君を呼ぶ世界 78
だから、オレは。
今オレに出来る事をする。
本心を言えば、今なお、脱走なんて気が進まないけれど。脅されてしょうがなくながらも、もう既に牢を出てしまったのだから、こうなれば捕まらずに街まで帰るべきなのだ。桔梗亭に戻って、女将さんとエルさんに相談しよう、そうしよう。オジサンは直ぐに王都を出ろと言ったが、流石にそれはムリだろう。もし追っ手を放たれたなら、オレなんかが上手く逃げ切れるはずもない。でも、逃げなければならないのならば、逃げる。本当に、それしかないのならば。
理想としては、女将さん達に判断を仰ぎ、桔梗亭にリエムが来てくれるのが最高だ。更に付け加えるならば、リエムが俺を守ってくれればいいのだけど。王宮に戻らなくて済むように取り成してくれれば万々歳なのだけど。流石にそれは、望みすぎか。それをしては、王宮勤めの兵士の立場がないだろう。
まあ、兎に角。王都を出なければならないのならば、出る。命は惜しいし、このまま負けるのは悔しいから。だから、サツキの石の奪還は、とりあえず保留だ。自分自身の体制をまずは整えて、対策を練ろう。オレが言葉に不自由はない来訪者だとわかっている爺さんならば、変わった案を生み出してくれるかもしれないし。
何にせよ、オレは何をするにしても知識が乏しすぎるのだ。オレだけではどうにもならに。
そう、王様の居場所ひとつ教えてもくれない男について行きながら、迷いの残る心を「まずは無事に桔梗亭へ行くんだよ!」とオレは蹴り動かしていたのだけど。
その努力を吹き飛ばすくらいの事態が、思わぬ形で発生した。
これはもう、神様がオレで遊んでいるとしか思えない。
男の後について廊下を進んでいたら。不意に男が立ち止まって、困ったように言ったのだ。
このまま庭に下りて、ひとりで進んでくれと。少し行けば協力者の侍女が居るから、彼女について行けば問題なく王城を出られるからと。そう言って、街まで付き添うのかと思った男がオレから離れたのだ。
突然、どうしたのかと思えば。どうやら、逃走に邪魔になる人物が近付いていたようで。男の言葉に従い庭に下りたところで、廊下を曲がって行った男が誰かの足止めをしている声が聞こえた。
よく人が近付いているのに気付いたなぁと、普通に感心しながらも。折角男が助けてくれたのにグズグズしているのも何なので、内心では独りなのを不安に思いながらもオレはその場を離れた。周囲を気にしつつ、男の言い付け通り俯きがちに顔を伏せて先を急ぐ。
少し行くと、右手に王城から続く小さな建物が出てきた。その手前の木の陰に、オレが着る上着と同じものを着た女性が立っていた。彼女がそうだろうと、真っ直ぐ歩いていたのをそちらに修正しかけたオレの耳に、何処からか声が届いてきた。
それは、とても遠くからで。何を言っているのかわからなかった。
ただ、一気に緊張してしまい、考えるよりも早くに廊下の下に身を屈めてオレは隠れた。でも、耳を澄ましてみて、見付かるほどの距離ではないと気付いて、恐る恐る身体を伸ばしたのだけど。
「ッ…!」
気になってそちらを窺ったオレの眼に飛び込んできた人物に、オレの頭の中から一切の事がすっ飛んでしまった。
覗いた廊下の突き当たり。偶然にもそこを横切ったのは、あの王様に付き従っていたオヤジ二人のうちの一人だった。顔なんてよく見えなかったし、オレだってそんなに覚えていないのだけど。雰囲気が、その感覚が、オレの中で見事に一致し、他の誰かとはもう思えなかった。
あのオヤジだ!と思った瞬間には、オレは庭から廊下に飛び上がって、一気に数十メートルの距離を駆けていた。突き当たる廊下の一歩手前で立ち止まり、そろりと顔だけを出して見る。そこも長い廊下であったが、さっきまで歩いていた庭に面したひらけた通路ではなく、きちんと外壁があるものだった。だから、オヤジの姿はなかったが、こちら側のどれかの扉に入ったのだろうと少し待ってみれば、一分もしないうちに直ぐ近くの部屋から出てきた。
戻ってくるかと一瞬焦ったが、オヤジは逆に進んで行き、見張るオレには気付かなかった。オヤジの姿が充分遠ざかり、曲がった角を確認してからオレは廊下へと出る。
オヤジが何処から出てきたのか。確認しようと近付いてみれば、そこは扉がない小さな部屋で、ガラクタ置き場のような感じだった。物置に何のようだったのだろうか。掃除でもしているのか? 王の側近が?
