛かっていた。
「…ッ!」
鎖骨を狙うように置かれた足がオレを倒し、床へ縫い付けられる。再び剣が、顔の横に置かれる。
だが、詰まる息の中で見上げた男は、オレを見ていなかった。
「聖獣」
色のない声でそう言い、小さく腕を振ったかと思うと。男の手から放たれたペンダントが弧を描いて飛び、出入り口近くに移動していた獣の口の中へと消えた。
あ。やっぱりこの虎が聖獣なんだ――なんて、思う余裕もない。痛みも忘れて、ただただ唖然とする。
…まさか、喰ったんじゃないよな?
もし喰っていたなら、その腹掻っ捌くぞッ!
聖獣だろうがなんだろうが知ったことじゃないからな、覚悟しろよ!と。
あまりにもな事態に、我を忘れ動物相手にそう叫びかけたところで、獣の背後にバタバタと人が雪崩れ込んできた。
「一体どうしたというのですか、陛下ッ!」
「聖獣さままで…! これは、何事ですか!?」
明らかに兵士だと思える若い男達が入ってきたと思えば、正装のような格好をした壮年の男ふたりが続きそれぞれに口を開く。そして、また帯剣した男達がバラバラと。一気に部屋の人口密度が増す。
そんな中で、オレはといえば茫然としたまま床に押し倒されていて。
オレにそんな事をしている男は、平然とかけられた言葉に答えている。
「騒ぐな。下がれ」
「しかし、陛下…!」
「陛下、この者は一体…?」
「下がれと言っているのが聞こえないのか、ラム、カーチ。お前達もだ、衛兵。全員、出て行け」
顎を一振りした男に食い下がったのは壮年のふたりだけで、兵は直ぐにその命令を実行した。意外に静かな足音で、素早く部屋から立ち去る。
「お前達は何度言わせる気だ」
「お言葉ですが、陛下。この者をどうするおつもりですか」
「見ればまだ子供。如何なる咎でそのようなことを…」
どうか剣をお納め下さいと、男達はオレを助けるかのような言葉を口にする。だけど、悪いがそれは全然オレには響いてこない。男達に咎められたからではないだろうが、男の足が肩から離れても、オレはそのまま男を見上げる。
陛下ってことは。
こいつが、この国の王様だってことだ。
そして。
「……」
顔を動かし見やる。相変わらず、威圧感を撒き散らす、白い虎。
あの獣が、この国の、この男の聖獣。
「…………」
全く考えないわけではなかった。それでも、それは真実にはとても遠かった。こと、男に関しては予想すらしたくなかった。
それをこうして突きつけられて、何を考えればいいのか最早わからない。
ただ、思うのは。
オレに残っているのは。
相手が王様だろうと、聖獣だろうと。サツキの石は渡せられないという事だ。
「…返せ」
もの凄く、身体が重い。もうどこがどう痛いのかわからないくらい、軋んでいる。
けれど、オレは立ち上がり、戸口からこちらを見ている獣を見据えて足を踏み出す。
「返しやがれ、このクソ聖獣ッ!!」
激しい焦燥感に押し潰される感覚が身体の重みとリンクし、精神的にも肉体的にも崩れそうになるが、崩れるわけにはいかないんだと。重すぎる身体に気合を入れるよう最後の力を振り絞って叫び、必至で駆ける。
だが、足は限界に来ていたのか。数歩も行かないうちに膝が崩れた。
まるでスローモーション画像のように迫ってくる床に、手を伸ばそうとするがそれさえも上手く動かない。神経系統がショートしたのか、身体が言うことを聞かない。
ぶつかるな、と。そういえばオレ、体調が悪かったんだと。
だからもう仕方がないなと、瞼を落としたところで身体に衝撃が来た。
「メイッ!」
声は、後から届いた。もしかしたら、もっと早くから呼びかけてくれていたのかもしれない。
「大丈夫か、メイ!?」
床のような痛い衝撃ではなく、優しいそれに、馴染んだ声に、安心して飛ばしかけた意識を何とか呼び戻し、オレは小さく頷き顔を上げる。
心配げに覗き込んでくるリエムがそこにいた。オレを受け止めてくれたのは、待ちに待った男だった。
一気に安心感が広まり、オレは大きく息を吐く。
…ああ、良かった。
助かった…。
2009.05.21