疑問は浮かんだが、考えても答えなど見つけられそうにもないので、オレは早々にそこを離れる。
オヤジを追えば、あの王に近づける。あの王の近くに、サツキの石がある。そんな風に片割れへの手掛かりを見つけて、思わず飛び出してしまったけれど。この近くにあの王様は居るのだろうか。見付けるまで、このまま見付からずに尾行なんてオレに出来るのだろうか。
オヤジが曲がった場所へと足を向けながら、オレの頭には不安が駆け回るけれど、足は止められない。本当は、このまま戻って、あの侍女に外へ連れ出してもらう方が賢いとわかっているのだけど…一分でも、一秒でも、サツキの石を早く取り戻したいと思う気持ちがここに来て一気に膨らむ。
やっぱり、今は取り戻せないのだとしても。せめて、無事である事を確かめたい。
オレは別に、王様に食って掛かりに行くわけじゃないんだから。ちょっとくらい大丈夫さ。
大丈夫。
全く根拠がないどころか、危険であるのを十分に承知しながらもオレはそう自分に言い続けて、オヤジが消えた角を曲がった。そこは、直ぐにまた突き当りが別れ道になった短い廊下で。慌てて数歩の距離を駆けて、オレはその向こうの廊下を窺う。
左右どちらを見ても、オヤジの姿はなかった。近くにはドアもない。
「……どっちだ?」
さて、右にするか、左にするか。
小さな窓の向こうを眺め、紅く染まり始めた方角に決め、右の道を選ぶ。こちらならば、あの侍女が待つ方向に戻るはずだ。こちらでオヤジが見付からなければ、適当に外へ出てあの小さな建物を目指して行けばいい。
そう思い、ただ人に会わないように気を付けて、進んでいたのだけど。
廊下は思ったよりも、あの庭とは平行でなかったのか。頭で描いた地図が間違っていたのか。オヤジを見つけられないまま、適当に横道へと反れて修正を計ってみたのだが。思ったような結果は待っていなかった。
何とか辿り着いた庭は、先程とは何だか違うもので。暫く歩けど城壁は見えず、それどころか緑が広がるばかり。
「……おかしいな…」
かなり先まで真っ直ぐ見通せる廊下に惑わされたのかもしれないと。城の内装を碁盤の目のように描きここまで来てのこれに、オレは自分が迷った事を確信する。余裕なんてない事態だったとは言え、もっと位置を確認して進めばよかった。折角、報告をつかめる太陽は出ていたというのに…。
思わず、深い息を吐き尽くし、脱力する。
けれど、参ったなと膝を折りしゃがみかけたところで、随分遠くにだが人の姿を見つけた。明らかに兵士だ。
衛兵か何かかは知らないが、接触は避けねば。
逸る気持ちを抑え、不自然にならないようゆっくりと、兎に角目立たないよう緑に隠れるように移動する。体調ばかりのせいではなく、気付けば心臓が痛いくらいに脈打っている。
サツキの石を取り戻そうと奮起したというのに。オレは早くも、その片割れに心の中で助けを求めていたりする。
どうか、見付かりませんように。捕まりませんように。オレを守ってくれよ、サツキ。
ついでに、さ。お前の石が何処にあるのか、教えてくれないか? 絶対取り返すから。お前だって、あんな奴と一緒に居たくないだろ?
頼むよ、頼む。マジでお願い。誰も来るなよ、来るんじゃないぞ。あのクソ王、さっさと石を返して、オレを解放しやがれっていうんだ。っていうか、あのオジサンの部下クン、オレを探してくれているのかな…?
庭には身を潜めるところは多いが、上からは丸見えだ。でも、中に戻れば、咄嗟に隠れる事は出来ない。この侍女服は、何処まで効果があるのだろう。廊下で誰かと無言で擦れ違う事は可能なのか?
ああ、どうしたらいいのか、全くわからない。
そう焦る気持ちを少しでも落ち着けるように、サツキに語りかけたり、王様を詰ったり。オレを逃がしてくれた男に、こんな事になってごめんなさいとひたすら謝ったり。騒がしすぎる心と、時間が経つたびにどんどん膨らんでいく緊張と、ダルイ身体を抱えて、オレは建物伝いに歩いたり、庭の木に隠れたりしながら兎に角進む。
動き回れば回るだけ、ドツボにはまっているような気がするけれど。誰に見付かるかわからない状況で止まることなど出来やしない。
けれど、いい加減。太陽も赤く染まり沈み始める頃には、オレの体力が限界にきて。
とりあえず人気のなさそうな、建物から離れた茂みに隠れるようにして腰を下ろす。
膝を抱えそこへ顔を伏せ、上がってしまっている息が落ち着くまで、オレはじっとしていた。…っていうか、座った途端脚のダルさに膝が崩れて、正確に言えば立ち上がるだけの気力が出ない。
薬の効果が切れたのか、それ以上に体調が悪化したのか…。
腰帯に男に貰った薬があるのを思い出し、オレは座ったままそれを取り出そうとノロリと動く。
だが、頭を少しだけ上げ、両手を腰元へ持っていった姿勢のままで、オレは見事に固まった。
当然だろう。
いつの間に近付いてきたのか、誰かのブーツがオレの前の地面を踏んでいるのだから、驚いて当たり前だ。
「…………」
フリーズしたまま黒い長靴を眺めつつ、どうしようかと頭の隅の方でちょっと思うがそれも直ぐに消えて、絶体絶命な状況に思考まで働くことを止めてしまう。
ああ、終わった…。
……。
…………ん?
んん??
逃亡の失敗に、絶望と安堵がない交ぜになった感情に晒される中でふと気付く。
何故か、前に立つ人物は動きもしない。
は? 何? どういう事?
どうしてだと、オレはゆっくり顔を上げ、相手が何者かなのかを確かめる。
「…………」
そこに居たのは、見知らぬ兵士だった。
兵服を着た太った男が、目を丸く見開いた状態で、オレ以上に固まっていた。
だけど、何故かその顔は。
今にも泣き出しそうなものだった。
2009.06.25